摩訶迦羅山(大黒山)宝珠院宝幢寺の寺領の上地と廃寺について

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
≪摩訶迦羅山(大黒山)宝珠院宝幢寺≫
 現在、山形市の都市公園・「もみじ公園」として市民に広く親しまれているところは、かつては、山形で最大級の寺院、真言宗の「摩訶迦羅山(大黒山)宝幢寺(ほうとうじ)」があったところで、池泉回遊式庭園と書院は当時の遺稿です。
 この寺院は、@天平3年(731)、出羽国最上郡滝平(現山形市大字滝の平)に行基によって開創され、A延文2年(1357)羽州探題斯波兼頼が山形城下地蔵町に鎮国安民の祈願寺として移設したといわれています。そして、B天正12年(1584)、最上義光が天童城を攻撃し、落城させた後、その跡地に愛宕神社創建したのですが、以来、宝幢寺は愛宕神社の別当職も兼帯することになり、御朱印地や黒印地を多数有する山形で最も大きい寺院となり、『山形風流松之木枕(玉井本)・11宝幢寺』(注1)では、次のように紹介されています。
是ハ、禅宗玉翁山法昌院、又是ハ浄土宗遍照山成願寺、又東へ見へ候此寺ハ真言宗に而山形之大寺也、摩訶迦羅山宝珠院宝幢寺、御本尊ハ五智之如来、護摩堂ニ而ハ長日護摩修業有之,并一切経蔵、鐘楼堂、御署院,泉水築山結構也、美尽善尽、御境内ニ虚空蔵堂、塔頭尓(に)、徳性院、延命院、長善院、御隠居所ハ戒光院、御地中二ハ家老曽根作右衛門、三左衛門、代官蔵方諸役人軒を並て、御知行所ハ天童村御家頼(来か)人別六百余人、御代々御城主之御祈祷所、往昔出羽大守与(と)天童城主合戦之時、御祈祷奉仕二候、御利運ニ付寺領被寄附とかや
(注1)山形城下に宿泊した旅人を、旅籠の主人が二日間にわたって城下の名所・旧跡を案内する内容の、今風にいえば「山形城下ガイドブック」のようなものです。江戸時代後期頃のものといわれ、玉井本、櫻井半十郎本、佐藤光男本、館林本など少なくとも20冊余の写本が残るといわれるところから、当時の人々に広く読まれたものであったことが伺えます。原本があって、これを多くの人が写本したことになりますが、写本した人によってそれぞれ思い入れがあったため、それぞれの項目の表現や内容に濃淡があるようです。
≪宝幢寺の寺領(黒印地・朱印地)の大きさ≫
 宝幢寺の山形の境内地は、北の地蔵院迄広がっていたといいます。そして寺領田畑石高については、@天正12年以前は300石、A『山形風流松之木枕(玉井本)』の記載の通り、最上義光の天正12年の天童城攻撃の際に、法験ありということで、1,070石を寄進されました(黒印地)。その後、B慶安元年(1648)7月10日に徳川家光から朱印状が下賜され、山形藩内での筆頭寺院となりました。C寛文5年7月11日の徳川家綱の朱印状には、「出羽国最上郡天童愛宕権現社領同所之内1,040石、山形領内之内36石、中野村之内190石,都合1,370石の事並びに竹木諸役等免除」とあって、名義上は社領でも、その支配権は別当寺たる宝幢寺にあることが明記されおり、寺領同然でした。寺領石高は江戸時代を通じて不変で、次のような内訳でした。
地域名 山形西田表 中 野 村 天    童 総   計
石 高 36石000 190石000(注2) 1,144石000(注3) 1,370石000
(注2)中野村(51.347)、船町村(63.556)、内表村(17.696),鮨洗村(38.216)、江俣村(1.413)、志戸田村(5.695)、陣場新田(9.9122)、吉野宿村(2.1648)
(注3)北目村(322.333)、奈良沢村(177.093)、矢野目村(136.008)、貫津村(131.880)、山口村(83.265)、田麦野村(2.808)、山家村(8.762)、久野本村(99.952)、老野森村(47.912)、小関村(43.502)、高木村(7.814)、押切村(0.780)、成生村(33.050)、窪野目村(12.193)、寺津村(21.640)、灰塚村(15.008)
 江戸時代に真言宗の僧侶の登録や一寺院を管掌する僧侶の任免等の人事を統括する僧録所として色衣免許状を出した宮門跡寺(法親王または、入道親王が住職となっている寺院)である仁和寺は1,502石、大覚寺は1,016石であり、これ等に比較しても宝幢寺の朱印石高はとび抜けたものであったのです。
≪明治の廃仏毀釈・宝幢寺寺領の上地と廃寺≫
 明治4年の「廃藩置県」とともに「廃仏毀釈」によって、一切の国家の管掌より除外し、専ら信者の浄財によって経営を維持しなければならなくなった当時の宝幢寺第40代住職浄珊(じょうさん)は、@廃仏毀釈など一連の通達に従い、還俗の道を選択し、別当を勤めていた愛宕神社の神主職任命の願いを明治2年(1869)8月7日に山形藩庁(注4)に提出し、翌年1月26日に許可を得て、浄珊は「佐伯菅雄」として神官に転じました。ときに32歳でした。Aこれにより、明治3年(1870)1月26日に愛宕神社神主となることを許可され、同時に宝幢寺は廃寺となり、筆頭末寺の「威徳院」、次席末寺の「平塩寺」も還俗したので、本尊の五智如来は「誓願寺」に安置し、旧宝幢 寺グループは、「請願寺」を本寺格、「地蔵院」を末寺総代としました。なお、真言宗所属寺として現在に法灯を伝えている寺は、村山山形教区では、「平塩寺」、「護真院(阿弥陀院)」,「宗覚院」、「清光院」、「養運寺」、「清浄院」、「地蔵院」、「新山寺」、「請願寺」、「正法寺」、「宝積院」、「常明寺」、「安養寺」、「観音寺」、「高仙寺」であります。B浄珊が還俗を選択したのは、「佐伯菅雄社中」16軒・93人の家族があり、家臣の扶持米の合計が792俵とあって、寺領収入の半分に相当し、その寺領も明治4年(1871)に「上地」となって府藩県の管轄となり、収入は3年間それまでの半減、その後も1割ずつの削減で、10年後にはゼロとなるので、30代の佐伯菅雄の双肩には彼らの生活がかかっていたために転進もやむをえなかったのです。つまり、江戸時代に支配者より特権を与えられていた仏教界の出身者として、明治新政府の方針に従うのは当然でしたが、宝幢寺の最大の収入源であった寺領は上地令によりもはやなく、真言宗のように特に檀家の少ない同寺の廃寺は当然の帰結でした。このようにして積極的に政府の方針に協力せざるを得なかったのですが、この混乱期に住職浄珊が「神道国教化政策」の道を選んだのは、考えようによっては、むしろ先見的処置であったといえるかもしれません。
(注4) 明治2年6月17日(1869年7月25日)、旧大名から出されていた「版籍奉還」の願い出が許可され、改めて「藩」が明治政府の下での行政区画とされて、旧大名は「知藩事」に任命されました。この結果、政府直轄の「府・県」と並立して旧大名の管轄下にある「藩」により全国(ただし北海道と沖縄は除く。)が統治される、いわゆる「府藩県三治体制」が確立し、明治4年7月14日(1871年8月29日)の「廃藩置県」によって全ての藩が廃止されるまで続きました。
≪明治政府による社寺領の上地≫
 @1871年(明治4)1月5日に太政官布告第4号が布達され、社寺が領有する土地の内「現在ノ境内ヲ除ク外一般を上地」するよう府・藩・県から関係筋宛て発せられました。これを「第1次上地令」といい、対象地は、【図1】の(狭義の社寺領)である「境内地以外の領地」がこれに該当します。この布達を出した政府の論理は、「社寺境内地はもともと国有であって「版籍奉還」と同様に土地の知行を取り上げる」というものでした。つまり、「社寺境内地」は、従前、租税ノ収納に関する権利を社寺が徳川幕府や諸藩から認められて領地し、税を課すなど、その領内の領民に対してある程度の公的な支配権を講じ得た領域でしたが、「版籍奉還」によって「社寺領」を与える主体であった領主権力が消滅したために「社寺領」の法的根拠が失われてしまったこと、1873年(明治6)から始まる「地租改正」においては、あらゆる土地の所有者を定めて民有地に課税するものであることによるものでした。
明治4年1月5日太政官達4号
社寺領現在ノ境内ヲ除ク外一般上地セシメ更ニ廩米ヲ賜フ事
諸国社寺由緒ノ有無ニ不拘、朱印除地等従前ノ通被下置候処、各藩藩籍奉還ノ末、社寺ノミ土地、人民私有ノ姿ニ相成、不相当ノ事ニ付、今度社寺領現在ノ境内ヲ除ク外、一般上地被仰付、追テ相当ノ禄制被定、更ニ廩米ヲ以テ可下賜事。
 但シ、当午年収納ハ従前ノ通下候事
 一 領地ノ外ニ旧政府並びに旧領主等ヨリ米金寄附ノ分、依旧貫当午年迄被下候向モ有   之候処、来未年ヨリ被止候事。
   但シ家禄ノ内ヲ以テ寄附致候儀ハ別段之事。

Aただ、この上地令では、「現在ノ境内」とそれ以外の土地との区分が明確でなかったので、1871年(明治4)5月24日に太政官布達第258号で「境内外区別基準」が政府から各府県宛てになされ、上地される範囲は、【図1】の(広義の境内)境内地の内の「境内付属地」の一部、つまり、墓地を除く耕作地、山林などまでに拡大されました。
明治4年5月24日太政官布告第258号
府県へ
諸国ノ寺院ノ現在ノ境内ヲ除キ、一般ノ上地ガ被仰出(オオセイダサレ)、収納シ、現在ノ石高ノ平均ノ取調方ヲ相達シ置候処、境内ノ区別ノ調べ方ハ一定不致向(イタサヌムキ)之有、不都合ニ付、従前ノ坪数、反別ニ不拘、相当ノ見込ヲ以テ境内ノ区別ヲ相定メ、其ノ余ノ田畑・山林ハ勿論、譬(タト)エ不毛ノ土地ニ候共、墓所ヲ除クノ外、上地ノ儀御布告ノ通、相心得、総テ収納之有ル分ハ6カ年ノ平均ヲ取調べ、兼テ相達シ候期限迄ニ可差出事(サシダスべキコト)。
但シ、境内地ノ区別ハ今般、相達シ候趣意ニ反シ、取調テ差出候向ハ、早々再調ノ上、引替ル可シ。
 B最終的には、地租改正作業の結果、明治7年11月7日太政官布達第120号の「改地所名称区分」によって、地所の名称を「官有地」(第1種から第4種まで)と「民有地」(第1種から第3種まで)に限定し、「寺院」は、「官有地」の「第4種」に属するものとなりました。そして、地券を発行せず、地租・地方税を課すでもなく、「官有地」たる境内地では社寺の経営を認めたのですが、宝幢寺の場合は寺領の総てを上地したのでした。
≪浄珊改め佐伯菅雄が歩んだ足跡≫
浄珊改め佐伯菅雄が歩んだ足跡を振り返ってみると、概略次のようなものになります。@1870年(明治3)4月、武蔵一宮之日川神社で、正式な神祭式を伝授され、同年10月、山形県内の神官に伝授された神祭式を実演するなど、神官としての途を真摯に歩み出しました。Aそして、武蔵国足立郡下谷村(現埼玉県鴻巣市)に帰農していた旧幕臣西野鉾助の娘みきと結婚しています。B1871年(明治4)1月5日の「上地令」に従い、明治4年から5年にかけて上地引き渡しをおこない、同年5月20日には山形県大参事から神職(社家)触頭を拝命しています。C1873年(明治6)6月7日には、教部大丞三島通庸から教導職(訓導)(注5)拝命しています。ただし、この教導職は1884年(明治17)に廃止になりました。D同年7月10日、大教院から山形県内教導取締を拝命し、同時に山形市鉄砲町の八幡神社神主に栄転します。E1874年(明治7)1月4日には、山形県内神官触頭に就任すると共に、同年9月2日には、山形中教院庶務課長となります。F明治8年3月に神道事務局は創設(明治19年に神道本局となります。)されるのですが、同年10月9日に中講義から大講義に昇進し、山形県神道事務分局長となります。G1879年(明治12)12月には、権少教正、1784年(明治17)10月27日には、権中教正へと昇進し、1787年(明治20)2月には、神道本局(注6)幹事となります。Hしかし、1788年(明治21)になると病魔に侵され、諸職を辞すことになり、I1794年(明治27)12月30日、佐伯菅雄は、その波乱の人生に56歳でもって幕を引いたのです。
(注5)「大教宣布」のために設置された宗教官吏で、次のように階級がありました。
   名 称     順           位
   教 正 大・権大・中・権中・少・権少 (6階級)
   講 義 大・権大・中・権中・少・権少 (6階級)
   訓 導 訓導・権訓導         (2階級)
(注6)1875年(明治8)「教部省」の神仏合同布教の廃止と共に「大教院」が解散させられる前に神道側の自立を目的に神道関係者によって「神道事務局」が設けられましたが、信者数など一定の条件を満たした黒住教神道、修正派等が独立していく中、旧教導職が稲葉正邦を管長に「神道本局」を組織し、各地に分局、支局を設置した。1886年(明治20)以後「神道」の名称で独立教派の扱いを受けることになります。
≪廃寺後の宝幢寺の施設の活用≫
 廃寺後の宝幢寺は、地形図上、1877年(明治10)には「中教院」(山形市街図全図・五十嵐太右衛門発行)、1879年(明治12)の段階では「神道事務分局」と表記され(山形県管轄羽前国村山郡山形市街ノ図)、同じく1881年(明治14)でも神道事務分局」と表記されています(山形県発行・山形市街全図)が、五十嵐太右衛門発行の地形図には、「中教院」と表記されており、1901年(明治34)以降は、「宝幢寺」と表記されています(日本帝国陸地測量部)。
 このように廃寺となった後の寺院施設は公有となり、国民に対して「尊皇愛国思想」の教化(大教宣布)を推進するための機関である「中教院」(注7)となり、後には「神道事務分局」となります。また、1877年(明治10)7月16日には、三島県令が「山形県議会規則」を制定し、それに基づき8月10日に廃寺後に設置された「神道事務分局」で「山形県議会」が開催されました。ただし、政府が「府県会規則」を公布するのは、1878年(明治11)7月ですから、山形県議会がそれより早く設けられたのは注目に値するのですが、議員は公選を原則としながら、官員と区戸長、里正(注8)も公選議員と同格の発言権と議決権を与えられる等問題が多く、「官選県議会」あるいは「諮問機関」とみなした方が適切とされています。なお、1911年(明治44)5月の山形市北部大火で薬師寺本堂が焼失したため、その後、宝幢寺本堂を移建しています。
(注7)中央には「大教院」、府県には「中教院」、各地に「小教院」が設けられました。1872年(明治5)3月,神祇省が廃止され、教部省が設置されました。4月には、「三条の教則」が発布され、教導職14階級の制度を設けて、神官を教導職に補し、日本各地で「三条の教則」を元に説教を行わせ、やがて僧侶も教導職に合同させました。しかし、元々性格の異なる両者は、常に互いに反撃し合い、神道側の中でも軋轢が生じ、事態の紛糾を招き、又、外部からも教部省と大教院の方針に対する非難もあって、1875年(明治8)4月、神仏合同の布教禁止の令が発せられ、5月大教院は解散、閉鎖されました。
(注8)「区長」、「戸長」は県庁の人選による県の地方役人、「里正」は区長や戸長人選による町・村の長のことです。
 第2次世界大戦後の1951年(昭和26)には、「庭園と書院」が山形市所有となり、 現在の「もみじ公園」となるのですが、「もみじ公園・旧宝幢寺庭園の由来」については、次のような説明板が現地に山形市によって建立されています(2012年(平成24)12月19日に山形鋳物の説明板に建て替えられました。)。
この庭園は、元真言宗の巨刹宝幢寺(御朱印1370石)の池泉回遊式庭園です。これまで、元禄初期(1688〜)の山形城主松平大和守直矩公(注9)(10万石)が姫の病気平癒祈願のお礼として作庭寄進されたと言い伝えられてきました。しかし、近年それを改める史料が発見され、それによると寛文年間(1661〜)城主松平下総守忠弘公(15万石)が城内本丸庭園を造り直した際、その余石と吉野のもみじをもって、この庭園も改築し、江戸から招いた幕府庭師と共に、忠弘公自ら手を加え完成させたとされています。宝幢寺は、明治初期に廃寺となり寺郭が取り払われました。残った書院(注10)と庭園は、昭和26年本市の市所有となり、その後「もみじ公園」として一般に開放されたものです。       昭和59年11月 山形市
( 注9)「なおのり」と読みます。
(注10)現「清風荘」です。1957年(昭和32)10月に旧宝幢寺書院を改修して、1979年(昭和54)に茶室「宝紅庵」を併設しました。そして、2001年(平成13)11月20に「国登録有形文化財(建造物)」に指定されました。
≪中濱万次郎と一緒に写真におさまる佐伯菅雄≫
 昨年、「宝幢寺及び佐伯菅雄関係資料」として、文書類・絵画資料・掛軸など多数の史料が山形県立博物館に寄贈されたのですが、これ等資料の中にちょっと面白い写真資料があるということで、同博物館の秋葉正任学芸員が『山形県立博物館友の会会報第1号』(通巻18号、2013年6月30日発行)に執筆されているので、その一部を引用してみたいと思いますが、佐伯菅雄と中濱万次郎がどのような関係にあったのか、その謎の部分についての早い解明が望まれるところです。
・・・佐伯菅雄氏とともに撮影された1枚の集合写真である。中に中濱万次郎(ジョン万次郎)(注11)がいる。この写真は、東京から山形に封書で送られている。封書の送り主の面の消印には「一六・九ニ六」とあり、明治16(1883)年に撮影されたものであろうか(封書には九月廿六日と日付の記載があるので、九ニ六は月日であろう。)。なぜ万次郎が佐伯氏とともに写っているのか、残念ながら理由は分からない。佐伯氏は明治5(1872)年教部省設立後、教導職(敬神愛国などに基づき各地で説教を行い、人々を教え導く宗教官吏職。)に任じられるなど神道関係の要職を歴任している。万次郎は明治4(1871)年に44歳で脳溢血に倒れると、明治31(1898)年71歳で死去するまで静かに余生をすごしたという。二人のつながりがどういうものであったか、大変興味深い。なお、集合写真の人物は、(左前列から)飯田景武、大嶋為武、長谷川民清、中濱万次郎(左後列)佐藤享、佐伯菅雄、鈴木三五郎であり(裏面に名称記載)、万次郎と佐伯以外の人物は現在のところ不明である。・・・
 (注11) 嘉永4年(1851年)2月2日に琉球に上陸して帰国したのですが、明治維新後には1869年(明治2)に「開成学校」(現東京大学の前身校)の英語教授に任命され、翌1870年(明治3)、「普仏戦争視察団」として大山巌らと共に視察団として欧州へ派遣されましたが、発病してロンドンで待機します。帰国途上恩人のホイットフィールドと再会するなどして明治4年(1871)に帰国するのですが、帰国直後に軽い脳溢血で倒れます。しかし、すぐ回復しその後は、明治31年(1898)に71歳で亡くなるまで静かに余生を送りました。ときの政治家との交流もあり、政治家になるようにとの誘いもあったそうですが、教育者としての道を選んだようです。
≪参考文献など≫
 『緑と水のひろば』(公益財団法人東京都公園協会、No.66/2012 ),『東京の公園通誌』(末松四郎、1981年、郷学社)、『公園の誕生』(小野良平、2003年、吉川弘文堂)、『京都における風致概の変容過程に関する言説研究』(岩田京子、立命館大学Core EthiseVol.7)、『浅草花屋敷における借地料減免運動の展開』(小沢詠美子、神戸大学紀要論文、2011・12・08)、『山城国葛野郡天龍寺の境内地処分と関係資料』(小林善仁)、『廃仏毀釈と真言僧―宝幢寺浄珊を事例として―』(村磯栄俊、現代密教14号)、『宝幢寺文書解題』(史料館、昭和37年、大蔵省印刷局)、『出羽国山形宝幢寺文書』(国文学研究史料館、資料情報共有化データーベース)、『Wikipedia』
2013年9月2日