文化勲章受賞者 相良守峯東大名誉教授のお土産

64回卒(昭和32年)庄司英樹 
 
 母校を語るときに必ず話題になる先輩の一人に文化勲章受賞 東大名誉教授の相良守峯先生(明治28年―平成元年)がおられます。
 鶴岡市若葉町生まれ。荘内中学校、第二高等学校、東京帝国大学独文科卒のドイツ文学者、ゲーテ研究の権威で「木村・相良独和辞典」「大独和辞典」など独和・和独辞典の編纂で著名な方です。

 創立百周年事業として山形東・米沢興譲舘同窓会が記念のテレビ番組を制作しており、県内三番目に古い歴史をもつ母校も鶴翔同窓会として「叡智の殿堂 鶴岡高校」を制作・放映することになりました。
 山形放送が受託制作と決まり、母校出身の社員で制作チームを編成し企画・構成について同窓会の了承を得て1年余の取材をして創立百周年記念として放映しました。

 この番組では、著名な先輩に母校の思い出と後輩への助言を語ってもらいましたが、相良守峯先生もその中のお一人です。
 東京・世田谷のお宅に伺いお話をお聞きして帰るときに「お土産になるでしょうか。もし使い道があったらお持ちください」と「庄内 自然と人文」と題した原稿を下さいました。400字詰め原稿用紙数葉をホッチキスではなく、先生自ら和紙を撚ってつくった「こより」で綴じてありました。 「ぜひとも有効に活用させていただきます」とありがたく頂戴してきました。

 「庄内―自然と人文」はさっそく山形新聞の夕刊の文化欄に掲載してもらう一方、母校に相良先生の「書」はあるかどうかを中村昭太郎校長先生に尋ねたところ、色紙が一枚あるだけとのことでした。
 そこでこの原稿を母校に寄贈し在校生だけでなく、同窓生にも「直筆の原稿」を見てもらうことにしました。ところが、山形新聞に相良先生の原稿が掲載されると県立図書館から「目下建設中の遊学舘に郷土が生んだ先人を紹介する「県人文庫」コーナーを設ける計画があるが、ここにぜひとも先生の貴重な直筆の原稿を展示しておきたいので寄贈してもらいたい」との申し込みがありました。
 どうするか迷った末に、当初の予定通り「この原稿は母校の百周年記念番組制作でお土産にもらったものであり、すでに鶴岡南高校にもその旨を伝えてある」と丁重にお断りするしかありませんでした。

 当時、県庁におられた富塚陽一さん(現 鶴岡市長)にこうした経緯をお話して相談したところ、「原稿を表装して寄贈した方がいい」とのことでした。「表装代は私が負担してあげますから、原稿を届けて下さい」と心強いお話です。
 一ヵ月後に富塚さんから画帖仕立てになった作品を受け取った私は無事に母校に寄贈することができました。

 その後、県サッカー協会の役員と懇談の際に、文化勲章の相良守峯先生が荘内中学校の思い出は「ひたすらサッカーに打ち込み、兵隊靴の仙台一中に裸足で挑んで勝った」ことでしたと話しました。
 たまたま、県サッカー協会は40年記念誌を出すので、そのお話を原稿にしてもらうように交渉してほしいと頼まれる羽目になりました。電話でお願いしたところ、先生も快諾され特別寄稿「サッカーの旅」は山形県サッカー協会 40年誌を飾ることになりました。「あとがき」に「編集にあたって内容不足を心配したところ東京大学名誉教授・相良守峯先生からのご寄稿は青天の霹靂であり、改めて本県のサッカーの歴史の古さを知り、本誌発行の意義の大きさを痛感しました」と記述されています。

 相良守峯先生のお土産「庄内―自然と人文」は、母校の校長室に保存されており、いずれ展示される機会もあるかと思います。サッカー協会の原稿依頼の後に「小生はもう老耄の年頃でお目にかけるような文章は書けないと思いますが、老後を喝する一筆として南高校の懐古の記念のために一両日前、納筆し週日を過ぎるころ送ります」との葉書をいただきました。大先輩にお会いしてお話をお聞きしたことと、この葉書は私の宝になっています。(2004年1月28日)
 (相良守峯著「茫々わが歳月」郁文堂 この自伝に同窓生のことが随所に出てきます)