広がるホームページの輪 〜青柳明子さんのこと〜(追記)
拙稿がホームページに登載されてほどなく、庄司英樹さんから次のようなメールが届きました。なお、このメールは私と青柳さん宛てになっていました。
ホームページで投稿文拝読しました。去年、富塚前鶴岡市長にお会いした際に「慶応義塾大学先端生命科学研究所(慶応大学鶴岡キャンパス)」の立ち上げ、運営には鶴岡に所縁(ゆかり)のある鳥居塾長に大変お世話になった」との話を聞きました。この時は、鳥居塾長がどのような所縁が鶴岡とあったのか知らなかったので、聞き流してしまいましたが、この度、青柳さんの研究成果、『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(七)忠勝公正室・鳥居姫(四)』を拝読、鳥居家と塾長との距離が一挙に短縮して富塚前鶴岡市長の話されたことがぐっと身近なものになりました。慶応大学鶴岡キャンパス設立は、鳥居姫をめぐる歴史と深い関わりのあったことを始めて知った次第です。 |
このメールを読んでから改めて調べてみると、「慶応義塾大学先端生命科学研究所」が2001年(平成13)に鶴岡に開所した当時の慶応義塾大学の塾長は鳥居泰彦さんでした。この方が鳥居家の末裔に当たられるとは、私も初めて知ったところです。それにしても青柳さんとのこの度の出会いは奇縁な出来事でした。
今更私が説明するまでもないのですが、かつて「百間堀」のあったところに建つ「慶応義塾大学先端生命科学研究所」は、先輩の富塚陽一さん(第57回(昭和25年3月卒))が鶴岡市長を勤めておられた2001年(平成13)に、「世界的なバイオ研究拠点の形成に向けた研究教育の展開」を目的に開設された施設で、最近では、この施設が関わった「人工合成蜘蛛糸繊維」や「鶴岡漢方プロジェクト」が新聞やテレビで大きく取り上げられました。
ところで、鳥居姫は、青柳さんの作品『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(四)忠勝公正室・鳥居姫(一)』を読んでいただければ良く分かるのですが、鳥居姫の父親は鳥居忠政という人で、彼は元和8年(1622)から寛永5(1628)まで22万石の山形城主であった人です。最上家亡きあと、鳥居一党として、庄内に酒井忠勝、新庄には戸沢政盛が、また、上山には松平(能見)重忠とそれぞれ領地が与えられ、奥羽の抑えの重役を担っていました。酒井、戸沢は、いずれも鳥居家とは縁故関係(酒井忠勝、戸沢政盛の正室は、それぞれ鳥居忠政の娘です(注)。)がありましたが、当時の藩主の結婚は、重要な政事(まつりごと)の一つであったわけです。そして、忠政亡きあとは、嗣子の忠恒が寛永20年(1643)まで山形を治めていましたが、無嗣子で死去したため、領地は一旦公収されました。ただし、鳥居姫の祖父鳥居元忠が徳川家康の側近中の側近で、関ヶ原の戦において功があったところから改めて忠恒の異母弟の忠春に3万石が与えられ、信濃の高遠に転封になったという因縁があります。代わって、山形には徳川家光の異母弟保科正之が20万石で入り7年の在封の後会津へと転封になりました。
これまたほどなくして、青柳さんから庄司英樹さんのメールを読んでの感想と一句が私宛の別用のついでに届きましたので、それを紹介して追記の筆を置きます。
私も総穏寺の齊藤裕道住職に、慶応義塾大学の鳥居塾長の件を伺うまでは、全く知りませんでした(鳥居泰彦塾長が鳥居家の末裔で、慶応義塾大学の塾長時代の2001年(平成13)に「慶応義塾大学先端生命科学研究所」が鶴岡にオープンしたこと、また、併せて酒井忠明ご夫妻とともに鳥居泰彦ご夫妻が総穏寺の鳥居姫の墓参をされたことの両方の意味です。)。
「御子一柱もおはしまさず」と、江戸時代末期の歴史家に描かれた鳥居姫でしたが、こういう結実もあるのですね。
緑陰の姫君に寄せて、一句
緑陰やよすがの風の軽やかに 明子 |
(注) 酒井忠勝は、元和5年(1619)3月越後高田藩10万石から信濃松代藩に10万石で移封され、元和8年(1622)6月には出羽庄内藩に13万8千石で移封されていますので、青柳さんは『「長門守の陰謀」を巡る人間模様(五)忠勝公正室・鳥居姫(四)』において、鳥居姫の酒井家への輿入れは、元和6年(1620)と推考しています。 |