「下参り(しもまいり)道中記」と「鶴ケ岡城下の行者宿」のことなど(1)

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
「下参り(しもまいり)道中記」と「鶴ケ岡城下の行者宿」のことなど(1)
≪はじめに≫
 過日、「新潟県立公文書館」のホームページ上で面白い「道中記」に出会いました。それは、仙見谷村(現在のJR磐越西線の新潟県五泉市村松)の山田浅右衛門一行6名が出羽三山に登拝したときの「道中記」です。
 同公文書館の解説によれば、「出羽三山に対する越佐人(注1)の信仰は古く、鎌倉時代末期に佐渡の遊行聖(注2)が羽黒山頂に埋納した経筒が発見されているそうですが、江戸時代以降も,中越・下越・佐渡地方が檀那場になっており、各地に講が結ばれ羽黒山系の法印や湯殿山系の行人に引率されて多くの人々が三山に参拝した」とあります。
 そして、この道中記は、安永4年(1775)の道中記ですが、面白いことに出羽三山が越後の下手にあるものと見られていたことにより「下参り道中記」と名付けられています。また、「オシモ講」といって「出羽三山講」のことを指す言葉もあるそうで、この様な表現を私はこのホームページで初めて知りました。
(注1)新潟県の中越、下越(かえつ)、佐渡地方の人々のこと。
(注2)諸国を巡りあるいて人々を教化する僧のこと。
≪下参り(出羽三山登拝)道中の行程≫
 この道中記から当時の「三山参り」の様子の一端を垣間見ることができますので、その内容を解読文で紹介したいと思います。
 彼らの行程は、6月24日(太陽暦では7月21日)に仙見谷村を出発し、五泉町、新発田町(泊り)、真野(まのふ)、乙(きのと)、塩屋、大川、岩船、村上城下(泊り)、猿沢、塩野町、大そう、中村、中継、小俣(泊り)と来て、現在の山形県鶴岡市に入り、小名部―小国川―木野俣――温海川―菅野代―鬼坂峠―坂野下―町田川―湯田川―金峯山―十王峠―岩本―注連寺―月山―弥陀ヶ原―大満―羽黒山―七日町―三瀬―小波渡―五十川―暮坪―温海川―鼠ケ関―向い関、大川村、中村、村上、平林、大川、黒川、加治、新発田、五十公野となっていますが、鶴岡七日町から先の帰郷のルートの記事は、本稿では省略します。
≪小名部より湯田川まで≫
 さて、山田浅右衛門の一行は、前述の行程の通り越後の小俣(現北山町)に宿泊後、庄内藩領に入ったのですが、道中記には、
一、をなべよりおぐに迄一り半(注3) 又此所@御番所あり
一、おぐにより木のまた迄壱り半
一、きのまたよりあつミ川迄壱り三丁
一、あつみ川よりすけの代迄壱り三丁
一、すけの代より坂の下迄 壱り三丁、此のとうけ(峠)より御鳥海山様見ゆる、是は鬼峠という也、茶屋有り 
一、是より町田川迄壱り半
一、町田川より湯田川迄九丁 爰(ここ)@ゆ船有
(注)原文は縦書きで、@の部分は、右下に小さく「ニ」とある。
 とあって、鶴ケ岡城下七日町の行者宿には宿を取らず、旧温海町の菅野代、坂野下を経て鬼坂峠を越える「小国街道」(越後街道)を金峯山に向かっています。道中記にある通り、庄内藩の番所が小国に、末の番所が小名部にありました。また、鬼坂峠には茶屋があって、ここから三山と同様山岳信仰の山である鳥海山が望めたようですが、「御」と「様」という2字を用いて畏敬の念を示しています。なお、1993年(平成5)に中学校が、1996年(平成8)に小学校が廃校になってしまった「菅野代小中学校歌」には「鬼坂峠 旅人が のどうるおせし 鬼清水 古き姿の伝えあり わがふるさとは ふるさとは 思いはるけき 菅野代」と詠われていたそうです。
 湯田川には「ゆ船有」として、温泉があることを認識していたようですが、次の宿泊は金峰山の「空賢院」にしています。
 小名部から金峯まで約34キロメートルの行程でしたが、江戸時代の旅人の1日の行程はおおよそ8里から10里(約32キロメートルから40キロメートル)といわれ、時速4キロメートルで歩くとすれば、単純計算で1日に約8時間から10時間歩くことになりますので、彼らの旅程はほぼ標準の1日行程でした。
(注3)1里は36丁(町)、1丁(町)は60間、1間6尺であるから、1里は3927.0メートル、1丁(町)は109.0メートルとなる。
≪湯田川から金峰山まで≫
 湯田川から金峰山までの道中記は、
一、湯田川より金ぼ山迄壱里、此所泊り空賢院様、是は安永四未六月二十七日、落とし物者(は)百五拾文ツゝ@、此内酒も出ル也、御寺ハ三ケ寺也、別当寺は南東院@
(注)原文は縦書きで、@の部分は、右下に小さく「二而(にて)」とある。
 とあり、ここでは「落とし物」として、一人 150文を支出していますが、これには夕食時の酒代も含まれていたようです。
 『図説鶴岡のあゆみ』(鶴岡市史編纂会編)によると、関東一円・会津若松地方の道者は、山上の清僧から御守り等を受けている者で、麓(手向)に着くと、まず三山参詣人案内所で山上清僧宿坊の名を告げ、それに応じて檀那場を廻って、配札、祈祷、参詣の勧誘等をした道者引が集められ、該当村の記載のある「関東檀那場御祈祷帳」を持った道者引が、参詣人を自分の坊に案内し、そこに宿泊させました。道者引の坊は、宿泊代は無料でしたが、道者は出立の時に、座布団の下に包金を置いたといい、これを「落し物」といって、道者引の収入になったといいます。また、『肘折温泉の歴史』(佐久間昇著、昭和41年7月発行)では、「お山参りのために要する費用」と説明していますが、金峯の空賢院のところでの「落とし物」の表現は、性格的には上記の麓(手向)の「落し物」と同様の意味合いであるように思われます。
≪羽黒山の檀那場・霞・江戸・奥州・土檀那≫
 前述の『図説鶴岡のあゆみ』によると、各地の末派修験や信者の居住する郷村は、一山の宗教的、経済的基盤で、「霞」と言われていましたが、羽黒山と本山派(園城寺)とがこの霞の縄張りで対立を起こし、貞享2年(1685)幕府が「羽黒山伏、自今以後檀那場は霞を称(とな)うべからざること」と裁定したので、羽黒山は「霞」を「檀那場」と改称しなければならなくなりました。しかし、羽黒山では、この裁定に関わらず次のように呼称しました。これによると、浅右衛門の郷村地域は「霞」に該当することになります。
地      域      名 呼    称
江戸を除く関東一円 檀那場
陸奥、出羽、佐渡、信濃、越後(5ケ国)
江戸 江戸
会津若松地方 奥州
温海組と温海から宮野浦に至る海岸通りを除いた地域 土檀那
 『麻耶山』(山形県総合学術調査会編、平成4年2月14日発行)において、出羽三山の修験道研究の泰斗、戸川安章さんによれば、金峰山は、寛永(1624〜1643)の末までは、羽黒山の末山で、その支配下にあり、20近くの坊を擁して東・西田川郡内に20か所ほどの末寺があったといいますが、その後羽黒山から離脱し、元禄5年(1692)に新義真言宗智山派の末寺になったということです。
≪金峰山から御前まで≫
一、是より十王峠迄三里、此の間@岩本村@方院様開帳有、一人ニ付十ニ文ツゝ、注連寺様の茶屋ハのそき有、少し下りて其まゝ注連寺@泊り、おとし物ハ四百八拾文、但し此内Aがう力出候也
一、注連寺より御前(湯殿山御宝前)B掛ケる也
(注)原文は縦書きで@の部分は、右下に小さく「ニ」とある。
   同じくAの部分は、右下に小さく「二而」とある。
   同じくBの部分は、右下に小さく「江」とある。
 翌朝、一行は空賢院を出立して、注連寺に向かいますが、十王峠に行く前に横道にそれて岩本村に立ち寄っています。「岩本村に方院様開帳有り」とありますが、この件は、注連寺系の真言宗本明寺で本明海即身仏(注4)の御開帳があったので、12文で拝観したという意味だと思われます。そして、十王峠を越えて夜は「注連寺」に宿泊し、6人で480文の「落し物」でした。文中に「但し此内ニ而(にて)がう力出候也」とあるのは、注連寺から一行に先導がついたということです。また、女人禁制」時代は女人のための湯殿山遥拝所として注連寺は大変賑わったといいます。「注連寺様の茶屋ハのそき有」の「のぞき」は、この「遥拝所」を指すものと考えられます。
 なお、「強力」の出で立ちについては、芭蕉の『奥の細道』の月山登拝のところの記述に
 八日、月山にのぼる。木綿しめ(注5)身に引きかけ、宝冠(注6)に頭を包み、強力(注7)といふものにみちびかれて、雲霧山気の中に氷雪を踏んでのぼる事八里。更に、日月行道の雲関に入るかとあやしまれ、息絶え身こごえて頂上に至れば日没して月あらわる。笹を舗(しき)、篠を枕として臥して明くるを待つ。日出て雲消ゆれば湯殿に下る。[現代語訳]八日(元六禄2年(1689)6月8日(新暦の7月22日)、月山に登る。木綿(ゆう)しめを体に引っかけ、宝冠に頭を包み、強力という者に導かれ、雲や霞が立ち込める山気の中に氷雪を踏みながら8里の道のりを登っていく。いよいよ日や月の通路である雲の関所に入るのではと疑われるほどで、息が絶え身も凍えて頂上に達すると日は没して月が現れた。笹を敷き、篠竹を枕にして横になり、夜が明けるのを待った。朝日が昇り、雲も消えたので湯殿に下った。
 と述べられており、「強力」が芭蕉と曽良を月山登拝の際、導いたとの記述があります。このことは、三山参りの当時の仕来たりであったと思われます。
 そして、一行は、急坂、長坂を登って湯殿山の御宝前に参詣し、更に、急崖を鉄鎖、鉄梯子の力を借りて必死に登攀して月山に向かいました。
(注4)本明海は、富樫吉兵衛という荘内藩士であった。元和9年(1623)庄内藩士斎藤徳左衛門の二男として生まれ、後、富樫家に養子となった。40歳の時、藩主酒井忠義の病気回復祈願のため湯殿山に代参し、感ずるところがあって、家を捨てて注連寺に入り行人となり、延宝元年(1673)から木食行に入って、天和3年(1683)61歳で本明寺山内に入定し、即身仏となった。本明寺右の堂に祀られ、庄内に現存する六体の即身仏の中で最も古いとされている。
(注5)「ゆふしめ」は、楮(こうぞ)の木の皮を剥いで蒸した後に水に曝して白色にした繊維のことで、神事の用具に用いる。不浄なものの侵入を防ぐため、白い紙をひも状に縒(よ)り、これを編んで作ったものを首にかけて胸に垂らした。
(注6)白い木綿の布を頭に巻いて、左右の耳の上で角のようにし、暑いときは布の余った所を肩から前に垂らすが、寒いときはこれで頬から襟を包む。山で温度が変化するのに対応する。
(注7)江戸時代の俳諧書で、蓑笠庵梨一(さりゅうあんりいち)の作である『奥細道菅菰抄(すがごもしょう)には「強力は修験の弟子、笈(おい;今のリュックサック)など背負わせ従はしむるもの、即ち登山の案内先達なり」とある。蓑笠庵梨一(1714〜1783)は、『奥の細道』の厳密な注釈をした研究家として知られる。奥の細道を実際に歩き、古今東西の文献を渉猟して偉業を成したといわれる。芭蕉の門弟以外で最も優れた芭蕉研究家といわれる。
≪御前から月山、羽黒山まで≫
一、月山様@ 御役銭八十弐文 但し、壱人A付是より切手が出る、ミた原迄爰A一人ニ付銭六文ツゝ出候
一、弥陀原より大まん是迄A切手を上る、又壱人A付六文ツ
一、是より羽黒山迄又爰@御役銭百壱文一人A付 是ハ祖所院様A上ケる、すなハち御寺ヘ付てめし酒が出る也 御札も出候、是ハ下り月山@
一、登月山一切し切りニして銭九百弐拾参拾文@ 是ハ御ひらたく御はま并ミこり沢あん内銭月山泊り銭諸しき共Aし切り也
(注)原文は縦書きで、@の部分は、右下に小さく「二而」とある。
   同じくAの部分は、右下に小さく「ニ」とある。
 月山での御役銭(祈祷,供養等に要する奉納料)は,82文、更に月山と大満で一人当たり六文の御役銭を出費して領収証である「切手」(注8)が交付されました。羽黒では、祖所院に泊まり、夕食には酒が付き、また、御札も付いて御役銭一人 101文の支払いでした。「御ひらたく御はま并ミこり沢」の記述がありますが、これは、弥陀ケ原の東方の東普陀落(西普陀落と共に修験の聖地)の奇岩が拝められる御浜池と濁沢源頭の大聖不動明王に案内人付きで参拝してきたことを指すものと考えられます。『出羽三山絵日記』(渡辺幸任著、2006年4月発行)によると濁り沢には、夏の間、羽黒の山伏・大聖坊が小屋を設けていたとのことです。また、道中記には記載されていませんが、湯殿山は真言系であり、羽黒山は天台系(注9)であって法式が変わるため、一行は装束場(しょうぞくば)で新しい草履と衣装を整え身も清めて月山に向かったものと思われます。
 月山から羽黒までの経費は月山での宿泊料、月山、弥陀ケ原、大満での御役銭、弥陀ケ原からの東普陀落と濁沢源頭までの案内料などを含んで合計923文(元文には「九百弐拾参拾文」とありますが、「九百弐拾参文」の記入間違いだと思われます。)、それに羽黒山で606文の出費であったことがこの道中記から読みとれます。なお、『肘折温泉の歴史』(佐久間昇著、昭和41年7月発行)によると、天明年間(1781〜1788)の月山奉納料(役銭)は82文、月山山中小屋宿泊料20文とあります。それと、当時の山小屋は、今の山小屋とはそのイメージが異なり、芭蕉の『奥の細道』の記述にある通り、笹や草を敷いたもので、雨露を凌ぐ程度の簡易なものであったといいます。
 「山形県出羽商工会朝日支所」が発行した地図『六十里越街道』の距離行程を参考にして注連寺から湯殿山御宝前までの距離を見ると、4.3キロメートル、湯殿山御宝前から鉄梯子を経て月山までは、西川町発行の地図『月山トレッキング』を参照すると5.6キロメートル、合計9.9キロメートルの登拝距離となります。月山小屋で泊り、翌日は、月山から羽黒まで、昔からの言い伝えの「萱野3里、木原3里、石跳3里、併せて9里」から、35.3キロメートルを登拝したことになります。ただし、これには弥陀ケ原からの東普陀落と濁沢源頭までの行程は含まれていません。
(注8)御役銭を支払った証明に交付される証明書のこと。
(注9)羽黒山第50代別当「宥誉」は、寛永18年(1641)に徳川家康のブレーン「天海」の弟子となり、師の一字を得て名を「天宥」と改めるとともに、羽黒山を東叡山寛永寺の末寺とし、真言系から天台系に改宗した。ただし、湯殿山は真言系のまま。
≪羽黒山から鶴ケ岡まで≫
一、羽黒山ヨリ鶴が岡七日町迄三里拾ニ丁宿屋ハ伊藤五左衛門殿@泊り、はたこ銭ハ百五十文是ハ判銭共@
(注)原文は縦書きで、@の部分は、右下に小さく「ニ」とある。
 羽黒山からは 130キロメートルの道のりを鶴岡城下に向かい、七日町の伊藤五右衛門に泊っています。「はたこ銭(宿代金)」は 850文で、これには出領許可証である「出判」の発行に要する料金5文が含まれていたと書いています。ただし、鶴岡名誉市民で鶴岡市史編纂会会長であった大瀬欽哉さん(第18回(明治43年卒))の著した『城下町鶴岡』(庄内歴史調査会、平成19年6月15日第5版発行)に折り込まれている絵図・江戸湯島大城屋安政2年(1855)刊の「羽州田川郡鶴ケ岡城下の図」には、旅籠・伊藤五右衛門の名が見当たりませんので、廃業したか、あるいは営業権である株を譲渡したのかもしれません。
 御山参りを無事終えた一行は七日町の旅籠屋で精進落としをし、また、三山登拝に際して、多くの親類、縁者から餞別を受けてきたと思われますので、鶴ケ城下でも御土産を購入したものと思われます。当時、鶴岡の御土産品として特筆すべきものとしては、「絵蝋燭」と「庄内焼麩」がありました。絵蝋燭は「花紋燭(かもんしょく)」ともいい、享保年間(1716〜1735)に上肴町の皆川重兵衛が創案したもので、天明6年(1786)御用の二文字を許され、藩主が将軍家斉に献上して嘉賞されたといいますまた、庄内焼麩の元祖は五日町の大島屋で、元文年間(1736〜1740)の創業と伝えられています。
 当時、三山をかけるとおおよそ 1,000文ほど(注10)の経費がかかったといわれていますが、山田浅右衛門の一行の、総経費は、道中記から見て金峯山で 900文、岩本村で72文、注連寺で 480文、月山の総経費が 923文、羽黒山で 606文、鶴ケ岡城下七日町で 850文、総額 3,831文となって、これを一人当たりに換算すると 638.5文となり、標準値より安価に上がっていますが、他に賽銭とか御土産代とか茶代などの記録に無い雑費を加えるとおおよそ 1,000文前後の支出であったと想定されます。
(注10)1両=4分、1分=4朱、1朱= 250文、従って、1両= 4000文となる。

(説明) 本稿は、『ワッパ騒動義民顕彰会誌』第2号に「下参り(しもまいり)道中記」として投稿したものに「鶴ケ岡城下の行者宿」、「城下鶴ケ岡における預地の郷宿」、「鶴ケ岡城下から三山への順路」、「三山出入り取り締まり」を加筆して『「下参り(しもまいり)道中記」と「鶴ケ岡城下の行者宿」のことなど』(1)及び『「下参り(しもまいり)道中記」と「鶴ケ岡城下の行者宿」のことなど』(2)としたものです。
2013年11月4日