─庄内藩の女性たち─(2)第一章 酒井忠勝公側室 花ノ丸殿

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 ─庄内藩の女性たち─(2)   第一章 酒井忠勝公側室 花ノ丸殿
 【前置き】
 私がその女性の名前を初めて知ったのは、既に十年以上前のことになる。高校時代の同級生だったひとが、こう言った。
 「あまり人に話したことはないのだけれど」
 うちは、結構古くてね。庄内藩の初代藩主酒井忠勝公の内室だった人の母親、という人がうちの出で、西田成羽という名前だった。その娘の花ノ丸殿という女性が、二代目藩主をお生みになったということです。
 それって、と思わず私は言う。
 「酒井忠当公の実母ということ?忠当公は、あの御家乗っ取りを画策したと言われる長門守一件で、対立的立場に立たされ、危うく凌ぎ切った渦中の人です。」

 私が当時調べていたのは、二十五歳も年は違うが、従兄である歴史学者・榎本宗次の足跡だった。榎本宗次は「鶴岡市史 上巻」の執筆者の一人であり、同じ執筆者の斎藤正一氏が奉職していた鶴岡高専紀要に、何か榎本宗次の手掛かりになる文書などがないかどうか、彼女を通じて調べて頂いていた。結果的には、そういうものはなかったが、斎藤正一氏の高専紀要「長門守一件と末松一件」は、その後の私を導いてくれる一書となった。その折の、何気ないと言えば何気ない会話であったが、今思えば、あれが一つの原点だった。

 その後、私は鶴岡藤沢周平文学愛好会という団体に所属し、機関誌「愛好会つうしん」2011年秋号(8月15日発行)に、「『長門守の陰謀』を巡る人間模様 二人の花ノ丸とその母」という文章を載せて頂いた。読んで下さった方々から、思いがけない暖かい応援を得たことに力づけられ、庄内藩の、主に女性たちに焦点をあてて、調べつつ書かせて頂いている。
 「長門守の陰謀」は藤沢周平の作品で、史実を多く取り入れているが、男性中心で女性は殆ど登場しないのである。調べると政治の表舞台には立たなくても、多彩な女性たちが居た。現在、まだ連載中である。ただし、文章を発表した後に新たな事実が判明したり、細かい錯誤があったりして、その加筆、改訂版をここに綴っていきたいと思う。

【京都の出会い】
 酒井家の嫡子忠勝と、後に花ノ丸殿と呼ばれる女性が出会ったのは、いつのことか。  花ノ丸殿に関する文書を探ってみる。「大泉外戚伝」によれば、「蒲生家浪人西田九郎右衛門が女(むすめ)なり。元和年中越後高田にて召し出される」という記述がある。 また「大泉探求誌 六」にも同様のことが書いてある。
 一方「御系譜参考 七」には「蒲生飛騨守殿の家司、西田九郎右衛門は、かの家断絶後、京都に浪々す。達三公(忠勝)京都にて西田が妹を召し出され」とある。「妹」説に関しては、吟味の余地がある。
 「酒井家旧記 九 政運公(忠当)世紀 六」には「花ノ丸殿、蒲生家の士、西田九郎右衛門が女(むすめ)なり。蒲生家断絶の後、九郎右衛門浪人して京都に住せしが、その女を達三公へお側の御奉公に差し上げしが、名を花ノ丸殿と下し賜る」とある。
 これらの古文書を見ると、召し出されたのが京都か、越後高田かに分かれるが、注目すべきは、父親の蒲生家浪人西田九郎右衛門が京都に居た、という記述である。

   越後高田説に立ってみると、花ノ丸殿が越後高田で第一子忠当を生むのが、元和三年(1617)八月五日なので、妊娠期間十ヶ月を勘案しても、元和二年後半には越後で忠勝の妻となっていなければならない。ところが、忠勝の父、酒井家次が高田を正式に拝領するのが、元和二年十月である。越後高田に行ってから召しされたという説は、あり得なくはないが、少々時間がタイト過ぎはしないだろうか。

 一方、京都説は、父親西田九郎右衛門が慶長年間から元和にかけて、京都に住んでいたというのを事実とすれば、何らかの経緯を経てその娘が,酒井忠勝の側に召し出されるというのは、かなり自然なことに思われる。
 ちなみに、この時期の酒井家次の記録を「酒井家旧記 五」に見ると、
「元和元年 此春 公 大坂より御帰陣」
当時、家次の所領は上州高崎五万石だった。
 「同年閏六月二十一日 台徳公(徳川秀忠)参内として上京あらせられ・・・尾張宰相義直・・・酒井左衛門尉家次・・・扈従し給ふと云々 大三川志ニ出ず」
「七月七日 二条御城において武家諸法度御条目十三ヶ条仰せ出さる」
 という条があった。
 つまり元和元年(1615)の閏六月、七月、酒井家次は少なくとも二ヶ月は京都に滞在したのである。おそらく嗣子忠勝も行動を共にしたと思って良いのではないだろうか。

 元和元年七月というこの時期は、閏月をはさむ三ヶ月前に、大規模で凄惨な大坂夏の陣があり、豊臣秀吉の子・秀頼とその母淀殿は、大坂城内の山里曲輪内で共に自害した。五月八日のことだった。
 正確に言うなら、元号が元和に改まるのは,七月三十日のことなので、閏六月、七月はまだ慶長二十年と言うべきかもしれない。豊臣家が名実共に滅び、その後始末と、徳川家の支配の確立へ向けての第一歩の時期だったのである。
 戦いの余塵のいまだにくすぶる世相の中で、忠勝と花ノ丸殿は出会った。

 さて先回の序章で、京都桜井屋敷のことを取り上げた。史料的裏付けはないのだが、筆者としては,ここを二人の出会いの場に設定してみた。豊臣家と徳川家の最終的な戦いが済んだので、酒井家次は祖の酒井忠次の墓参を、嗣子忠勝に代参させる。その途次、忠勝は桜井屋敷に寄る、というシナリオである。筆者は俳句をものするのだが、小説はからきし駄目である。しかし、ここはひとつ、小説風に描いてみたい。なぜかというと、花ノ丸殿に対して、現代感覚でいう「愛」と言っても過言ではない行動が、後の忠勝に垣間見られるのである。その原点は,形にしておきたい。

 それでは、京都桜井屋敷、茶室の場。
 庭の中の待合に酒井忠勝二十一歳、石原平右衛門重秋が居る。重秋の年は多分、忠勝より上であったろうが、そう離れていない。主従の関係ではあっても、まだ部屋住みの身の忠勝と重秋は,割に遠慮のない間柄としておきたい。会話は現代語訳としたい。当時の武士の普段の言葉遣いが良く分からないし、もしかしたら三河訛りだったりする可能性もあるからである。

【京都桜井屋敷 茶室】
 老女が茶室の支度ができたことを告げに来た。二人は腰の短刀も老女に預け、躙り口から茶室に入った。忠勝は茶など喫したくはない、作法が面倒だし、たいしてうまいものでもない、と言い続けていたので、いささか仏頂面である。仄かに香が漂い、床の間に禅僧の書が掛けられ、野の花が生けられている。
 水屋との仕切りの襖が開き、扇子を膝の前に置いて、深々と一礼する少女を目にして、忠勝は思わず、平右衛門を見る。
「蒲生家浪人,西田九郎右衛門の娘です。」
と、小さな声で平右衛門は言った。
 半東役の老女が干柿を薄く切ったものを、塗りの木皿に載せて運んできた。白く粉を吹いた干柿を懐紙に取り、主従は食べ始める。口中に芳醇な果物の甘さが広がる。
その間、少女は帯にたばさんだ朱色の袱紗を捌きながら、颯颯(さつさつ)と茶を点て始める。夏の暑熱があまり感じられないのは,窓を開けてあるからでもあるし、この茶室が緑濃い林の中にあり、風が吹き通っていたからである。
点て終わった茶が忠勝の前に置かれる。夏用の色の淡い平茶碗の中に、豊かな泡がたっていた。無造作に口に運んだ忠勝は
「うまい」
と思わず、声に出した。仄かな苦みが柿の甘さを洗い流し、次にそれとは別の爽やかな甘みが感じられた。
「この屋敷の内には、名水桜井の井戸がありますからな」
と、また平右衛門が言う。
平右衛門も一服、相伴した。少女が初めて口を開く。
「いま一服、いかがですか」
貰おう、と忠勝は言う。茶の効用のせいか、頭はすっきりして、同時に体全体が言いようもなく寛ぎ、ほぐれてきている。茶釜の湯のたぎる松籟に似た音も、時折、一斉に鳴き出す蝉の声すらも、快く感じられる。
平右衛門には言わなかったが、大坂の役の興奮が徐々に冷めかけているこの頃、忠勝は屍臭の漂うような戦さの悪夢を見て、夜半に目覚めることがあった。そのような己れを叱咤するものの、体と心の緊張は執拗に残った。

 替えた茶碗で、忠勝が二服目を喫しおわると、平右衛門は
「私は、もう充分頂戴しました」
と遠慮の意を示した。少女は規矩に従い、端正に仕舞点前をし、最後の礼をするため、敷居際に扇子を前にして手をついた。
「待て」
と忠勝の声がかかる
「名は、なんという」
平右衛門が言葉を添える
「ここは茶室。かまわないから,じかに申し上げなさい」
透き通った美しい声で、少女は答える。
「はな、にございます」

 娘の名は、はな。「大泉探求誌 六」には「波那」ともある。年の頃は十四、五歳。この時代の適齢期である。この日を境に、はなは忠勝の身辺の世話をし、やがて妻として遇されるようになったと、筆者は推測する次第である。
「御系譜参考 七」には、「西田九郎右衛門の妹」とあるが、他の史料では「西田九郎右衛門と成羽夫婦の娘」という記述が圧倒的に多いので、ここでは「妹」説は参考までとし、「娘」として話を進めていきたい。

 次回からは、花ノ丸殿の母親、西田成羽を中心に、西田家の来歴を辿る。話が戦国時代に逆戻りするが、勿論、花ノ丸殿のその後も述べていきたい。
  (続く)
 
2013年11月05日