ラジオ深夜便・明日へのことば 「詩人・茨城のり子の遺(のこ)した愛のかたみ」 |
64回(昭和32年卒) 渡部 功 | ||||||
ラジオ深夜便・明日へのことば 「詩人・茨城のり子の遺(のこ)した愛のかたみ 去る3月17日、この日は普段より早く目が覚め、いつもの癖で枕元のラジオのスイッチを入れたところ、16日午後11時過ぎに始まったNHKのラジオ深夜便の最終番組である4時代の「明日へのことば」が丁度始まるところでした。番組は栗田敦子アンカー(Anchor)(注)が茨木のり子さんの命日(2月17日)に詩集・『わたくしたちの成就』を出版した株式会社童話屋社長・田中和雄さんへインタービュ―する形のものでした。 (注) 英語で船の錨、リレーの最終走者という意味ですが、転じて「放送のまとめ役」を意味します。 田中さんは、生前の茨木さんから度々亡き夫への思慕を聞いていたのですが、茨木さんが生前に絶対に公開せず、夫のイニシャルである「Y]と記されたクラフトボックスに封印していた詩が、一周忌に詩集『歳月』(花神社)として刊行され、そのなかに『急がなくては』という詩を見付け出した時、茨木さんの夫への愛の深さに強く心を打たれたこと、そして茨木さんの詩の中から夫、安信さんへの想いを詠った作品を選んでアンソロジー(Anthology :詩撰)の刊行を決意すると同時に、この詩集の題名をこの詩の一節、「それがわたくしたちの成就」から採用することにして『わたくしたちの成就』と命名したこと、さらに、このアンソロジーを茨木さんの命日に、茨木さんが最愛の夫と共に眠る加茂の高台にある浄禅寺の墓前に捧げてきたこと、そして、茨木さんの生前のエピソードを交えながら何点かの詩を読みあげてくれました。 周知の通り、茨木さんは1926年(大正15)、大阪で生まれ、愛知県立西尾高等女学校(現愛知県立西尾高校)を卒業後、帝国女子医学薬学専門学校(現東邦大学)薬学部に進学します。上京後は、戦時下の混乱に巻き込まれますが、1946年(昭和21)に同校を卒業します。敗戦の混乱の中、帝国劇場で鑑賞したシェークスピアの「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指します。 読売新聞社第1回戯曲募集で佳作に選ばれ、また、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認められていきました。1950年(昭和25)、25歳で本校第44回(昭和11年3月卒)の大先輩三浦安信さんと結婚、この頃から家事の傍ら詩も書き始め、雑誌『詩学』の1950年9月号に「いさましい歌」が掲載されます。1953年(昭和28)、27歳の時には川崎 洋と同人誌『櫂』の創刊に携わりますが、後にここには谷川俊太郎、船岡遊治郎、吉野 弘(酒田市出身)、水尾比呂志等が加わります。1991年(平成3)に『韓国現代詩選』で読売文学賞(研究・翻訳部門)を受賞し、1998年(平成11)に刊行された詩集『倚(よ)りかからず』は異例の15万部の売り上げを記録したそうです。1975年(昭和50)に安信さんに先立たれ、一人暮らしを続けていましたが、2006年(平成18)2月17日に西東京市の自宅で蜘蛛膜下出血のため79歳で死去されました。茨木さんといえば、大変な話題となった御自身の「死亡通知」があります。準備されていた手紙は、死亡の日付と死因が空欄で、そこを埋めて郵送してほしいと、以前から甥の宮崎 治さん夫妻が頼まれていたそうです。身内だけでひっそりと茶昆に付し、1カ月後に手紙を出すのが茨木さんの希望でしたが、死去の報道が早くなされたため、郵送の時期を早めたとのことです(2006年(平成18)3月吉日)。茨木さんの人生哲学が分かるその手紙の内容は次の通りです。
この番組では朗読されなかったのですが、高校の教科書に載っている詩があるということを知り調べてみたところ、東京書籍出版の『新しい国語2』に次の詩があることを知りました。それは、茨木さんが戦争への怒りを詠いあげた「わたしが一番きれいだったとき」という詩です。前述の通り茨木さんは青春真っ盛りに第2次世界大戦開戦の恐怖を経験し、19歳で終戦を迎え戦後の混乱を体験しています。特に、戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が、命を大切にする茨木さんの感性を育んだといわれていますが、その詩は次のような作品です。
今更私が話をするまでもなく、茨木さんの夫、三浦安信さんは、本校卒業後、旧制山形高校を経て大阪帝国大学(現大阪大学)医学部を卒業され、内科医として活躍されたのですが、1975年(昭和50)に肝臓がんでお亡くなりになりました。茨木さんが49歳の時でした。安信さんの兄で、第36回(昭和3年3月卒)の光彦さんも三浦産婦人科前医院長で、甥にあたる第66回(昭和34年3月卒)の宏平さんは、鶴岡市で産婦人科医院を引き継いでいます。また、茨木さんのお母さんは三川町東沼の名家・大滝家の出で、県立鶴岡高等女学校(現鶴岡北高校)を卒業されており、更に、菩提寺が加茂にあるように、茨木さんと鶴岡とは切っても切れない縁があるのです。 このようなことから、2007年(平成19)6月30日に、鶴岡では茨木さんの死(2006年(平成18))2月17日)を悼むファンが集い、「茨木のり子さんをしのぶ朗読劇」を開催し、その盛り上がりをきっかけに同年10月、有志らが集まり、「茨木のり子六月の会」が結成され、会長には第72回(昭和40年3月卒)の黒羽根洋司さんが就任しています。この会では会報誌の発行、著名人を招聘しての懇談会や音楽会などの諸活動を行っています。『見えない配達夫』(飯塚書店、1958年)という詩集の中に「六月」という詩があるのを見つけましたが、この詩の初出は1956年(昭和31)6月21日だそうです。たぶん、「茨木のり子六月の会」という名称は、会の結成の契機となった朗読劇開催の六月とこの詩の初出の「六月」から名付けられたものと思われますので、次に紹介しておきます。
『交響賛歌・やまがた』は、山形県民会館25周年を記念して製作・上演されたもので、県内の子供から大人まで総勢 230人の合唱団と山形交響楽団が共演し山形の山河、海を描いた大曲が四半世紀ぶりに披露されたものです。 「序曲」、雪解けの「春の章」、祭の熱気の「夏の章」、舟歌の掛け声をモチーフとする哀愁の「秋の章」、厳しいが春の兆しを予感する「冬の章」、そして「アルカデイアやまがた」を高らかに歌う「希望の章」と、全6章にわたる壮大なスケールで古里を表現した大作で、結城ふじをさん、だいご 昭さん、駒谷茂勝さん、蒲生直英さん、清田美伯さん、渡辺 宏さん山形県所縁の6名が作詞を手がけました。山形交響楽団演奏の工藤俊幸さん(酒田市出身)指揮による1時間半に及ぶ演奏に感動し、演奏が終わったとたん思わず「ブラボー」の声を発していました。 この日は茨木のり子さんの素晴らしい詩と出合うとともに『交響賛歌・やまがた』の演奏会をも聴くことができ、久久に感動の一日を過ごすことが出来ました。 ところで、その後いろいろ調べているうちに、佐藤さんは、『はじめての町』、『さくら』、『六月』など多くの茨木さんの作品を作曲していることが分かりましたが、『はじめての町』は、鶴岡市制75周年記念委嘱作品として混声合唱組曲として作曲され、前述の「茨木のり子さんをしのぶ朗読劇」開催の折や2008年(平成20年)2月2日開催の「鶴岡音楽祭2008」で披露されています。特に、「鶴岡音楽祭2008」は「郷土を愛した作曲家佐藤敏直〜その人と作品〜」という題名で工藤俊幸指揮、山形交響楽団の管弦楽の演奏により開催され、曲目の一つとして『はじめての町』が『さくら』と共に披露されたことが報道されていました。そこで、本文の終わりに『はじめての町』という詩を紹介して筆を置くことにします。
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2013年4月4日 | ||