広がるホームページの輪 〜青柳明子さんのこと〜

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 広がるホームページの輪 〜青柳明子さんのこと〜
1 青柳さんからの葉書
 3月の下旬のことです。新潟市在住の青柳明子さんという方からの葉書が突然舞い込んできました。全く面識のない方でしたが、住所、氏名、電話番号を刻んだゴム印の傍に「鶴岡南校75回(昭和43年3月卒)」と手書きで添え書きがしてありましたので、同窓の方に相違ないのですが、念のため同窓会名簿で確認したところ,旧姓水口明子さんであることが分かりました。 その葉書の内容は、「母校のホームページにアクセスしたついでに山形鶴翔同窓会のホームページを開いたところ、それまでイメージがなかなか掴めずにいた「地方知行(じかたちぎょう)制」について、私が2012年(平成24)7月7日付で投稿した『知行宛行状(ちぎょうあてがいじょう)』の拙文が大変参考になった、というお礼の挨拶に始まり、次に、「鶴岡藤沢周平文学愛好会」に所属しており、機関誌『愛好会つうしん』に庄内藩初期の主に女性に焦点を合わせた作品を投稿しているが、今後ともこのことを取り上げていきたいとの言葉が連ねてありました。 そこで私も、拙文が少しでも役に立ったことの喜びと、愛好会機関誌に投稿の青柳さんの作品を是非拝読したい旨の返事を認めるとともに今後ともこれを契機に「山形鶴翔同窓会」のホームページを時折尋ねてくれるようにとのお願を認めて返事を返した次第です。
2 青柳さんの作品の数々
 ほどなくして青柳さんから愛好会機関誌に掲載の作品がメールに添付されて送られてきたのですが、その内の一つ、『「長門守の陰謀」を巡る人間模様・二人の花ノ丸とその母』という作品の冒頭に、歴史学者で元山形大学教授でもあった大先輩の榎本宗次さん(第51回(昭和18年3月卒))が従兄であることが述べてあり、この先輩が青柳さんの創作活動に大きな影響を及ぼした人であることを伺い知ったのです。
 添付されてきた作品は上記のほか『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(二)・千日堂の謎』、『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(三)・丸八郎と於万』、『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(四)・忠勝公正室・鳥居姫(一)』、『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(五)・忠勝公正室・鳥居姫(二)』、『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(六)・忠勝公正室・鳥居姫(三)』、『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(七)・忠勝公正室・鳥居姫(四)』の七作品でしたが、これ等の作品は、庄内藩初期の女性に関わるもので、その筆の運びの素晴らしいことに加えて、女性に関する史料の少ないなか、その各種史料収集に努め、更に正確を期するために現地を訪ね、加えて、鶴岡市立郷土館の専門員秋保良さん(75回(昭和43年3月卒))や関係する寺院の住職などに具体的事実の確認をとるなど、慎重にも慎重を重ねて丁寧に書きあげられている秀作でした。
 このような作品を独り占めするにはもったいないとの思いにかられ、同期の庄司英樹さん(高校時代は黒田藤一さんらと共に「文芸部」に所属していました。)にも転送したところ、早速次のようなメールが返ってきました。
・・・・・郷土史にあまり興味を抱いていないのですが、読み進めるに従って惹きこまれてゆきました。『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(七)・忠勝公正室・鳥居姫(四)』の中に私の母の先祖「船戸」のことにまでふれているのには驚きました。私は小学校4年まで幸町(現陽光町)の船戸の家で育てられていました。総穏寺の隣です。私と船戸の当主とは従弟の関係にあり、彼が今この家に住んでいますが、先祖は、酒井家が信州松代を統治していた頃から御典医として酒井家に仕えていました。そして、船戸家の総穏寺の墓地の近くに、忠勝の正室の墓があると教えられていました。「鳥居姫」の墓地に植えられていた古木のサクラは、苔むしていて良く知っています。当時、総穏寺の船戸の墓地近くには築山があり、姿のいい赤松の古木、大人二人が手を広げても抱えきれない欅などの大木が繁ったふもとに枯山水の庭園がありました。仄聞すると、カラスがこの林に群がって鳴き声がうるさい上に、糞の被害がひどく、すべて伐採されてしまったとのこと。当時を知る私にとっては枯山水の名庭園の撤去は"糞害"ならぬ"憤慨"です。従弟は、「酒井家の菩提寺は大督寺なので、ここに埋葬されたのは側室ではないか」ということでしたが、しかし、当時の庭園を知る私にとって、青柳さんの正室説は納得できます。今でも漢方薬の調合を記した古文書が残っています。「鳥居姫」との関わりは聞いてはいませんが、何れにしても我が先祖のことが記述されていたことの驚きと彼女への感謝への気持ちでいっぱいです。しかも彼女が同級生の妹さんとは・・・。作品をコピーして鶴岡に出向いた折に従弟に見せ、今後の調査の資料にさせていただきます。郊外にある井岡寺にも船戸をはじめ庄内藩士の墓地があり、その関わりがはっきりしていないので、今回を契機にして調べたいと考えています。青柳さんのメールを転送していただき感謝します。・・・・・
 青柳さんは作品のなかで、「酒井忠勝の正室は、山形20万石から信州高遠3万石に改易された鳥居家(鳥居忠政の娘)から輿入れした人で、ために「鳥居姫」と呼ばれた。嗣子を設けることなく庄内で亡くなるのであるが、浄土宗である酒井家の菩提寺・大督寺に葬られず、鳥居家の菩提寺が禅宗である因縁から禅宗の一派である曹洞宗の総穏寺に葬られた。そして、その総穏寺の「鳥居姫の墓」の最も近い位置に「船戸家」の墓があるのは、船戸家がもともと鳥居家付きの医師であって、「鳥居姫の御典医」として「鳥居姫」に従って庄内に来たものと推察される。」と述べています。また、「サクラの古木は古損したため、1974年(昭和49)に伐採され、今はドウダンツツジの生け垣に変わっている。」ことを住職に確認しています。なお、文中に出てくる「大督寺」が「学校給食発祥の地」(1889年(明治22))であることは、今更私が説明するまでもないところです。 庄司さんのメールを貰ってから改めて同窓会名簿を捲ってみたところ、青柳さんの兄君は、水口脩嗣さんといい、庄司英樹さん、黒田藤一さんと同じ4組の鶴翔同期で、現在千葉市在住であることが確認できました。
3 青柳さんのホームページ
 「http:// www9.plala.or.jp/ mizu-san/ page025.html)」と表されるホームページがあります。インターネットだからこそ出来ることなのでしょうが、このホームページは水口脩嗣さんのもので、青柳さんはここに同居をして作品を掲載しているものです。 これを開いてみると、青柳さんは、新潟大学を卒業後、小学校で教鞭をとっていたこと、母校・新潟大学の研究生となったこと、1997年(昭和52)、後に新潟大学農学部農業経済学の教授となる青柳 斉さんと結婚したこと、また、ご主人が京都大学大学院で学ばれたこともあって京都で暮らしたこともあることなどなどが綴られてあります。更に、「だだちゃ豆」、「孟宗汁」、「寒鱈汁」,「栃餅」などの食べ物の思い出からふるさとの原風景を思い起こし、故郷の美味を話題にした作品を書きはじめたこと、しかし、「民田なす」を書き始めたころからは食べ物に変わって故郷鶴岡の歴史などに関わることを書くようになったこと、いつしか話題が従兄である榎本宗次さんのことに及び、さらには、榎本さんと親交があった藤沢周平(注)のことにも話題が及ぶようになって鶴岡の「藤沢周平文学愛好会」に所属するようになったこと、現在では庄内藩初期の「長門守一件」に興味を抱き、榎本さんのこれに関する業績を参考の中心としながら作品を書くようになったことなどを簡潔に述べてあります。
 自身のホームページ・「遠くにありて鶴岡」を編集された動機の挨拶として以上のようなことを自己紹介として述べているのですが、その掲載作品の具体的内容は、次のような項目立てになっています。
(注)定時制第16回(昭和21年3月卒)、本名小菅留治
T 妣(はは)の国
 1 だだちゃ豆、2 孟宗汁、3 寒鱈のどんがら汁、4 栃餅、5 花見団子、6 民田茄子
U 吹雪(ふき)の寄する国
 1 『義民が駆ける』という小説、2 従兄弟榎本宗次、3 文部省史料館・藤沢周平との接点、4 東大十八史会『学徒出陣の記録』、5 エアポケットの青春、6 歴史学者斎藤正一(注)、7 皇国史観研究室、8 終戦前夜、9 終戦・鶴岡市史編纂始動、10 藤沢周平らと俳誌「海坂」、11 「切支丹殉教の一考察」、12 豪商鈴木清風と芭蕉、13 平賀源内と構、14 鳥海山心字雪渓
(注)46回(昭和13年3月卒)、元独立行政法人国立鶴岡高等工業専門学校教授
V 鶴岡市史
 1 長門守一件(一)藤沢周平『長門守の陰謀』の舞台、2 長門守一件(二)徳川四天王酒井家の息子たち、3 長門守一件(三)忠勝と忠当・拮抗する父と息子、4 長門守一件(四)三十二御家中訴訟、雪の山林への「在郷」入りの悲劇、5 長門守一件(五)対立と裏切、6 長門守一件(六)御覧遊ばし候はば即ち火中、7 長門守一件(七)高力派の処分
W 藤沢周平ノート(母君の介護、自身の疾病と手術等があったためにXと共に現在筆を休めているとのことです。)
X 榎本宗次への旅
 なお、「たかが洋行されど洋行」というタイトルの作品は、兄修嗣さんの作品で、2000年のイタリア旅行、2001年のドイツ旅行、2002年のオランダ、ベルギー旅行、2004年の東欧3カ国(チェコ、ハンガリー、オーストリア)旅行、2006年のスイス旅行、2007年のスペイン、フランス旅行の各旅行記を天然色写真添付で紹介しているものです。伊藤道雄さんや屶網久嗣さんたち同期の顔も見られ興味惹かれる作品です。
 ところで、庄司英樹さんが石垣藤子さん(62回(昭和30年3月卒))と鶴岡名菓、「うめやす」の「とちのみだんご」の話をメールで取り交わした際、この青柳さんのホームページに栃餅のエッセイが載っていることとホームページの内容が豊富であることを石垣さんに知らせたところ、折り返し石垣さんから次のような返信メールがあったと伝えてきました。
 ・・・・・青柳さんとは素晴らしい方なのですね。ホームページを見て感動しています。まだほんの少し読んだだけですが、すごい、こんな鶴南の後輩がいるのですね。とてもいい文章が多く面白いのでそのうちわが62期の友達にも紹介してあげたいと思います。そのお兄さんが庄司さんの同期生なのですね。とても才能豊かな文才のある方ですね。また、水口さん達が高校の同期生と何度も就学旅行を楽しまれているようでうらやましいです。まだその若さがあるということですね。私たちは無理です。去年は北海道、その前は奈良でした。でも同窓生の皆さんがそうしていつまでも仲良くしている話をお聞きすると嬉しくなりますね。大事にしたい鶴岡南の同窓会の繋がりです。・・・・・
4 青柳さんの句集『柳絮降る』
 青柳さんは、上述のように庄内の美味、あるいは、庄内藩初期の女性像等に題材を求めて優れた作品を自身のホームページや同好誌に数々発表しているのですが、驚いたことにその文学活動は俳句の道にまでも及んでいることが分かりました。
 その句集『柳絮降る』の「あとがき」によれば、1996年(平成8)1月に俳句の会に入会していますが、入会の誘いに対する決断の経緯(いきさつ)は、ご本人曰く、従兄の榎本さんが生前、「密かな楽しみとして俳句をやっていた」と語った、その一言が脳裏をよぎったからだそうです。以来15年、大山雅由さん(本名は任光)(注)の指導を受け、「句の主体はあなた自身」という助言が徐々に身に沁みてきた頃、言葉が自分自身と重なる感覚が出てきたそうで、それは私が私であっても良いという自己肯定であったそうです。また、俳句道研鑽15年の間には、子供たちの巣立ち、母君の介護、青柳さん自身の疾病、手術等数々の試練もあり、その救いを俳句に求めたとも述べています。
 そして2011年(平成23)9月、遂に株式会社四季出版から句集『柳絮降る』が編まれました。「柳絮」は「りゅうじょ」と読み、「柳の白い綿毛のついた種もしくはその綿毛が風に吹かれて乱れ散る様子のこと」をいいますが、この句集のタイトルは夫君が研究のため中国に滞在した折、青柳さんが訪ねて行った時の光景を基にした句『あはあはと柳絮降る日を逢ひに来し』から採ったもので、北京への挨拶と夫君に対する感謝の気持ちを込めて採用したものであるということです。句集には故郷の原風景を詠み込んだ句も多々あり、素直で読みやすい句集だと思いますので、是非一度目を通されることを勧めたいと思います。
 なお、青柳さんは、現在のホームページから大山雅由主宰の俳句誌『隗(かい)』にシフトして、その主題を『ふるさとの味便り』、『庄内風土記』として連載をしていたことがあるとのことです。
(注)インターネットで『主宰・大山雅由のページ』を検索して「2010−12/俳句四季12月号・『新作家訪問』」をクリックすると大山さんが紹介されています。
5 広がるホームページの輪
 最近は、「山形鶴翔同窓会」のホームページに投稿した拙文に対して同期や見知らぬ方から誤りの指摘や疑問解決に対する謝辞の便りを貰うようになりました。さらに「山形鶴翔同窓会」のホームページがあったために私と青柳さんとの思わぬメールの交換が始まり、青柳さんの優れた創作にも接することが出来ました。
 振り返ってみますと、佐竹規成さん(58回(昭和26年3月卒))が同窓会の会長時代の2003年(平成15)の定期総会において、当該ホームページを立ち上げたいとの提案がありました。協議の過程ではその意義を疑問視する意見などもあって、その立ち上げには紆余曲折があり、提案者はかなり苦労したのですが、「山形鶴翔同窓会」のホームページも今年で早10年目を迎えることになり、今になって考えれば、その提案は是であったように思います。また前述したように当該ホームページへのアクセスも多くなってきているように思われ、今回の青柳さんの例のように鶴翔同窓のホームページのネットワークが一つ広がったケースも出てきました。
 このような状況に鑑みホームページにはこれからも会員の声、提案、情報の提供あるいは作品の投稿なりが多々寄せられて楽しいホームページになることを望むものであります。それにしても大山駿次さん(66回(昭和34年3月卒))には、今日まで半ば労力奉仕の形でホームページの管理に尽力してもらっており、この場を借りて改めて深甚の謝意を表したいと思います。
 終わりに、青柳明子さんから次のようなメールが届いたことを付記して筆を置きます。
 ・・・・・留守中に庄司英樹様からメールを拝受しており鶴岡の船戸家を「聞き取り」訪問する際には便宜を図って下さる由、大変心強い思いです。鳥居姫のことは今後も継続して調べたいので、「信州松代のころから御典医として酒井家に仕えたという口碑(注)の残る船戸家はとても興味惹かれます。山形鶴翔同窓会のホームページの一文から発展してこのような展開があるとは思いもよりませんでした。今後ともよろしくお願いいたします。
(注)「こうひ」と読み、「言い伝え」のことです。「碑」は「永久に滅びない」の意味で、石に刻んだ碑文のように永く言い伝わることを意味します。
2013年6月6日