温海では、なぜ、遊女のことを「粟蒔(あわまき)女」と呼んだのか(2−1) |
64回(昭和32年卒) 渡部 功 | |||||
温海では、なぜ、遊女のことを「粟蒔(あわまき)女」と呼んだのか(2−1) 1 『温泉記』 庄内藩の給人、原 貞行が天保期(1830〜1843年)に書いた『温泉記』に基づく直木賞作家・高橋義夫さんのエッセー・『庄内藩の温泉侍/湯治の達人 原貞行』が、2012年(平成24)11月21日から2013年(平成25)4月10日までの間、山形新聞に20回にわたって掲載されましたが、初回の2012年(平成24)11月21日号の@には私の母方の祖父にあたる星川清民がこの『温泉記』を写本したとの件(くだり)があり、以来最終回まで読み続けるとともにスクラップの作成も行ったところです。この『温泉記』は「玄々堂叢書」に写本が綴じ込まれ、現在は鶴岡市郷土資料館に収蔵されているそうですが、「玄々堂叢書」というのは、鶴岡市一日市町(現本町二丁目)で呉服商を営む傍ら、美濃派の俳諧を嗜み、庄内俳諧の第一人者と称せられ、また、郷土史にも造詣が深かった斎藤治兵衛(俳号玄々堂芦汀、元治元年(1864)〜1941年(昭和16))が、多くの古記録の中から抄写・編纂した資料のことをいいます。 2 高橋義夫さんの問いかけ ところで、平成25年4月3日掲載のRの最後に筆者が読者に問いかけていますので、その関係する部分を紹介します。
私は決して風流人などと呼ばれる人間ではありませんが、筆者の問いに応えてみようと思い、そこでまず、手持ちの『大辞泉』や『成語大辞苑』などを開いてみましたが、「粟蒔」という言葉を探し出すことはできませんでした。次に『古事記』の五穀誕生の話に何かヒントがないかと思い、文献を開いてみましたが、伝説の概要は次の通りです。
また、『口語訳古事記[完全版]』によると、「おおつげひめ」は「粟の国」の別名で、この国は四国の吉野川流域を中心にした地方を指すということです。 古事記の話には「粟」はじめ「稲」、「麦」など五つの穀物の名が出てきますが、「粟蒔」という言葉は出来ません。しかし、「粟」に関する文献等を当たっているうちに、『万葉集』に「粟蒔」と読みこんだ歌があることが判明しましたので、次に、インターネットで検索をして見ることにしました。 4 『万葉集』にみる「粟蒔」 検索した結果、最初に「万葉集遊楽」という記事に行き当たり、次のような「粟蒔」と「遊女」の結び付きを示す説明を見つけることが出来ました。
【3/0405】佐伯宿禰赤麻呂がさらに贈る歌一首 ▼春日野に 粟蒔けりせば 鹿(しし)待ちに 継(つ)ぎて行かましを 社(やしろ)し留(とど)むる [春日野に粟が蒔いてあったら(あなたに逢えるのでしたら)、粟を食べにやって来る鹿を待ち伏せるように毎日のように逢いに行くのですけど。神の社(娘子の恋人?)があるので逢えなくて残念です(君こそ私以外に好きな人がいるのでは?)。] 【4/0630】佐伯宿禰赤麻呂が歌一首 ▼初花の 散るべきものを 人言の 繁きによりて よどむこころかも [咲いたばかりの花が散ってしまうように、あなたのような若い女(おみな)はすぐ人のものになりそうで、気が気でないけれど、世間の噂がうるさいので、ためらっている今日この頃です。] 『磐座亭』の筆者が【この歌の理解と評価】で参考にした伊藤 博(はく)さんは、2000年(平成12)に山形県の「第11回斎藤茂吉短歌文学賞」を受賞した万葉学者で、『萬葉集釋注』(集英社文庫ヘリテ―ジシリーズ全10巻)の著者として有名な方です。『萬葉集釋注』などをみると、「遊行婦女」というのは、貴人に侍して宴席で詩歌音曲を奏し、舞い、また、時には枕席も共にするのですが、それ相応の教養を有するのを常とした女性だったようです。そして、万葉集の中には、土師(はにし)、裏生(かまふ)、左夫流児(さぶるこ)、児島(こじま)の4人の遊行婦女の詠んだ歌が納められていることを知りました。ここでは歌は省略しますが、その巻と番号は、巻6/0965・0966、巻18/4047・4047・4067・4068、巻19/4232となっています。 以上調べた結果、巻3/0404の歌から「粟蒔く」が「逢はまく」と掛けてあり、読み人の娘子が実在、架空に関わらず「遊行婦女」と推察され、「粟蒔」から「遊行婦女」(遊女)が連想されることが分かりました。 (注1)巻4/627から630までの四首は次の通りですが、ただし、629は大伴四綱が娘子の立場で詠っています。 ▲佐伯宿禰赤麻呂に(娘子が)報(こた)へ贈る歌一首 【627】 我がたもと まかむと思はむ ますらをは をち水求め(※) 白髪(しらか)生ひひにたり (※)「変若水」(をち水)とは、飲めば若返るといわれる水のことです。 [私の腕(かいな)を枕に寝たいなどと大夫(ますらお)は、若返りの水でも探してこられたらいかが。頭に白髪が生えていますよ。] ▼佐伯宿禰赤麻呂が和(こた)ふる歌 【628】 白髪生ふる ことは思はず をち水は かにもかくにも 求めて行かむ [白髪が生えているのは何とも思いません。だけど、あなたが折角進めてくださることですから、若返り水だけはまあとにかく探しに行きますよ。] ▼大伴四綱が宴席歌一首 【629】 何(なに)すとか 使の来つる 君をこそ かにもかくにも待ちかてにすれ [どうしようと思って使いなんぞをよこしたの。何はさておき、あなた御自身をこそ今や遅しと待ちかねておりますのに。] ▼佐伯赤麻呂が歌一首 【630】 初花の 散るべきものを 人言(ひとごと)の 繁きによりて よどむころかも [初花が散るように、あなたのような若い女(おみな)はすぐ人のものになりそうで気が気でないけれど、世間の噂がうるさいので、ためらっているこの頃です。] (注2)『万葉集釋注2』(2005年9月21日第1刷、伊藤 博著、株式会社集英社発行) 上述の他に「粟蒔」を詠み込んだ万葉集歌を調べたところ、巻14と巻16に作者不明の歌が3首ありましたので、その歌と意味を次に示します。 【14/3364】 ▼足柄の 箱根の山に 粟蒔きて 実とはなれるを 粟無くもあやし 読み人知らず [足柄の箱根の山に粟を実らせたように、私の恋も実ったはずなのに、逢えないのはどうしてでしょうか(「粟無く」と「逢わなく」とを掛けています。)]。 【14/3451】 ▼左奈都良の 岡に粟蒔き 愛しきが 駒は食(た)ぐとも 我はそとも追(は)じ 読み人知らず [左奈都良の丘に粟を蒔いて恋人の馬がそれを食べても私は馬を外へ追うことはしませんよ。だって恋しい人の馬ですもの。] 【16/3834】 ▼梨(なし)棗(なつめ) 黍(きみ)に粟つぎ 延(は)ふ葛(くづ)の 後(のち)も逢はむと 葵(あふい)花咲く 読み人知らず [梨、棗、黍、それに粟と次々に実っても、早々に離れた君と今は逢えないけれど、延び続ける葛のように後にでも逢うことができようと、葵(逢う日)の花が咲いている(「黍に粟つぎ」と「君に逢はつぎ」、更に、「葵(あふい)」と「逢う日」と二つのかけ言葉が使われています)]。 4 狂言「粟蒔」 更に、インターネットで色々検索していたら、岩手県普代村の鵜鳥神社に『粟蒔』という一人狂言があることも分かりましたが、その狂言の粗筋は次のようなものでした。
そのほか調べてみた結果、以上のほかに「粟蒔」に関わる記事なり文献を見出すことはできませんでした。 5 「粟蒔」と「遊女」との関係 そこで、以上のようなことから結論めいたことを纏めると、『古事記』の一文は、人間にとって絶対的に必要な「五穀」の誕生を語ったものとされ、女神の死によって命の源の食料が生まれるのは、毎年刈り取られる食物は、翌年には新たに芽吹き、結実するという自然界の法則を表しているにすぎず、設問の答えになるような内容を示すようなものではありませんでした。 一方、万葉集や狂言の方を見ると、「粟蒔」には、「愛しい人」、「男女の逢瀬」、「共寝を誘う」、「男女の営み」,「遊行女婦(遊女)」など、「男女の関係」を示唆する言葉が連想されるのです。 以上のことから、温海で遊女のことを「粟蒔」とよんだ由来は、万葉集巻3/0404の歌にあると思われるのですが、いかがでしょうか。この推察が正しいとすれば、このような異名を探しあてた人物は、万葉集等の古典に対して造詣が深く、相当教養のある人物、それこそまさに風流な人物であったように思われます。ただ、誰がこのような呼び名を発案し、温海で使用するようにしたのか、温海温泉以外でもこのような呼び方をする地区があったものか、などについては、私の能力では解明することが出来ませんでした。ただ、「遊女」に関する研究をしている学者が大勢いるようで、『遊女の文化史』、『遊女の歴史』、『中世の非人と遊女』などという著作があることを知りましたが、これらの著作のなかにも謎解きのヒントが隠されているのかもしれません。これについては追って勉強をしてみたいと思います。 次回は、『温泉記』を写本した星川清民について説明したいと思います。 【参考にした文献など】 『口語訳古事記[完全版]』(2002年6月30日第1刷、三浦佑之著、株式会社文芸春秋社発行)、『古事記と日本書紀』(2009年1月15日第1刷、坂本 勝著、株式会社青春出版社発行)、『古事記のフローラ』(2006年3月18日初版第1刷、松本孝芳著、海青社発行)、『萬葉集釋注1〜10』(2012年2月6日第2刷、伊藤 博著、発行所株式会社集英社)、『新編 庄内人名事典』(昭和61年11月27日発行、庄内人名事典刊行会編纂・発行)、『フリー百科事典Wikipedia』 |
2013年5月3日 | ||