温海では、なぜ、遊女のことを「粟蒔(あわまき)女」と呼んだのか(2−2)

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 温海では、なぜ、遊女のことを「粟蒔(あわまき)女」と呼んだのか(2−2)
1 『温泉記』を写本した星川清民
 『庄内藩の温泉侍/湯治の達人 原貞行』の第1回(2012年(平成24)11月21日号)において、星川清民のことを述べている部分は次の通りでしたので最初に掲げておきます。
・・・・・写本の由来書きによれば、写した人は星川清民といい、大正、昭和のはじめに、松園主人(注1)として名の知れた荘内の文人だった。湯田川の由豆佐売(ゆずさめ)神社の社司が、こんなものがあるといって出して見せたという。「此を見るに温海、田川、湯之浜の温泉の事ども、いと委曲(※)に記(しる)しあれば、いと珍しき本なりとて借りて写取りぬ。著者原貞行といふ人何処(いずこ)の如何(いか)なる人か不明なれども鶴岡の給人なるが如し。いとゆかしき人なり。」と星川清民が書いている。・・・・・
(※)詳しい事情のことです。
2 『山形県荘内実業家伝』にみる星川清民
 前段において、「星川清民は、大正、昭和のはじめに、松園主人として名の知れた荘内の文人だった。」とありますので、当時鶴岡でどのように評価されていたのかを知りたく、いろいろ調べていたところ、明治末に発行された『山形県荘内実業家伝』(注2)に取上げられているらしいことをインターネットで知り、早速県立図書館に行ってみました。図書館には蔵書が1冊ありましたが、貸し出しが不可でしたので、その場で閲覧させてもらったところ、35頁に次の記述がありました(カッコ内は筆者が加筆しました。)。
医師 星川清民 鶴岡市鳥居町
 鶴岡刀圭界(医術界)君子人として一方に重きを為すもの之れを星川清民君と為す。父を清晃氏と云ひ和歌を以て東北に鳴る。君も亦父に従ひて和歌に造詣甚だ深く往々専門の大家を凌ぐものあり。君の医師たらんとして東都に笈(おい:書物などを背負う竹製の箱)を負ふや専心一意医業を修め、夙(はや)く業を成して父を喜ばしむる所あらんと其勤実に当時の学生の模範たりき聞く。当時東都に医を学ぶもの非常に多かりしが、遊蕩にして敢て学を修ず。書生十年間尚ほ成功を急ぐこと無かりき。星川君之を慨し、全く交際を除け独り一室に居して勉学怠る所無かりしを以て其東都に居すること幾何ならずして業大に進み抜群の成績を以て医術開業試験に及第するの栄を得たり。後郷里に帰り医業を開くに及び一に親切を以て懇切に取り扱い医は仁術なりと其貴賎の別なく風雨を侵し、風雪を横ぎり、遠近となく病者を訪ねて霊薬を與えるを以て皆星川君を徳とし、治療を望むもの甚だ多かりき。而して余暇あれば物に触れ好める和歌を詠じて自ら楽しみとし、又余念無きものの如し。
故雷山翁(注3)建碑祭詠歌。
 「雷の なりとどろきし 君が名は この石ぶみと 共に残らん」
其歌奇矯ならず、誇大ならず、真情流露して其人を偲ばしむ。蓋(けだ)し出でゝは仁術施し、入りては風流を楽しみ、心の和平を以て人生唯一の快楽と為すもの君を描いて又他に求む可(べ)からざらん。
 これをみると、(済生学舎)に学んで医師となり、患者のために奔走して尽くしたため、その評判は良かったこと、父と同様和歌に親しみ、ために清川八郎の父である斎藤雷山の建碑祭で和歌を読んだことなどが分かりますが、次に、若いころ星川家に出入りし、後に清民の五女・美津子を妻に娶った佐藤朔太郎編纂の『星川清躬全詩集』(注4)や『新編・庄内人名事典』などを参考にしてもう少し詳しくその人となり、業績なりなどを纏めてみることにします。
3 東京で西洋医学の修得に励む
 星川清民は、国学者で、1876年(明治9)から1878年(明治11)までの間、三山神社二代目宮司となる庄内藩給人星川清晃34歳のときの元治元年(1864)に、鶴岡で生まれました。長じて1883年(明治16)、18歳の時に上京して「済生学舎」で西洋医学を修めるかたわら本居豊穎(もとおりとよかい)(注5)や副島種臣(そえじまたねおみ)(注6)等に師事し国学を学んでいます。当時の星川家の経済状態は苦しかったようで、その様子は、前述の『星川清躬全詩集』に収録されている父清晃が勉学中の清民に送った手紙からも読みとることができます。
 ・・・・・此頃も湯ノ浜へ田林重次郎氏入浴の折、秋野氏とは数々はなし候節、汝を同氏はたのもしく存じ、ひいき致されはなし候には,何卆これまでの様に学事相進み行き候様いたし度、さ候はば珍しき階級を経など語り候よしはなしたりき。副島公へこの節閑暇ならば度々参殿致すべく候。いつも云ふ通り文章詩作し、御添削をも願候様致さるべく候。学問と事務とは離れ安きものなれば方寄らぬよう心得べし。学問は規矩準繩(注7)也、事務は実行也。すなわち車の両輪なり。か様のこと書面に記すまでも無き事ながら実地を経たる上よりは案事候間申進候。書生風にて又々親父が同じ事を云ひ越したりとロクロクみずに花やかな族(注8)と別なるもの故かく申し遣わし候也。健孺(注9)も段々聞訳も出来、学問は怠らず候。折々異見の消息をも別書に遣はさるべく候。余は後音と申納候也。清晃
                                                幸孺(注10)殿
  よどみなく流れてはやき飛鳥川
             きのふけふとてすぐるうき世の(注11)
 この手紙の前文に「庄内地方は米価の低落で非常な不況であるから、学資の送金も思うに任せない、汝の方で才覚つかぬときは本居先生から暫くお借りしてくれ、来春になればこちらでもなんとかなるから・・・」とあって「書生風の雑風景を真似するなかれ、官費生などの風俗をうらやみ候などの小量に相ならざる様心がくべし、只ひたすらに実学を練磨し大器になるべきよう希い候。」とあります。荘内地方の不況もさることながら,恰も明治初期のこの頃は神職の制度に目まぐるしい動揺・変転があり、その波にもまれながら教導に奔走する父清晃の経済は二重に苦しかったようです(星川清晃に関しては、2011年2月4日の拙稿「出羽三山における神仏分離」を参照してください。)。
4 西洋医学を教授した「済生学舎」
 明治初期に西洋医になるには、大学の医学部を卒業するほかに「医術開業試験」(注12)を直接受検する方法があって、その試験を受験するための予備校的な医学校として「済生学舎」が現在の東京都文京区本郷元町1丁目66番地に存在しました。
 明治政府は、1874年(明治7)太政官による「医制制定」、翌年2月に「医術開業試験規則」を制定発布し、これから新たに医術の開業を行おうとするものは、東京大学卒業生を除いて「医術開業試験」を受験して開業免許を受けることにしました。そして、この方針に基づき、長岡藩医学者・長谷川泰(1842〜1912)によって1876年(明治9)4月9日、「済生学舎」は開校しました。「済生」、すなわち、「広く民衆の病苦を済(すく)う」、この願いを込めて創設された「済生学舎」には西洋医学を志す学徒が全国から多数集まりました。1879年(明治12)冬火災により校舎を失い、学舎長の自宅とその隣接地に移転(現本郷2丁目7番8号)しましたが、1882年(明治15)に現在の湯島2丁目(ガーデンパレスの地)に本格的校舎を建設し、附属蘇門病院及び薬学部を敷設して「東京医学専門学校済生学舎」と称しました。2年後の1884年(明治17)には「東京医学専門学校」としての届出が認められており、1887年(明治20)には、文部省令第5号による文部大臣森有礼の布達で「済生学舎」が官立府県立学校と同等であることが認められたのです。
 かくして、学舎は隆盛の一途をたどったのですが、山県有朋の長谷川泰に対する私怨(注13)があって、長谷川泰みずからの廃校宣言により、1903年(明治36)8月31日、28年間の歴史を閉じたのです。その間、2万1千人余の男女が学び、9千6百余の医師を排出し、我が国黎明期の医学振興、地域医療に果たした役割は極めて大きかったといわれています。しかし、「済生学舎」の廃校直後から、これを惜しむ教師・学生達によって、いくつかの医学講習会が設けられましたが、その内の一つを母体にして1904年(明治37)4月「私立日本医学校」が設立され、現在の「日本医科大学」へと発展し、「済生学舎」教育の精神は受け継がれていきました。
 入学には学歴は必要とされず、いつでも入学でき、講義期間は原則6期制3年とし、「医術開業試験」に合格すれば直ちに卒業とされました。著名な卒業生としては、日本の女性医師第1号の荻野吟子(1885年(明治18)合格)、細菌学者の野口英世(1897年(明治30)合格)、東京女子医科大学創設者の吉岡弥生(1892年(明治25)合格)などがいます。
5 医院開業の傍ら国学、文雅の道にも
 さて、東京で西洋医術を修めた清民は、やがて帰郷し、1889年(明治22)、24歳で鶴岡市鳥居町において「内外科・星川医院」を開業しますが、西洋医学の新しい医師を迎えた鶴岡の町では、そこへ患者が殺到したといいます。
 清民は、言葉も少なく、その人柄は温和と厳格を兼ね備え、父清晃の遺志を良く実行したといわれており、「規矩準繩」(きくじゅんじょう)(注7)を順守する精神を失うことなく医学のほか国学、和歌などの道に精進しました。
 医院を開業して5年後の1894年(明治27)11月に父清晃が没し、繁忙のなか、家督を相続し、父清晃の遺稿の整理、庄内各地の神社誌の執筆、『鈴木重胤伝』の完成などの仕事を全うし、自身の『松園歌集』(注1)も纏めました。1923年(大正12),次男の清躬が神戸から帰って27歳で医院を継いだので、以後、生活の比重を清晃の遺稿の整理と自身の著述の整理に専念しましたが、酒井家関係と清民を慕う少数の患者への往診は晩年近くまで続けたといいいます。
 1934年(昭和9)4月8日、71歳で没し、常念寺に葬られました。
 著書には、『鈴木重胤伝』、『鈴木重胤大人学説神道演義』、『厩山(うまやま)神社誌(※1)』、『井口国府考(※2)』などがあります。特に鈴木重胤の研究に没頭し、1920年(大正9)9月10日、重胤に縁故深い大山町賢木舎(さかきのや)(注14)・大滝直之助宅での「鈴木重胤大人贈位奉祝祭並合祀翁亡門人亡会員諸翁霊祭」においては読師範・講師を務めています。
(※1)厩神(農家の家の中にある馬の部屋の守り神)を祀った神社(奥の院)が鶴岡の麻耶山頂にあります。
(※2)「井口国府」とは、酒田市東北部にある「国史跡「城輪柵」とする見解が有力です。
 また、父清晃が三山神社宮司時代、奈良春日神社より富田光美夫妻を招いて「大和舞」による神楽を整備したのですが、意外なことに清民は、この大和舞の音楽の師(和琴)でもありました。さらに、父と同様和歌の達人で、門弟の指導にあたりました。
 妻徳江と共に眠る常念寺の墓碑(注15)の表面には、
 ほととぎす ほのかに名のる わが山の 卯の花月夜 とふ人もがな
                               清 民
の和歌が刻まれていますが、その歌の意味ですが、『庄内の風土・人と文学』を著された東山昭子さん(注16)は、その著書の中で次のように解説しています。
 ほととぎすが鳴く音を響かせている初夏、咲き盛る卯の花を照らす月影も美しい、ああこんな夜は誰かこの美しさを賞(め)でて訪ねて来る人があってほしいなあ・・・・・


(注1)「松園主人(しょうえんしゅじん)」というのは、清民の「字(あざな)・ニックネーム」であったと思われます。1932年(昭和7)10月13日、次男清躬が自宅で父を撮影した写真の裏面にも「松園 星川清民像69歳」と記入してあります。
(注2)『山形県荘内実業家伝』では、平田吉郎、中村作右衛門、大屋元章等146名の人物を取り上げています。編輯発行人は高田可恒(おかだかこう)ですが、この人の生没年は不明です。明治末から大正の初めにかけて、両羽実業新聞の記者として活躍した後、奥田丈太郎とともに鶴岡市馬場町にアサヒ印刷所を創業し、郷土史関連の出版に携わった人であるということです(レファレンス事例詳細・山形県立図書館)。
(注3)斎藤雷山(文化7年(1810)〜1871年(明治4)4月7日)、治兵衛・治助・豪寿・柳眉・寿楽堂・其淀庵
 清川八郎の父。庄内藩に対する献金、村民救済等の功により11人扶持を給されました。若いころから俳諧を松山(現酒田市)の見風舎村田柳支に学んでこれに長じ、又詩文をよくして、屋敷内に「楽水楼」を建てて諸国の文人墨客を招きました。62歳で没し、清川歓喜寺に葬られました。清川神社に頌徳碑があります。『山形県荘内実業家伝 』によれば頌徳碑は、正三位伯爵勝 安房題額、正五位松本十郎撰、高橋精一書とあり、雷山翁の句・「居所へ日のさして来る落葉かな」が刻まれています。
(注4)後に星川医院を継ぐ、清民の次男の清躬(第23回(大正4年3月卒業)、京都府立医学専門学校(現京都府立医科大学)卒業)の詩集のことです。
(注5)明治期に活躍した国学者で、本居宣長の義理の曾孫に当たり、紀州藩本居家の四世当主に当たります。明治維新後は神祇官に出仕し、教部省では神道大教正に進んだほか、国学者として東京帝国大学・国学院大学・東京女子高等師範学校等の講師を務めました。大正天皇の皇太子時代には、東宮侍講(とうぐうじこう)を勤め、御歌所寄人となりました。1906年(明治39)に帝国学士院会員となり、また、国学・和歌の興隆を願って大八洲学会を主宰しています。
(注6)副島種臣(1828(文政11)〜1905年(明治38)、号・蒼海(そうかい)は佐賀藩士で国学者・枝吉種彰(えだよしたねあき)の子として生まれ、1853年(嘉永5)、京都に遊学、漢学・国学などを学んでいます。1859年(安政6)、副島家の養子となりました。父や兄・神陽(しんよう)の感化を受け幕末の尊王攘夷運動に奔走し、後に長崎で英学を学びます。明治維新後には明治政府に出仕し、政体書の起草を手掛け、参議・外務卿となり、1872年(明治5)の「マリア・ルーズ号事件」の解決に尽力しました。翌1873年に征韓論にやぶれ、西郷隆盛・板垣退助らと共に下野しましたが、後年明治天皇の侍講(じこう)や枢密院顧問官、内務大臣を務める等活躍しました。庄内との関係は、1887年(明治20)から始まり、同1890年(明治23)には西郷隆盛の賊名が解かれると庄内藩士による『南洲翁遺訓』発刊に際し、副島がその序文を寄せています。翌1891年には来庄し、致道博物館の御隠殿で中国古典の「詩経」の講義を行う等幅広い交流が行われました。
(注7)出展は『孟子』で、「規」はコンパス、「矩」は直角定規をいい、それぞれ円形と方形を作り出すための器具です。また、「準」は水準器、「繩」は下げ振り縄のことをいい、それぞれ水平と垂直を作り出すための器具です。これから「物事・行動の規準となるもの、手本,規則のこと」をいいます。
(注8)時の官費学生を指します。
(注9)清民の弟清成の幼名で、「たけかわ」と読みます。中国古典学者星川清孝の父です。
(注10)清民のことで、「さちわか」と読みます。当時は18歳になっても家族間では幼名が用いられていたものと思われます。
(注11)『古今集』341に春道列樹(はるみち つらき)の詠んだ「昨日といひて今日と暮らしてあすかがわ流れてはやき月日なりけり」という歌がありますが、「流れてはやき飛鳥川」は「光陰矢の如し」と云うことを示唆したものと思います。日々怠ることなく精進せよとの、和歌の達人であった父の息子に対する思いが伝わってくる歌です。
(注12)「医制」の制定と「医術開業試験」について簡単に纏めてみると次のようなことです。
《医制》
▼1874年(明治7)3月12日、太政官は「医制ヲ定メ先ズ三府(東京、京都、大阪)ニ於イテ徐々着手セシム」により医療に関する各種規制を定めた。主として医業の許可制を定めている。
▼目的としては、@文部省統括のもとに衛生行政機構を確立する、A1872年(明治5)に頒布された学制と相まって西洋医学に基づく医学教育を確立する、Bこの医学教育の上に医師開業免許制度を確立し、もって衛生行政の確固たる基礎を築く、C近代的薬舗の制度を樹立し、もって衛生行政の確固たる基礎を築くことであった。
▼構成は、@第1〜11条:全国衛生事務の要領と地方衛生及び其吏員の 配置、A:第12〜26条 医学教育、B:第27〜53条 医術開業試験とその免許、C第54〜76条:薬舗開業試験とその免許及び薬物の取締規定となっている。
《医術開業試験》
▼1876年(明治9)、内務省は「医制」を全国に及ぼす。各県は県規則により医師の開業試験を実施。それ以前の医師の主流であった「漢方医」については、「従来開業者」として一代限りの免許となった。
▼@試験は全国9か所、A年2回実施(前期:物理学、化学、解剖学、生理学、後期:外科学、内科学、薬物学、眼科学、産科学、臨床実験)、B年齢制限はなし、C受験資格は1年半以上の「修学」履歴が必要。
▼1879年(明治12)、内務省は「医師試験規則」を各県に布達し、全国統一の試験を実施(大学卒業者等に対しては各県が無試験で開業免許を授与)した。
▼1882年(明治15)5月27日、文部省は、達4号で「医学校通則」を交付し、更に、7月15日達第5号で「医学校通則」の施行手続きを各県に通達した。@ 医学校を甲種医学校(通常の医学科を教授、修業年4年以上)と乙種医学校(簡易の医学科を教授して医師の促成を図るため、修業年限3年に区分)した。A 甲種医学校の認可(岡山・千葉・愛知。京都・大阪・長崎・神戸・和歌山・広島・三重・金沢等)。
▼1883年(明治16)10月23日、内務省は、「医師免許規則」及び「医術開業試験規則」を布達し、西洋医学を修めた者でないと医師になれないとした。そして、この規則に基づき、翌1884年(明治17)から試験を実施した。
▼1906年(明治39)、内務省は「医師法」を制定、「医術開業試験は」8年(実際には延期され10年後)の猶予期間の後廃止することを決めた。これは、帝国大学や医学専門学校の医療教育機関からの卒業生が安定的に輩出されるようになったため、学歴を問わず試験合格のみで免許が与えられる「医術開業試験」は、近代医学の進歩に対応できないとの批判が帝国大学卒業者を中心に強まったためである。それ以降、医師は全て医学教育機関から供給されることになった。
▼1916年(大正5)、医術開業試験廃止となる。
(注13)1901年(明治34)「薬律改正問題」(医薬分業論)が起こり、長谷川泰は医師数が約3万2千人、薬剤師が2千5百人と絶対数が足りないので、医薬分業は時期尚早と反対すると、日本薬局方調査会の丹波敬三、青山胤通、入沢達吉等の委員が総辞職し、長谷川は、時の総務長官山県有朋に辞職の責任を取らされ、衛生局長の辞表を提出させられました。さらに、衛生局就任時の誓約も入沢達吉の伯父池田謙斎に奪われ精神的に失望します。この誓約の立会人であった芳川顕正逓信大臣は山県の側近であり、重ねて、山県は北越戊辰戦争時、北陸道鎮撫総督府(会津征討越後口総督府軍)参謀で、会津への途中、長岡藩に2ケ月半に及ぶ抵抗に遭い、松下村塾出の友人時山直八をこの戦いで失います。長谷川は、この時、長岡藩家老河井継之助に3人扶持で仕えていた軍医であり、山県から久しく嫌悪感を持たれていたのです。
(注14)鈴木重胤は、弘化元年(1844)、庄内に入り、飽海郡本楯(現酒田市本楯)の梵照寺の住職魯道の紹介で、鶴岡の今田氏篤宅で万葉集を講義しました。このとき聴講した人々には、庄内藩士服部正樹、同秋保親愛(あきほちかよし)、神官辻 正兄、米問屋広瀬巌雄、町医者で国学舎の照井長柄(てらいながら)、僧魯道、大滝光憲(おおたきみつあきら)等がいました。そして、大山の大滝光憲は、照井長柄、広瀬巌雄、庄内藩給人で国学舎の星川清晃(清民の父)、加茂の素封家秋野茂右衛門の二男で国学者の秋野庸彦(あきのつねひこ)らの同志と共に入門し、「賢木舎」を組織して重胤を時々招聘して国学を学んだのです。大滝光憲は、素封家田中茂右衛門の弟として大山に生まれ、後、富豪大滝藤左衛門家に入って別家し造酒屋を営みます。当初、大山の田中万春に漢学を学び、万春の紹介で本居宣長の門人伊勢内宮の詞官荒木田末寿に国学を学びました。そのとき、荒木田の門人に照井長柄がいました。なお、大滝直之助は光憲の孫に当たります。
(注15)墓碑の裏面には次のように刻まれています([ ]内は筆者記入)。
昭和36年(1961)10月建立、揮毫 野坂是勇、遺族 星川清彦[長男清雄の長男]、星川久子[次男清躬妻]、佐藤文蔵[二女倭文子(しずこ)夫]、佐藤倭文子[二女]、荘司チカ[三男清英妻]、野坂是勇[四男]、渡部 巌[四女佐喜夫]、渡部佐喜[四女]、門下生 小野寺勝男[後に東京で医院開業]
(注16)東山昭子さんは、県立高校国語科教諭として教鞭をとる傍ら、長年にわたって郷土文学研究に携わり、1989年(平成元)に『庄内の風土・人と文学』で第32回高山樗牛賞受賞を受賞され、その後、山形県の文学について寄稿、連載、講演などの活動を行い、「第18回国民文化祭・やまがた2003」におけるシンポジュウム「文学と風土そして世界へ」の専門部会長に就任する等して祭典を成功裏に導いた功績大である等々の理由から2005年(平成17)に第51回斎藤茂吉文化賞を受賞されています。そして、名古屋大学大学院教授の東山哲也さん(第97回(平成2年3月卒))の母君でもあります。

【参考にした文献】
 『古事記と日本書紀』(2009年1月15日第1刷、坂本 勝著、株式会社青春出版社発行)、『古事記のフローラ』(2006年3月18日初版第1刷、松本孝芳著、海青社発行)、『星川清躬全詩集』(昭和53年5月10日、佐藤朔太郎編纂、さとう工房発行)、『病者の心を心として・庄内の医人達』(平成22年5月21日、黒羽根洋司著、メディア・パブリッシング発行羽))、『庄内の風土・人と文学』(平成元年7月18日第一刷発行、東山昭子著、株式会社東北出版企画)、『新編・荘内人名事典(昭和61年11月27日発行、庄内人名事典刊行会編、庄内人名事典刊行会発行)、『鈴木重胤大人贈位奉祝祭献詠集』(大正10年9月25日印刷、大滝直之助編纂発行、鶴岡印刷株式会社)、『庄内藩』(平成2年10月10日第1刷発行、斎藤正一著、株式会社吉川弘文館)、『出羽国田川郡大山村大滝(直之助)家文書目録』(平成3年3月31日印刷発行、国文学研究資料館編集・発行、発行者史料館)、『山形県荘内実業家伝』(1909年(明治42)11月19日発行、編輯発行人山形県東田川郡東栄村大字堀越68 高田可恒)、『フリー百科事典Wikipedia』
2013年5月25日