庄内藩士・相良勝之助が残した史料四点
これから「小関家」所蔵の四点の史料を紹介したいと思います。「相良家」12代には嗣子がおらず、また養子を迎えることもしなかった故に絶家となるのですが、この12代に小関家から嫁いだ関係上、これ等の史料を「小関家」が引き取り今日まで保存していたものです。なお、小関家は現在山形市在住ですが、ルーツは羽黒修験のかつての「雲林坊」であると聞いております。
≪二つの免許皆伝状≫
相良勝之助は、二つの免許皆伝状を残していました。何れも砲術に関するものです。
《着発弾伝授》
最初に紹介するものは、縦18センチメートル横、39センチメートルの上質和紙に毛筆で縦書きに書かれた「着発弾の免許皆伝状」で、その記載内容は、次の通りです。
着発弾伝授
相良勝之助殿
右御達および候以上
酉四月 江川太郎左衛門(朱印)
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書状で「右御達および候」とは、「右の者は熟達の域に達しました。」という意味です。
日付が「酉四月」とあるので、これをを「旧暦新暦対照表」で調べた結果、文久元年(1861)4月が交付日となることが分かりました。ただし、授与者については、江川家が代々「太郎左衛門」を名乗っていますので、何代目の太郎左衛門」が授与したのかを検討する必要があります。
韮山代官から幕閣(勘定吟味役格)に抜擢された36代当主・英龍(ひでたつ)は、安政2年(1855)3月4日に病死しているため、従って、この書状は家督を相続した長男・英敏(ひでとし)から授けられたものとなります。彼は、父が着手した韮山の反射炉を完成させ、又、父が手掛けた着発弾の製造などを次々に進めましたが、家督を相続してから7年後の文久3年(1863)2月4日に夭折しています。
さて、18世紀も後半になると、異国船が日本近海に出没し始めます。庄内でも弘化元年(1844)4月、飛島にロシア船が現れ、嘉永元年(1848)には飛島に砲撃を加えたという記録があります。更に、安政5年(1858)5月には宮野浦沖に外国船が姿を見せ、翌年にかけて幕府の役人が酒田港を測量しています。
このような時代背景があって、庄内藩では、海防のために自藩の砲術技術の向上させる必要を感じていました。
また、幕府は、安政元年(1854)11月に、この年5月に完成した御台場を譜代の庄内、会津、川越など5藩に命じて警備させることにしました。この江戸湾の「第5台場」の警護の関係もあって庄内藩では、安政2年(1855)に藩主・忠発(ただあき)が、藩の種ケ嶋流砲術師範・中村三内と藩士34名を江川太郎左衛門門下で学ばせることにしたのです。つまり、「高嶋流砲術」をより改良した「西洋砲術」を学ばせたのですが、その時、藩士の一人相良勝之助も参画し、結果、修得した「着発弾」に関する資格取得証書が上記の書類なのです。
この「着発弾」というのは、着弾時の衝撃でさく裂し、砲弾の破片を敵兵に浴びせる、いわゆる「爆裂弾(榴弾)」のことをいいます。
なお、庄内藩では前年の嘉永7年(1854)3月、軍師・秋保政右衛門によって庄内海岸を鼠ヶ関から湯野浜まで、湯野浜から最上川河口まで、酒田から大師崎までの三区域に分け、「高楯」(鶴岡市)を本陣とし、総兵力1,804人を持って防衛する海防計画が樹立され、同年秋には、「椛山(かばやま)」(鶴岡市井岡の鶴岡高等工業専門学校のあるところ)に人夫 4万人を集め,1,000 両余の大金を費やして1.5ヘクタールの射的場と足並み調錬場を造り、洋式訓練を実施しています。
《種ケ嶋砲術免許》
もう一つの免許皆伝状は、縦2.2センチメートル、横97センチメートルの上質和紙に縦書きに書かれた「種ケ嶋流砲術の免許皆伝状」ですが、その記載内容は次の通りです。
一流之種ケ嶋 累年之御執心不浅 特大薬聘并(注)町手前之御達者
依残所無之令免許事 至向後懇望之旁於有之者 縦雖為親子兄弟撰
其仁堅以誓印可有御指南者也 依免許之状如件
中村道無齊
同 九太輔
常世半左衛門
中村伊兵衛
同 三内
同 三内
同 伊平
同 三内
萬延元年庚申八月吉日 正孝(印・花押)
相良勝之助 殿
(注)「并」の字は、原文では右下に小さく表記
[解読文]
一流之種ケ嶋 累年之御執心浅からず 殊に大薬并(ならびに)町手前之達し者(は)残す所之なしに依(よ)って免許令(せしめる)事 向後(今後)に至り懇望の之旁(かたがた)之有るに於いては 縦(たとえ)親子兄弟を撰ぶと雖も 其仁堅く誓印を以て御指南有るべきもの也 依って免許之状件(くだん)の如し(依って免許の状はこの通りです)
なお、萬延元年は、1860年です。 |
この免許状では、道場の始祖から現在までの師匠の名が列記してあります。特殊な用語として「大薬」は「火薬」を意味すると思われますが、「町手前」については、意味不明でしたので、鶴岡市立郷土資料館の秋保 良さん(75回・昭和43年卒)に伺ったところ次のような回答を電話で得る事が出来ました(平成25年9月15日)。即ち、江戸時代の「荻野流」の砲術用語に「町撃ち(ちょううち)」という用語があり、これは、1町(109.0メートル)先の的を射抜く技を指しているとのことでした。従って、これから類推すると、「手前」が「技量とか力量」、「達者」が「熟達とか達人」の意味なので、「特大薬町手前之御達者」の解釈は、特に火薬の扱い並びに1町先の的を射抜く技量に熟達しており」となり、「依残所無之令免許事(よってこれ以上教授することもないので免許を与える)」となります。なお、親子兄弟に教えるにも「きちんと誓印を以て御指南するように」との条件が免許状に付されているのも面白いことです。
また、庄内藩には、「種ケ嶋流砲術」のほかに「荻野流砲術」がありましたが、荻野流は、文化4年(1807)、支藩の松山藩士山本丈右衛門が大坂玉造の荻野流砲術家坂本孫之進に入門して免許皆伝を得て、松山藩の砲術師範となり、以後宗家の庄内藩も彼の指導を受けています。
砲術にはこのほか稲富、外記、田付、関、高嶋等の流派が数多くありますが、これ等は、鉄砲、弾丸、火薬の独自設計に始まり、撃ち方,構え方の違いによってその名が生まれるのだそうです。
『松本城鉄砲蔵―鉄砲と戦国時代』(2007年10月)によると、一般的な火縄銃は、銃身約1メートル、重量4キログラム弱で、直径10〜15ミリメートルの鉛弾を使用します。射程距離は600メートル程度ですが、命中精度と破壊力を考慮した場合の有効射程距離は60メートル程度となります。その破壊力ですが、50メートル離れて3センチメートルの板を撃ちぬきますが、命中率は50メートル離れて直径30センチメートルの的を撃った時、80%ぐらいだそうです。また、1分間に発射可能な回数は熟練者が「早合」(はやごう)を使用した場合で3発ということです。この「早合」というのは、火薬と弾の装填時間を短縮するために、あらかじめ火薬を長竹や紙製のカプセルに組み込んだもので、蓋を取って銃口に当てると同時に装填出来るものです。紐に通して肩に掛けるか「胴乱」に入れて持ち運びました。
≪洋式砲術師範・江川太郎左衛門≫
中村三内一行が入門した江川太郎左衛門(英龍)の経歴等は次の通りです。
享和元年(1801)1月15日に韮山で生まれ、安政2年(1855)3月4日に亡くなっています。
伊豆韮山代官で、地元では坦庵(たんなん)と呼ばれていました。代官就任当時から民情に通じ、二宮尊徳の意見を聴くなど誠実な仕事ぶりで「世直し江川大明神」と呼ばれていました。洋学、とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱き、渡辺崋山と交友を結び、結果、蘭学嫌いの鳥居燿蔵(とりい ようぞう)の策動により、「蛮社の獄」(天保10年(1839))で嫌疑をかけられましたが、水野忠邦に庇われ危うく難を逃れています。
天保12年(1841)高嶋秋帆(たかしま しゅうはん)が「武蔵徳丸ケ原」(現東京都板橋区高島平)に於いて、日本で最初に執り行った「洋式砲術演習」に参加し、秋帆に西洋砲術を習い、翌年には洋式砲術師範となります。そして、佐久間象山、川路聖謨(かわじ としあきら)等にも西洋砲術を教えました。また、それまで、オランダ語による号令を用いていましたが、「回れ右」などのように日本語に直したりしています。
天保14年(1843)、幕府の「鉄砲方」を兼ねましたが、翌弘化元年(1844)兼帯を説かれています。嘉永2年(1849)、幕府の許可を得て江戸の自宅で「反射炉」を試作し、著名な韮山のそれは、安政元年(1854)に起工したのですが、安政4年(1857)の完成を見ずして病没しています。また、「雷汞」(らいこう:起爆剤)の実用化や「着発信管」の工夫で鉄砲火器に関する研究でもその名を知られています。 嗣子の英敏は天保10年(1839)に英龍の三男として生まれ、安政2年(1855、すでに2人の兄が早世していたために家督を継いで第37代当主となり、生前に父が進めていた農兵育成、反射炉の完成、爆裂砲弾の作製などを次々と進めましたが、前述の通り、家督を継いでから7年後の文久2年(1862)に夭折したため、その実力を十分発揮することが出来ませんでした。 |
≪高嶋流砲術創始者・高嶋秋帆≫
江川英龍が学んだ高嶋秋帆の略歴は下記の通りです。。
寛政10年(1798)8月15日、肥前長崎の長崎会所調役頭取高島四郎兵衛の子として生まれました。家は代々町年寄を勤める家柄で、彼も長崎町年寄を務めています。通称を四郎太夫と称しました。長崎出島台場受持として荻野流砲術を修め、後に西洋砲術を学び高嶋流を創始します。天保11年(1840)、アヘン戦争(1840〜1842)の情報が伝わると、上書を幕府に提出し、洋式砲術の採用を説きました。この結果、幕府から翌天保12年5月9日、武蔵徳丸ケ原での洋式銃陣演練披露を命ぜられ、これを見物した幕府は、洋式砲を採用することにしました。この流儀は幕臣の下曽根金三郎や江川英龍等に伝授され洋式砲の普及がなされました。しかし、秋帆自身は蘭学嫌いの鳥居燿蔵によって、天保13年に逮捕され、弘化3年(1846)、武蔵国岡部藩に預けられましたが、嘉永6年(1853)のペリー来航を迎えると英龍の尽力で赦免され、英龍の手付けとなり、通称を喜平と改めています。安政2年(1855)講武所教授方頭取、2年後には講武所砲術師範に任じられて、後進の指導と武備の充実に貢献しましたが、現職にあって慶応2年正月(1866.2.28)に亡くなっています。 |
なお、『天保図禄上・下』(松本清張著)には、天保の改革の立役者水野忠邦、その部下の鳥居燿蔵、燿蔵に睨まれた高嶋秋帆(四郎太夫)、秋帆を助け出した江川英龍などをはじめ、数多くの人物名が出てくるほか、庄内藩の「印旛沼普請」のことなど、派閥抗争と権謀術策の恐慌政治の中で、揉みに揉まれる徳川幕府最後の改革の様子が歴史推理小説として壮大に描かれています。
≪種ケ嶋流砲術師範・中村三内≫
中村三内については、『新編庄内人名事典』に次のように説明していますので、そのまま引用することにします。
中村三内 勝之丞、正孝
文化11(1814)、11、13〜明治30(1898)、3、14
砲術家 庄内藩士中村伊平の長男。先 祖代々庄内藩の種ケ嶋流砲術師範を務める。三内は文化13年(1816)200石の家督を継ぎ、天保13年(1842)、29歳のとき物頭の鉄砲方支配(筆者注記;足軽組28組を統括する。盗賊改め、宗門改め、鉄砲改めなどの係があった。)となって、西洋砲術修得の藩命により高島秋帆に学んだ。安政元年(1854)品川台場の警備の折、弾丸の鋳造、武器類の取り調べ、合薬製造の指導に携わって、翌2年同藩士34人とともに江川太郎左衛門に入門、免許皆伝を受けて砲術師範代となった。功により再度の加増を受けて安政7年(1860)禄250石大目付(筆者注記;家臣の犯罪や処罰を取り扱い、その下に御徒歩目付と足軽目付が属する。)を命ぜられる。慶応2年(1866)庄内藩で洋式砲術を採用した時、砲術師範役(奏者兼務)、翌年藩命をうけ膳所藩の兵法家平元良蔵について英国式銃隊調練を習い、鶴岡に帰って七軒町に新設の西洋式矢場で藩士に対して様式砲術を教授する。慶応4年(1868)庄内戊辰戦争が起こると小隊長として鼠ヶ関方面に出陣、台場の築造や農兵の打ち方稽古に当たった。翌明治2年(1869)隠居、享年85歳、鶴岡の安国寺に葬られる。嫡子伊兵衛(正国)は天保9年(1838)8月12日生まれで、明治12年(1879)より同16年(1883)まで県議会議員をつとめて特に治山治水に功績あり、明治31年(1898)9月30日に61歳で死亡した。 |
三内が膳所藩(ぜぜはん)に勉学に出向いたのは、膳所藩(ぜぜはん)の14代藩主(最後の藩主となります。)本多康穣(ほんだ やすしげ)の正室が、庄内藩9代藩主酒井忠発の娘であった縁のためだったと思われます。
≪文武両道の相良勝之助≫
二つの免許皆伝を受けた相良勝之助という人は、『新編庄内人名事典』にはその名の記載が無いのですが、小関家から聴取したところ、文政9年(1826)大泉の生まれで、相良家に養子に入って10代を継ぎ、明治22年(1889)に63歳で没したそうです。
前記の二つの免許皆伝状から見ると、34歳の時に中村三内から「火縄銃(種ケ嶋流火縄銃)」の免許皆伝を受け、江川太郎左衛門からの「着発弾(爆裂弾)」の免許皆伝は35歳の時に伝授されたことになります。また、剣術では「兵法新九流」の免許も得ているようで、彼は武芸一般に優れた才能を有する人物であったようです。
養父の9代目総右衛門は、知行高250石でしたから、勝之助も同程度の禄を食んでいたものと思われ、これに相当する役職としては、「物頭」がありました。前述の通り「物頭」は足軽組28組を統括するもので、盗賊改め・宗門改め・鉄砲改め等があり、禄200石以上の者が該当しましたので、勝之助は「鉄砲方」に属したものと思われます。ただ、彼がこれ等の資格を活用してどんな活躍したかについては、中村三内のような記録が存在しないので、その仔細を知ることは適いません。
《『高嶋流聞見録』》
一方、彼は、文才、画才にも恵まれていたようで、中村三内と藩士34人が洋式砲術(高嶋流砲術)を習得するために鶴岡城下から江戸に向かう途中の様子を官製はがきより一回り大きめの上質和紙に、今でいう絵地図帳的感覚で多色を用いて道中記として描いています。表紙には『高嶋流聞見録』とあり、「松声齋龍鱗」なるペンネームを用いています。
鶴岡城下から狩川、古口、鮎貝(合海)、清水、そして「羽州街道」に出て舟形、尾花沢、楯岡、天童、山形、上ノ山、楢下、金山村から七曲を登り、楢下峠を越えて陸奥国へ、湯ノ原、峠田、渡瀬、下・上戸沢と、七ヶ宿街道を通りぬけ、小坂を経て桑折へ、桑折から奥州道中に入ります。その後、瀬の上、若宮、二本柳、二本松、郡山、小原田、須賀川矢吹、大田川、白川、白坂を経て下野国へと入っています。江戸では千住、浅草金龍山、上野東叡山等が描かれており、最後は神田御門と江戸城が描かれています。
道中の特色ある風景や事項を絵と文章で記入しており、彼自身の用のために作成したものと考えられます。
1ページ目には「道中定」として、
一 乗掛 20貫目、 一 軽尻下荷 5貫目、 一 人足1人 40貫目メ、一 荷駄貫目?但シ前後成るヘシ、 一 駕籠 4人カカリ、 一 長持6人カカリ、
30メ目上有之ハ1人4死目メ目持ノツモリニ可定事 江戸ヨリ庄内迄馬継83継 |
と記されておりますが、伝馬制度において、人足が持つ重さは、5貫目(18.75≒19キログラム)が基準で、長持は6人で担ぎました。駕籠も人足扱いで、4人がかりでした。
馬は荷物だけ40貫目の「本馬」(ほんま)や20貫目までの荷物と人を乗せた「乗尻(乗掛)」、5貫目までの荷物と人を乗せた「軽尻」(からじり)に分かれていました。ただし、「軽尻」の場合、他に布団・後付(客の乗った馬の後方に荷を付けることで、武士の場合多くは「刀箱」でした。)・小付(大きな荷物の上に更に付ける小さな荷物のことです。)などは、2,3貫目までは許されました。なお、「下荷」とは、荷を積む時、下に積む荷物のことです。「1貫目」とは1,000匁で、3.75キログラムの重さのことをいいます。それと「本馬」と「乗尻」の料金は、125文、「尻軽」で80文、「人足」は一人当り60文が標準であったそうですが、「1文」は現在の貨幣価値に換算すると100円ぐらいに該当するようです。
また、山形城下に到着したところには、
村山郡山形 5万石 水野監物、本陣清水庄蔵同十兵衛 |
とあって、当時の山形藩主は、山形藩最後の藩主水野忠精(みずの ただきよ)でしたが、水野家は水野監物忠元を祖とするところから「水野監物」と記したものです。また、本陣の所在は。現在の株式会社山形銀行本店のある位置でした。
これによりこの道中紀は幕末に描かれたことがはっきりと判ります。
《『象鳥記行』》
もう一つは、『象鳥記行』という紀行文を残していることです。『高嶋流聞見録』と同様に筆者名を「龍鱗」とし、「道中書写」は本名の相良勝之助を用いています。
広く全国に知られている鳥海、象潟を仲間の多田扇右衛門、大熊藤之允、松平善治、石原源助の5人、他に片岡、村井、多田の家来1人、南町染屋の荒井を加えた総勢計9名で、嘉永5年(1852)の夏,5泊6日の行程で鶴岡城下を出発します。
記録には「泊り宿付」とあって、7日、観音寺肝煎権兵衛、8日、上寺北ノ坊、9日、塩越渡部仁右衛門、10日、吹浦市右衛門、11日、酒田松本屋と宿泊先を記述しています。
石源が持酒山伏眼ヲ返ス。絶頂ニ観世音の石像立給える峯ニ至る。・・・且つ干満寺(蚶満寺)を始形(潟)を見るに誠に面白くや有りけん・・・。 |
などと途中での面白おかしな体験を含めて文章と挿絵で綴っています。観音寺口から登り、難儀しながらも頂上を極め、その後は象潟に下り、吹浦、酒田経由で鶴岡城下に戻るまでの道中を綴っています。「舛田の柴橋諸人はい渡りの図」、「飛島権現社二王門」などの挿絵として描かれた絵は、遠近描画に達者で、彼は絵心があったところを存分に発揮しています。なお、36枚の挿絵の内3枚が『図説山形県史 山形県史別編第1巻』(編纂兼発行山形県、昭和36年3月10日発行)の大見出し「旅ゆく人びと」、中見出し「旅のあいまに」の中で紹介掲載されていますので、ご記憶の方もおられることと思います。また、筆者が『象潟記行 松声齋龍鱗』(唐松古文書研究会叢書第1?、平成23年1月10日発行、非売品)を所蔵しておりますので、ご覧になりたい方はご連絡ください。
今回紹介した古文書の解読等に当たっては、山形県立博物館民俗部門専門嘱託の野口一雄先生に種々ご指導を賜りました。ここに厚く御礼申し上げる次第です。
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