「彦市一件」を調べて

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 「彦市一件」を調べて
 2月のある日のこと、知人から『江戸時代の文政2年に大山で「彦市一件」という事件があったと聞いたのですが私は全く知りません。もし、何らかの情報をお持ちなら教えてください。』との連絡をもらいました。
 私も庄内藩の預かり地になることをめぐって、主として庄内天領で起こった百姓一揆である「大山騒動」については知っていましたがこの「彦市一件」については全く脳裏に思い浮かばず、同窓の大山出身の方に聞いてみましたが、この方は知らないとの返事でした。そこで、大先輩である斎藤正一さん(46回)の著した『庄内藩』(平成2年10月10日、吉川弘文館)を捲ってみると、文化2年(1805)年に「佐藤善右衛門一件」という記述はありましたが、残念ながら「彦市一件」に関する記述はありませんでした。そこで、インターネットなどでも検索してみましたが埒が明かないので、今度は鶴岡市立図書館に事件の存在についてメールで照会をしたところ、暫くして、『大山町史』に3ページにわたってその記述があり、しかも元資料もあるので、山形県立図書館で確認してほしい旨の丁重なる回答を得ました。早速山形県立図書館で閲覧・貸出の手続きをとり、『大山町史』を借りてきましたので、この一件については御存じの方が大勢いらっしゃることとは思いますが、私と同様御存じない方のために私が調べた結果を以下の通り報告してみたいと思います。
 この『大山町史』は、昭和44年1月15日に大山町史刊行委員会により刊行されたのですが、前述の斎藤正一さんとやはり先輩に当たる佐藤誠朗(しげろう)さん(57回)の両名による著作によるものです。鶴岡市立図書館の回答の通り元史料が掲載されていましたので、最初にこの部分を紹介します。
「郷政録」(筆者注記;江戸時代後期の歌人・国学者田中政徳の著書)
大山荒町肝煎彦兵衛倅彦市儀、町内若共と喧嘩之儀ニ付、越後国西方村郷士松井八右衛門方ニ立退、文政2年卯11月右両人申合、江戸表へ直訴相企候ニ付、御預地役所より出雲崎御陣屋へ御掛合之上、彦市儀御尋ニ罷成候、一件別記有_之
彦市儀文政4年巳4月江戸表ニ而被_召捕_、酒井家ヘ引渡ニ相成、4月荘内ニ下され入牢被_仰付_候
「酒田36人御用帳上」(筆者注記;酒田町組の公用記録)
 
                                  大山村  彦  市  
                                       借揚屋入
右之者当19日夜牢抜行衛相知不_申候ニ付、厳重ニ尋方被_仰付_候、若かくまひ置候段風聞及_承候歟、又ハ見当候ハ、留置、早々注進可_申出_候。隠置巳後相知候ハ、急度可_被_仰付_候、一町切長人組頭立会毎ニ相改、有無急キ可_被_相届_候。此段申達候様被_仰付_候間、不_曳様可_被_申渡一候。以上
  7月22日                    年   寄
   肝   煎                  大 庄 屋 

       大山村彦市人相書
一、 年三十八九位  一、中背より高キ方、中肉、骨組丈夫成生立、一、鼻筋眉毛目耳髪常体一、弁舌能分リ早ク荒キ方  一、角顔ニ而少し長キ方
    右之通リ

彦市一件
一、文政六年未月20日之晩籠舎壱人欠落仕候。是者大山橋本彦兵衛也。又若名彦市ト申者也。先年江戸に罷上り公儀御役人に直訴申上たる科ニ而永牢之人也。何成事いたし候哉、籠之錠明ケ迯候なり。依_之御上ニも草ヲ分御尋有_之候ヘ共、国中ニ居不_申、夫より彦市両親諸親類様々御吟味也。然共不分明ニ御座候哉。捕手之役人70余人国々に分け遣す。同年十ニ月上旬右彦市秋田大楯と云所居候を召捕メ又々永籠被_仰付_候。

「羽州田川郡御料村々騒立之扣」(筆者注記;天保13年(1843))
一、 彦市儀大山人別ニ而御座候処一昨年御引渡之節如何科之訳か鶴岡役所より相外し候様被   仰付_候而相除申候
一、 治右衛門清右衛門義何之為ニ候哉一昨年春中被_召捕_同七月御引渡之節被殺_申候。其段   大山役人ニも妻子親類江も御達無_之只人別帳ハ病死ニ仕置候事。

「病間雑抄37」(筆者注記;郷土史家・池田玄齊の著書)
大山村の桜井彦市此節大山騒動の時居候ハ、むつかしきものと存候所一昨年牢死のよし。公訴して被_召捕一候頃ハ加藤伊右衛門町奉行の節故、今の勘作など度々御吟味の節見たり。大男にて応待など静に至ておちつきびくりともせざるけしきいつれ大丈夫と見ゆるもの也。幾度御尋にても初の一言をかえず一身を捨てて万人の為に代る趣の者也と勘作の話しとかや。筆硯無之故紺之繻絆の糸をはつして紙をもらいめしをのりにて凶作救民の方、酒の早造の方など文字にはり付け一冊を指出したる手波など妙也。と云。
 『大山町史』によれば、「彦市一件」の内容を詳細に知ることは出来ないそうですが、以上の史料から事件の内容を要約すると、彦市という人物は荒町の肝煎り橋本彦兵衛の倅で、文政2年(1819)町内の若者連中と喧嘩をし、越後国西条村の郷士・松井八右衛門(注1)方に立退き、11月に両人共謀して江戸表へ直訴を企てたため、お尋ね者となり、文政4年(1821)4月江戸で逮捕され、当時大山御料の預かり支配をしていた庄内藩に引き渡され、鶴岡の牢に投ぜられました。町内の若者連中との喧嘩がどのようなものであったかは分からないそうですが、彦市は終始政治犯とて取り扱われたそうですから、著者は、庄内藩の預かり支配に迎合する保守派と彦市との対立抗争であったのではと推察しています。
 牢中にあった彦市でしたが、文政6年(1823)7月19日の夜脱獄して行方をくらましてしまいます。庄内藩では重罪人の逃亡として人相書を庄内中に廻し、草の根を分けるがごとく探索したのですが見付け出すことができず、70余名の追手を隣国に派遣して探索をしました。その結果、12月上旬彦市は秋田領の大館に潜伏しているところを召し捕えられ、永牢と成り、「羽州田川郡御料村々騒立之扣」に見る通り、人別を除かれ天保13年(1842)に牢死しました。ただし、『大山町史』の著者は、彦市は毒殺されたものと推察しています。そして、これに関連して、予め彦市の人別を除いていなかったために係の役人が処罰されたとも述べています。また、前述の通り「病間雑抄37」は、政治犯として永牢を申し渡された彦市でしたが、その言行は取り調べの役人を感嘆させるほどのものであったと評価して記録しています。
 彦市が毒殺されたのではと、著者が推論している理由は次のようなものです。
 天保13年(1842)は、庄内藩主酒井忠器(ただたか)が「長岡転阻止一揆」(天保11年(1840)〜天保12年(1841))の成功によって旧領地を維持することが出来たのですが、世を騒がせた責任をとって、2月に隠居し、家督を嗣子忠発(ただあき)に譲りました。幕府はこれを機会に37年以来続けられてきた預かり支配を中止し、天保13年5月、庄内・由利天領73ケ村(2万7,000石)を、庄内藩預かり支配から尾花沢代官大貫治右衛門の直支配として大山に陣屋を置き、手附松粂太郎外手代2名を常駐させました。
 このことは荘内藩の預かり支配を以前より快く思っていなかった大山衆にとっては双手を上げて歓迎すべきことであり、逆に庄内藩としては不都合な事態となります。危険分子である彦市が生存しておれば、彼を幕府の代官に引き渡さなければならぬことになるので、彦市の生存が後々の禍根となることを恐れ、そこで、庄内藩は彦市を毒殺の上牢死扱いにしたのではないかというのです。
 ところが、僅か2年後の天保15年(12月2日に弘化元年になります。)2月9日、幕府は再度庄内藩に5ケ年預かりを命じ、その知らせは2月16日に鶴岡に届き、引き渡しは4月28日と決まりました。この事を仄聞した大山村役人たちは、その真偽を確かめた上で2月17日に大山郷8ケ村組の村役人を大山村の郷宿(他村村役人の宿所)に集め、幕府代官支配の継続嘆願を決めて、密談の口外無用を約束しましたが、これが「大山騒動」の始まりでした。騒動は、預かり時代の庄内藩の不当な役銭、年貢徴収の不正、人別帳取扱の無法、裁判の不公平、庄内藩士の横暴等(注2)に不満を募らせた人々が、預かり支配を嫌って幕府代官支配の継続を願って起こしたものですが、結果は、騒動を起こした側の悲惨な敗北に終わり、庄内藩への引き継ぎは天保15年11月17日、18日に終わりました。
  弘化3年(1846)閏5月11日と同13日の2回に分けて尾花沢代官所において、騒動を起こした側に対して獄門2人の極刑を含む、約3,500人余の処分が申し渡され、この騒動は過酷な結末を迎えたのです。
 なお、「病間雑抄37」において、桜井彦市は橋本彦市の誤りで、橋本彦市は家名を橋本屋彦兵衛と称し、古来より酒屋を家業として元禄期には酒70石を造り、当時の大山においては大きな酒屋でしたが、寛政期には下位の酒屋に転落し、天保8年(1837)には廃業したということで、酒造家の中にその名が見えなくなったということです。「彦市一件」が家業に影響したのでしょうか。あるいはまた、橋本屋彦兵衛は、その後、廃業して新天地を求めて北海道に渡ったという話も聞くのですが、私はまだそれを裏付ける史料に出合っていないので確証を得るまでに至っていません。
 『出羽国田川郡大山村大滝(直之助)家文書目録解題』(平成3年3月31日、資料館)「史料番号5」によりますと、正徳(享保8年(1723)9月補筆)大山村の造り酒屋41軒(造酒1,191石)中、彦兵衛は第6位に位する70石(1位が90石、2位から5位までが同数で80石)を酒造していることが判明しましたが「史料番号1」の元文元年(1736)9月大山村銘細帳、造り酒屋41軒、造石 757石では、理由は分かりませんが彦兵衛の名が銘細帳から消えています。
 「大山騒動」の裁判においては、一揆に参加した人々は、庄内藩によって新たに課された種々の雑税に対する批判や人権を無視する藩権力並びに武士階級に対する抗議を13ケ条(注2)に纏め、その主張の統一を図りました。 新主を忌避し、旧主を慕った点では「大山騒動」も「長岡転封反対一揆」も同じ性格の内容でしたが、「長岡転封反対一揆」に比べて「大山騒動」が悲惨な結末を迎えたのはなぜなのでしょうか。余目町(現庄内町)出身の佐藤幸夫さんは、その著書『庄内御料百姓一揆大山騒動―余目郷名主の記録より』において次のように推察されています。
 遺恨説は真実か
 (省略)庄内藩にとって大山騒動の嘆願内容は、これまで善政とされてきた藩政に対する許し難い冒涜であった。又、幕府から嘆願書に述べている苛政との批判を問題として取上げられては、家名に傷さえ受けかねないので、何としても庄内藩の苛政を理由として、騒動を起こしたとする大山方の主張を、一言のもとに粉砕する口実を必要としていたのではなかろうか。 ここで登場するのが、(加賀屋)弥左衛門(注3)の庄内藩に対する遺恨説と云うものであり、そのために弥左衛門は騒動の首謀者として取り扱われたと言うのが筋書きではなかろうか。(以下省略)
 遺恨説は合作か
 (省略)庄内藩は江戸留守居大山庄太夫などが、この騒動の当初から、民弥、清助等(注4)の内通もあって、事件の内容を詳細に探知するとともに、幕閣に報告していたとみられ、4月27日・28日の郷村引渡し延期後も直ちにその顛末を老中及び勘定奉行に報告しておる。そして、この段階で庄内藩として事件の性格を弥左衛門の遺恨に基づくものとして位置づけ、幕府への政治工作を行ったのではなかろうか。 
 そしてこの工作が成功し、幕府も騒動は弥左衛門の遺恨によるものと見解に合意したものとみられ、騒動後の7月弾圧に来庄した関東取締役中山誠一郎等の一行も、江戸出発前に弥左衛門等を首謀者として逮捕することなど綿密な計画を樹ててきたとみることができよう。(以下省略)
 このように考えると、弥左衛門は中山誠一郎によって逮捕された後、幕府や庄内藩による遺恨説の企てを見抜き、もし、これを認めれば、騒動に決起した御料農民の預地阻止の切実な要求も否定されるとして否認し、更に塩の町での吟味中も厳しい尋問に屈せず、断固として遺恨説を拒否し続けたものとみられる。このため、弥左衛門に対する取り調べ模様や、内容に就いての記録の発掘が求められている。(以下省略)
 「彦市一件」は、この「大山騒動」の2年前に起こった事件で、「大山騒動」の予兆を示す事件の一つであったことに間違いなと思います。

(注1) インターネットで検索した『丹治峯均筆記』の宮本武蔵資料編関連資料・文献テクスト21の「武蔵流という流儀」の評注(7)に松井八右衛門ニ関する次の記述がある。
 松井八右衛門は、当時越後に居た丹波信英(注A)と知り合いらしい。八右衛門の先祖は松平大和守直矩(なおのり)(1641〜95)の家臣で、慶安2年(1649)播州姫路へ国替えの時、云々の話が『兵法先師伝記』にある。ただし、直矩の慶安2年は、越後村上から播州姫路ではなく、播州姫路から越後村上の転封であり方向が逆である(注B)。 八右衛門は、地元の古文書によれば越後蒲原郡西条村に住んでいた浪士=郷士である。丹波信英が住んでいた片桐新田の北壱里半ほどの村である。
(注A) 宮本武蔵の『兵法ニ天流』第7代師範。筑前黒田藩に仕えたが致仕して諸国を遍歴し、越後に至り村上藩に「二天一流」を普及させた。
(注B) 父が播州姫路藩主であったが、父の死去に伴い直矩が家督を継いだが、若輩であった ため越後村上に転封となったもの。
(注2) 一揆への参加者は法廷闘争を勝ち抜くため「羽州田川郡御料村々騒立之扣(ひかえ)」をつくり、主張の統一を図ろうとした。
1 余目通の百姓が肥やし(人糞尿)と交換するため簀(すのこ)や 縄を手船(持ち船)で送っているが、庄内藩はそれに役銭をかけた。
2 御蔵米払のとき役銭をかけない仕来たりであるが、近年は取り立てた。
3 御料酒屋に銭850貫文の役銭をかけた。
4 糀屋どもから百貫文の役銭を取りたてた。
5 大工・木挽・桶師・左官・畳師・鍛冶・鋳物師・葺師などの職人に役銭をかけた。以上の役銭は代官支配になってから廃止された。
6 庄内藩は金納分年貢の石代を不当に高く百姓から取り立て、幕府には安い石代で勘定し中間 搾取をしている。庄内藩は凶作の時に米を下さるが、それは一軒当たり一斗五升にすぎず、常日 頃の取り立てに比較すればきわめて少量である。
7 庄内藩領と用水が入り合いになっている村々は不公平な取り扱いに難儀している。
8 畑や谷地は漁猟をする武士たちに踏み荒らされ、もし迷惑などと申せば袋叩きにあうのが関の山である。
9 善右衛門一件の時、善平と勝右衛門は詫びに出たにも拘らず殺害された(佐藤善右衛門一件)。
10 彦市は大山人別であったにも拘らず、一昨年、引き渡しのとき人別帳を外されていた。
11 治右衛門と清右衛門は一昨年理由なく召捕られ、引き渡された時は殺されていた。理由なく逮捕したり、裁判なしに殺害されることが多く全く不安である。
12 庄内藩では士風が殺伐で難儀している。この間も口論の上から御家中が足軽を殺害したが、まして百姓等は何をされてもものを言うことができず恐ろしい(注C)
13 余目の名主民弥・清助が変心したため、いろいろな混乱が起こり、また4月初めより庄内藩が軍隊を指し向けて百姓を逮捕するとの風聞が起こり、恐怖のあまりあのような騒ぎ立てになった。
(注C) 「末松彦太夫事件」(寛文10年(1670))や「佐藤善右衛門事件」(文化2年(1805))などがある。
(注3) 田中三郎治、鈴木庄兵衛、喜兵衛、九兵衛と共に江戸送りとなり、判決前に牢 死したが、三郎治と共に存命中ならば大山において「獄門」との判決が出た。又、倅万平 は、庄内藩「長岡転封」の話が出た際、川越藩に内通したということで御預所御役所より 御取調べをうけ、入牢させられていたところ、天保15年4月吐血のうえ牢内で死亡した。このようなことで親である弥左衛門はこの事を遺恨に思い騒動を企てたとされた。
(注4) 余目組の年番名主で、荘内藩に企てを内通していた。

≪参考図書等≫
『大山町史』(斎藤正一・佐藤誠朗共著、発行者大山町史刊行委員会、昭和44年1月15日発行)、『庄内藩』(斎藤正一著、株式会社吉川弘文館、平成2年10月10日第一刷発行)、『庄内藩』(本間勝喜著、株式会社現代書館発行、2009年9月20日第一刷発行)、『庄内御料百姓一揆大山騒動―余目郷名主の記録より』(佐藤幸夫著、大山騒動史刊行会発行、1992年12月15日発行)、『荘内の歴史』(監修前田光彦、株式会社郷土出版社発行、2000年12月20日)、『図説つるおかのあゆみ』(鶴岡市史編纂会編集、鶴岡市発行、2011年3月31日)、『山形県の歴史』(誉田慶恩・横山昭男共著、昭和45年9月1日1版刷発行、株式会社山川出版社発行)、『史料館所蔵史料目録第53集・出羽国田川郡大山村大滝(直之助)家文書目録』(国文学研究資料館編集兼発行、平成3年3月31日)
2013年3月24日