歴史エッセイ ─庄内藩の女性たち─〜序章  酒井忠次公正室 吉田殿

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 歴史エッセイ ─庄内藩の女性たち─〜序章  酒井忠次公正室 吉田殿
 【はじめに】
 郷里・鶴岡へ帰ったとき、時間があれば必ず立ち寄るのは、山王通の古書店「阿部久書店」である。ここには、郷土史関係の書物・写真集・雑誌が豊富であり、中には掘り出し物もある。「酒井忠次公傳」も、くだんの古書店で購ったものである。五百円だった。カバー函は黒ずみ、中を抜き取るとホコリとカビの微かな刺激臭がして、ひとつ嚔がでた。

 奥付を見ると、昭和十四年八月三十日印刷、同年九月六日発行、著作者・桑田忠親、発行者・先求院堂宇修繕後援會長・小林憲吉、となっており、京都で発行されたものらしい。
 中をめくると「浄土宗管長・知恩院門跡 大僧正郁芳随圓猊下 題字」「伯爵酒井忠良閣下題字」等の書蹟、忠次公の甲冑の写真、肖像の写真など、おごそかに続く。十頁ほどしてから辻善之助氏による「序文」がある。次に佐藤小吉氏の「序」、その次に桑田忠親氏の「はしがき」それから小林憲吉氏の「刊行の辞」があって、ようやく「目次」となる。
 ただ、これだけ序文や序やはしがきがあると、この本が刊行された経緯が手に取るように分かるのである。
 かいつまんで言うと、酒井家の始祖、忠次公の霊廟、知恩院塔頭先求院の堂宇が「風餐雨触」の態であるので、庄内の酒井伯爵家、京都庄内人会、及び庄内旧藩関係者に呼びかけ、堂宇修繕後援会を設立した。京都のみならず、鶴岡でも資金を募り、めでたく堂宇は営繕がなされた。「さらに藩祖傳記編集の議あり」て、奈良女子高等師範学校の佐藤小吉氏に執筆を頼んだが、佐藤氏は「余、浅学非才加うるに公務多忙」の故を以て断られた。佐藤氏は恩師の國史学の三上参次博士に相談、三上氏は東京帝國大学史料編纂所長、辻善之助博士に相談。辻博士は同編纂所の桑山忠親文學士を推薦し、ここにようやく執筆者が決定した。
 桑山氏は、寛永諸家系図傳、寛政重修諸家譜、小寺信正の酒井系譜、堀季雄の御系譜参考、膳所侯本多康伴の撰紡録、等の基本古文書史料に若干の新史料を加え、傳記を編んだ。

 「刊行の辞」の小林憲吉氏によれば、大正十二三年頃、京都庄内人会の会長・藤井健治郎博士は「酒井忠次公の御廟所と御墳墓は京都に在します」という史伝を便りとして、その所在を探した。「時の副会長高力直寛氏などその探査に懸命された。かくて、大正十四年、京都知恩院内の先求院に公の御廟所のあることが分かり、知恩院山上にその御墳墓があることが確かめられた。」
 「発見」されたときの堂宇は「山寺、春を訪ぬれば、春寂寥」というていで、かなり荒れていたようである。かくして昭和五年、「先求院堂宇修繕後援会」が発足した。この間、初代会長・藤井健治郎博士が逝去、第二代会長の高力直寛氏の時は、昭和五、六年の不況でこの事業が頓挫しかけたこともあったが、何とか昭和十二年以前には修繕が済んだ模様である。何故なら「堂宇の修繕は正に済んだ。永の念願を果たした高力會長の歓びは蓋し想像の及ばないものがあったことと推察するのである。その後、昭和十二年、高力會長は他界され」て、小林氏が会長の任につく。

 この経緯だけでも、歴史を感じる。昭和十一年、二・二六事件、昭和十二年大本営設置、中国では廬溝橋事件が起こり、日中戦争が始まった。昭和十三年は国民総動員法が施行された。この「傳記」が一般世相の戦機の高まりと連動していたのか否かは分からないが、大正も末の頃から始まった藩祖顕彰事業には、熱っぽい「郷土愛」を感ずるのである。

 この「酒井忠次公傳」は、お読みになった方もおられようし、酒井忠次という武将はたいへん有名なので、私が付け加えることは今更、何ひとつないのである。ただ、この本を底本として、彼の周囲の女性たち、中でも正室の吉田殿(碓井姫とも呼ばれる)を取り上げたい。この序章の後は、庄内藩初代藩主・酒井忠勝公の側室・花ノ丸殿、正室・鳥居姫、実母二ノ丸様、その他の女性たちに光を当てたい。世の中の半分は女性が占めているのだから、女性の側から歴史を見たらどう見えるかも、試してみたいのである。
 読みやすさを考え、旧漢字は引用文中などの必要な場合しか使わず、歴史上の人物ということで、敬称を略することもあることをお許し願いたい。

【京都・桜井屋敷】
 天正十六年(1588)、京都桜井屋敷。酒井忠次は世話をしてくれる若い女性と隠遁の生活をしている。晩年は眼病を患い、殆ど目が見えなかったという。
 桜井というところは、「角川日本地名大事典」によれば、江戸期から現在の地名。「智恵光院五辻下ルの町。町名は桜井という名井があったことによる。室町期の連歌師桜井基佐(もとすけ)は当地に在住し、桜井を称したと伝えられる。」のである。
 「酒井忠次傳」でも、「忠次が京都に与えられた屋敷というのは、西陣本丸町の辺、智恵光寺小路の近くにあり、屋敷の内に桜の井という井戸があったので、桜井屋敷と呼ばれた。今は町屋の裏に当たり、八幡の社がある。土地の人の傳には、酒井忠次公を祀った社であるという。」
 とあるが、八幡社に関しては、現在は「首途(かどで)八幡宮」と呼ばれ、源義経が金売橘次(きちじ)に連れられて、この地から奥州へ旅立った、とされているらしい。

 忠次に屋敷と世話係の女性を与えたのは、豊臣秀吉である。天正十四年(1586)、徳川家康が秀吉に「臣下の礼」を取るために上洛したとき、秀吉は一行を京都の聚楽亭に迎え、饗応には善美の限りを尽くし、家康には在京の賄料として近江守山の三万石を、忠次には近江内で千石の地をあてがい、後に桜井の屋敷を授けたという(寛永諸家系図伝)。
 当時の西陣・桜井の地は、旧二条城や聚楽第からそう遠くはなく、閑静ではあっても、草深い田舎ということではなかったと思われる。

 この地に、妻である正室の吉田殿は一緒にいたのかどうか。筆者は、当然共に暮らしているものと思い込んでいた。たとえ、世話係の若い女性がいたとしても、それが一緒に暮らさない大きな理由になるとは思えなかったのである。
 ところが、忠次の妻・吉田殿にはもう一つ呼称がある。「碓井姫」である。この呼称の由来を考えるに、老いた夫との同居説は揺らがざるを得ない。では、もう少し彼女について、語ってみよう。
 彼女の名前は於久。松平清康の娘で、徳川家康の叔母にあたる女性である。享禄二年(1529)誕生。「忠次公傳」によれば「はじめ長沢の松平上野介政忠の室となって、一子源七郎康忠を生んだが、永禄三年(1560)五月十九日(時に姫三十二歳)、政忠討死の後、酒井忠次に再嫁した。吉田殿と言われたのは、おそらく忠次の妻として、参州吉田城に住むようになってからであろう。」
 忠次の五男二女のうち、吉田殿が生んだのは、長男家次、次男康俊であるという。三男は側室某氏という説と、吉田殿説があるが、三男の時は、吉田殿は既に四十二歳くらいなので、やはり側室某説の方が自然である。四男久恒は山形昌景の娘・善光寺別当の粟田鶴寿の寡婦・bニされている。他の女子二人は、いずれも妾腹と言われる。
 そして、最後の五男忠知が、京都桜井屋敷で生まれた。文禄二年(1593)六月のことだった。「母は近江の士、小山十兵衛の娘。忠次老病の介抱として秀吉より附された女中である。」

 忠次公正室吉田殿が「碓井姫」と呼ばれるためには、実際、碓井という場所に居たという事実が必要である。酒井忠次が隠居した天正十六年(1588)には、家督を相続した嫡男家次はまだ吉田に封ぜられていた。その二年後の天正十八年(1590)、八月十九日、家次は下総碓井三万石に封ぜられる。この時、多分、母親の吉田殿も共に移ったのではないだろうか。彼女は夫と同居せず、息子と行動を共にしたわけである。 下総碓井に移ったとき、吉田殿は既に六十一歳であった。それでも「姫」と呼ばれるのは、ひとえに彼女の身分が高かったからであろう。十年後の関ヶ原の戦いはまだだが、この時点でも、徳川家康の叔母という地位は、威力があったのだろう。隠然たる政治力もあったと推察される。

 五男忠知が生まれてから三年後の慶長元年(1596)十月二十八日、酒井忠次は七十歳の生涯を京都桜井屋敷で閉じた。死因は脳卒中と言われる。知恩院塔頭先求院に葬られ、法名を「先求院殿天誉高月縁心一如大居士」という。

 さて、話は全くかわるが、忠次の孫の酒井長門守忠重(幼名 九八郎)が四歳にして、祖父忠次の養子になったという説(寛政重修諸家譜)がある。但しその中で、「長門守忠重の生年は慶長六年とされているので、忠次没後に養子になるのは、不自然である」とも述べられている。一説には、祖母の吉田殿(碓井姫)の養子となったというものもあり(御系譜参考中、三松伝忠重の系)、むしろこちらの方が自然ではある。
 長門守忠重は、兄酒井忠勝の庄内十四万石の「乗っ取り」を計ったとして悪名高いが、筆者は部分的に少々異論がある。それは、後々の論考で示していきたい。

 何故、吉田殿は長門守忠重を養子にしたのだろうか。長門守は息子家次の側室の腹だと言われているが、その側室が早死にでもしたのだろうか。そういう場合でも、乳母をつければ、何とでもなりそうなものだから、あえて養子にする理由は何だろう。

 慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いで、徳川方は勝利をおさめる。
慶長九年、九八郎(長門守)を養子にした時の吉田殿は七十六歳であった。同じ年の十二月二十日、息子・酒井家次は上野高崎五万石に封ぜられる。
 翌、慶長十年十月十七日、吉田殿は七十七歳の生涯を終える。「酒井忠次公傳」によれば、遺言により、彼女を夫と同じ知恩院先求院に葬ったという。法名は「光樹院殿宗月丸心大禅定尼」とも「後に出羽庄内の大督寺に改葬し、法名を大督寺光誉窓月」とも言われる。

 そうか、吉田殿・別名碓井姫は、最期には夫・忠次と共に眠りたかったのか、と筆者は思う。九八郎を養子にしたのは、もしかしたら、あの桜井屋敷に住んで「墓守」して欲しかったのではないだろうか。何一つ史料的裏付けのない、単なる推測に過ぎないこの考えを、筆者は捨てきれないでいる。
 扇状地である京都には、筆者も五年ほど住んだことがある。水の良いところで、何々の井戸、というのが市中に結構ある。中には、常にこんこんと豊かな水を湧出させている「噴井」があり、ことに湿気の甚だしい夏場には、たいへん目に涼しいものであった。  ちなみに、桜井の井戸で産湯を使った酒井忠知は、慶長十年九月二十五日、徳川秀忠の小姓として仕えることになり、五百俵の扶持米を賜ることになった。碓井姫の没するひと月ほど前のことである。彼の母親である「小山十兵衛の娘」の消息は不明である。 さて、くだんの桜井屋敷はどうなったのだろうか。筆者は、今後の稿でも、この屋敷を登場させたいと思っている。
 次回は、酒井家三代目にして、庄内藩の藩祖・酒井忠勝とその最初の妻・花ノ丸殿を取り上げる予定である。
2013年10月1日