「ラ・フランスの季節になると‥」 |
64回(昭和32年卒) 庄司英樹 | ||
「ラ・フランスの季節になると‥」 ラ・フランスの季節になると作家の村上元三氏を思い出す。 昭和40年代、著名人に山形県を話題に取り上げ、作品化してもらいたいと県観光課が、山形県を愛する著名人の会「紅花の会」を組織し最上川下り、秋の芋煮会を体験してもらうなど各地を案内していた。 「紅花の会」会長は旧制山形高校OBで「高安犬物語」で直木賞受賞の作家の戸川幸夫、メンバーは作家の村上元三、山岡荘八、平岩弓枝、漫画家の杉浦幸雄、サトウサンペイ、写真家の秋山庄太郎、俳優の伴淳三郎ら各氏からなる錚々たる顔ぶれだった。 昭和48年に、東京六本木、東洋英和女学院近くの閑静な地域にある村上氏のお宅をTV番組出演依頼で訪問した。きりっと和服を着こなした小粋な奥様が客室に案内、和服の村上氏にお会いした。 「山形県知事から毎年梨が送られてくる。大根をかじっているようで不味くて食えない。嫁いだ娘が、放置している梨を見て『お父さん、これ少しもらっていい?』と言う。『全部持っていけ』というと喜んで持っていく姿を何回か繰り返していた。私は食べ方を知らなかった」という笑い話だった。 この当時、上品な香りにとろけるような味のラ・フランスを見直して特産品にしようという機運が盛り上がっていた。 「おいしい山形推進機構事務局」のHP「西洋ナシ」によると明治8年に高畠町屋代地区で栽培を始めた。しかし、実ったはずの果実を食べても、石のように固くて不味い。「こんなもの食べられない」と捨てておいた。しかし、時間がたつと黄ばんで香りがしてきたので、拾って食べたらおいしかった。収穫後に熟させて食べることに初めて気づいた」という笑えない記録があるという。明治時代に栽培者は村上元三氏よりもはるかに早く同じ体験していた。 昭和40年代頃から缶詰よりも生のフルーツへと需要が移ると、生食用の決め手としてラ・フランスの馥郁とした香りと真のおいしさが注目されるようになった。 近年は食べ頃や保管の仕方を説明したリーフレットをつくり、統一販売基準を設けているのでこのようなエピソードはなくなった。 ラ・フランスは、ねっとりとした舌触りから別名「バターペア」と呼ばれ、特有の芳香と果汁が滴る緻密な果肉はまさに西洋なしの王者。その開花は早いが、実がなるまでに長時間を要するため、それだけ手間がかかり、また病害虫や台風の影響も受けやすい。 本家本元のフランスではいまやラ・フランスは栽培されなくなったと聞く。しかし、フランスから遠く離れた山形では生産者の熱意によって良質のものが生み出され、消費者のニーズもよく、山形特有の果実として、全国的に喜ばれるものになっている。食べごろさえ間違えなければ、こんな美味いものはないかもしれない。 村上氏は県内の蕎麦を食べることを何よりの楽しみにしていた。山形空港に出迎え、案内は先ず、蕎麦屋に直行だった。老舗の蕎麦屋には、今でも彼の色紙が掲げられているのを目にする。 村上氏は浅草の剣劇の台本を書いて作家の長谷川伸を知って師事、「上総風土記」で直木賞を受賞。剣豪小説、人物伝、股旅物、お家騒動ものなど多彩な作品を執筆している。 各家庭にTVが普及し始めた昭和41年、村上元三の原作・脚本によるNHKのTV大河ドラマ「源義経」は話題となり、平均視聴率23.5%を記録した。 義経は兄頼朝の追討から逃れ日本海を船で渡り、鶴岡市鼠ケ関に上陸して奥州平泉に向かったとされている。 HP「鼠ケ関より:源義経と鼠ケ関」に、地元の要請を受けて村上氏はTV放映後に鼠ケ関を訪れ「源義経ゆかりの地」の揮毫し石碑が弁天島に建てられた。さらにTV放映21年後に再度訪問、その後の調べで鼠ケ関が上陸の地として確信を得たとして「義経上陸の地」石碑の揮毫をしたと記載されている。 村上元三氏は山形の良家の申し入れを受けて娘さんを行儀見習いとして住まいさせておられた。文字通りの山形を愛する著名人だった。 |
2013年11月24日 |