「下参り(しもまいり)道中記」と「鶴ケ岡城下の行者宿」のことなど(2)

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
「下参り(しもまいり)道中記」と「鶴ケ岡城下の行者宿」のことなど(2)
≪鶴ケ岡城下の行者宿≫
 旧七日町にただ一つあった「出羽ホテル」が廃業してしまって寂しくなりましたが、江戸時代、鶴ケ岡城下の七日町は、行者や最上商人達の宿で賑わっていました。元々は「市」の立つ町であったようですが、鶴岡名誉市民で鶴岡市史編纂会会長であった大瀬欽哉さん(第18回(明治43年卒))の著した『城下町鶴岡』(庄内歴史調査会、平成19年6月15日第5版発行)に折り込まれている絵図・江戸湯島大城屋安政2年(1855)刊の「羽州田川郡鶴ケ岡城下の図」を見ると七日町通りの両側には旅籠と遊茶屋が軒を連ねており、他に商店としては御菓子所笹原や清七の名が一軒見えます。また、当該本には、七日町に「越前屋彦右衛門」という御用達の薬屋がありますが、この店は、富山薬の専売を許され、11木戸の通行御免の格式を与えられ、正月には酒井氏から拝領した裃を着てそれぞれの役人宅を年頭に回ったそうです。
 江戸時代の七日町の様子を知るには、斉藤正一さん(第46回(昭和13年卒))が著した『庄内藩』(平成2年10月10日第一印発行)に次のように当時の様子が詳しく記述されていますので、この部分を引用します。
 なお、注記をした語句については、鶴岡市郷土資料館に照会を行い、回答を得たものを記載しました。
 七日町は旅籠屋が集中している町で、その数は17軒に限定され、その権利は株として受け継がれていた。七日町は櫛引街道、温海街道、加茂街道、小国街道に出るに便利な位置にあり、加茂港で陸揚げされた上方荷や小国街道を送られてくる越後荷もここを通って内陸に送られたため、村山最上商人の往来が頻繁であり、七日町には最上問屋(注11)があり、ここで一泊するものが多かった。そのほか多かったのは湯殿山参詣の道者達で、縁年の丑年には特に多く、延享2年(1745)には3万8千人、文化4年(1807)には2万6,856人が参拝した。鶴ケ岡は湯殿山の「一の宿」で、道者はほとんど鶴ケ岡に一泊した。道者の中には当山派(引用者注記:真言宗の京都醍醐寺三宝院を本寺とし、吉野の金峰山を修業道場とする)の修験寺である五日街の教護寺に泊まる者が多かった。明和6年(1769)は丑年であったので参詣の道者が非常に多く、教護寺では泊めきれず、名子(引用者注記:寺の配下に属する者)や法類(引用者注記:同宗、同派に属し、密接な関係にある寺院又は僧侶)に泊めたので、市内の旅籠から苦情が出て、その制限を願い出た。そこで、庄内藩は契状(引用者注記:教護寺が宿泊を約束した証文)持参の者は従来どおり教護寺に宿泊させ、持参しない者、あるいは持参の者でも寺が満杯の時は七日町の旅籠屋に回すように申し渡した。旅籠仲間は共存共栄のため越後・信濃・会津・佐渡の四カ国の馴染客には定附(じょうふ)(注12)を許し、他の国の道者には総廻附にする協定を結んでいたが、文化期(1804〜1817)になると旅籠屋の旅客数に大差が生じ、中でも伊勢谷藤右衛門から出される出判(≪三山出入り取り締まり≫」の項を参照してください。)が顕著となり、文化8年(1811)、14軒の旅籠屋連名で定附をやめ、総廻附(そうかいふ)(注13)にするよう藩に願い出て実施されることになったが、総廻附にすると道者が鶴ケ岡で草鞋を脱がず、松根・手向・金峯・田川・三瀬に泊まる恐れがあり、また、七日町の旅籠屋は遊女を置くことを許されているので、精進潔斎して参詣する道者に嫌われ、客が減る恐れがあるから6月から8月までは遊女を差し止めるように請願した。このように、旅籠屋には定附を主張し遊女を置かない家と、総廻附を主張し遊女を置く家とに分かれていった。文化期に入ると、旅籠屋以外にも遊女屋が増えたので、文政元年(1818)、七日町の10軒に下旅籠屋の許可を与え遊女を置くことを許し、翌2年、七日町と八間町に13軒の下旅籠屋を許したので、その数は合計23軒となった。七日町の飯盛女の数は文政8年(1825)の106人から安政6年(1859)の203人に増加し遊里はますます繁盛した。
(注11)最上商人の荷主宿のこと。
(注12)馴染の道者客を毎回同じ宿に宿泊させること。
(注13)道者客を違う宿に泊まれるようにすること。
≪城下鶴ケ岡における預地の郷宿≫
 行者宿とは直接関係がないのですが、本間勝喜さん(第69回(昭和)37年卒)の『城下鶴ケ岡における預地の郷宿』(東北公益文科大学紀要論文、2001-12−20)によると、「正徳3年(1713)から文化元年(1804)までの間、七日町住居の町人柏倉久右衛門が郷宿(百姓宿)の役を勤めた。」とあります。この「郷宿」というのは、江戸時代中期以降、大名の城下町や幕府代官役所の所在地に、藩の諸役所や代官役所に村役人や農民が御用のために出かけてきたときに宿泊する定宿のことをいい、文化元年以降は、柏倉久右衛門に代わって南町の兼子儀右衛門がその役を勤めたとあります。両家とも酒造業を本業とし、郷宿は兼業として行われていたとのことです。また、柏倉久右衛門は、宿駅の公私旅行者に対して、人馬伝送・宿泊等の駅務を総理する役人(問屋)で、七日町で伝馬制の差配役、つまり人馬の調達の責任者でもありました。「郷宿」の特徴的なことを、本間さんの論文から引用して纏めると次のようになります。
@ 郷宿は村役人や農民の定宿であるとともに預地役所などへの取次ぎ、文書類の代筆、軽犯罪者の預宿等を行い、また、総代名主・年番名主の寄合所としても利用された。
A 預地役所に近く存在する郷宿の方が、在方に居住する総代名主より、何かと便利であったため、預地役所の下請けとして郷宿が事実上総代名主と同様に預地支配の一部を担うようになり、しばしば村々の相論の取り扱いも行った。
B 郷宿は預地御用達を兼ねたこともあり、郡中割の割当てなどにとどまらず、年貢金の徴収、凶作その他のために生活に困窮した農民を救済するために領主が貸付する夫食金(ふじききん;米の場合もある。)の貸付・年賦返済・年貢未納金の才覚(苦労して集金すること。)なども実務として担当した。
C 預地組々は、柏倉久右衛門のときから年々歳暮、年始などを提供していたが、庄内藩の、代官、郡代役所での必要経費を管内の村々に割り当てた「郡中割」(郡中入用)や村役人の給料・文具代金、道・橋・用水の普請費用など村の運営上必要な年貢以外に農民が負担した諸経費である「村入用」(むらにゅうよう・むらいりよう)の削減の方針により中止されたとされるが、実際には兼子儀右衛門の時に「南町面割」と名称を変えて存続していた。賄代(宿代)は一泊 150文であり、庄内藩の代屋に比べると割安であった。その代わりといえようか、郷宿が火災などの災難を蒙った際には、預地より纏まった合力金(援助金)を提供するのを慣例とした。
≪鶴ケ岡城下から三山への順路≫
 ところで、鶴ケ岡城下から月山への登拝口は、古来より「七方八口」と呼ばれる登拝口がありました。すなわち、現鶴岡市の荒沢口(羽黒口)、七五三掛口、大網口、川代口、現西川町の岩根澤口,本導寺口、大井澤口、それに現大蔵村の肘折口を「八口」というのですが、五三掛口と大網口は、同じ大網にあったので、これを一口として「七方」としたものです。
 当初は月山を中心とする三山回峰参りが主体でしたが、江戸時代に入ると信仰の主体が湯殿山に移りましたので、七五三掛口、大網口、岩根澤口,本導寺口、大井澤口の五口は、総て櫛引街道(六十里越街道)沿いに開かれており、直接湯殿山に登拝するのに好都合な立地にありました。
 鶴ケ岡に宿泊した行者たちは、湯殿山へは行者宿を早朝に出発して櫛引街道(六十里越街道)へ向かいます。その道順は、鶴ケ岡七日町、七軒町、外内島(とのじま)と進み、山添を通って松根で赤川を渡り、十王峠を経て大網、田麦俣と進みますが、田麦俣から大岫(おおぐき)峠に向かい、峠を越して志津,本導寺、白岩、寒河江へと向かえば山形城下に至ります。なお、山形城下の行者宿は八日町に限られていました。
 一方、羽黒山ヘのルートは、やはり赤川を渡る必要があり、これには「赤川渡し」と「菅原渡し」の2コースがありました。「赤川渡し」は当初、赤川集落から鳥居河原に出るものでしたが、赤川の氾濫によって流路が変わったり、川底の浅深に変化が出たりしたので、延宝2年(1674)ころに,押口(おさえぐち)集落から大宝寺へ変わって行きました。
 押口集落には、赤川渡守小屋があって、渡守の先祖は4人いて、最上義光より永代地を貰い、舟渡しの渡世を送っていましたが、酒井氏の入部後は、7軒が赤川渡守を勤めたといいます。
 赤川渡しの渡舟は、3艘が庄内藩から配備されました。そして、酒田で造られた新舟が、十数年単位で配備されました。舟賃は、1人につき常水時で22文、出水と夜中は30文, 駕籠1挺2人前、荷物2駄2人前などであり、昼夜に限らず出舟するものでした。
 これに対して、菅原渡しは赤川集落の西の川原から対岸の堤下の川原に渡り、紙漉町へ出るもので、渡しの利用者から1文ずつ徴収したので1文渡しとも呼ばれました。舟頭は赤川渡しの8人と高寺の4人で構成されていました。羽黒山参詣の人々の中にはこの渡しを利用するものもいましたが、大部分の人々は赤川渡しを利用したそうです。
 羽黒山参詣の人々は渡しで旧羽黒町の赤川集落を抜け出た後、三橋、刈谷野目、黒瀬を経て荒川に至りました(『庄内の古文書「羽黒詣」を読む@』(佐々木勝夫、荘内日報2012年(平成24)7月10日掲載)及び『史料から見る庄内の村落その6』(佐々木勝夫、荘内日報2013年(平成25)12月7日掲載)を参照)。
≪三山出入り取り締まり≫
 江戸時代、最上・村山地方から山越えして月山に参拝し、羽黒山を経て庄内から帰国するには厳しい制限がありました。
 『図説鶴岡のあゆみ』(鶴岡市市史編纂会編、2011年3月31日発行)には、「朱印地1,500石の羽黒山領は、四周が庄内藩領で月山、湯殿山も、また、登拝路の大部分も庄内藩領でした。庄内藩では登拝路の歩行・小屋掛けなどは許容しましたが、道者の藩境の出入りに関しては厳しく取り締まっており、文政2年(1819)には、道者への出入りについて、羽黒山に次のように通告した。」とあります。
1 五か所番所(筆者注記:清川、鼠ケ関、小国、大網、吹浦)から入り三山参詣後に山越えして最上・村山地方へ通り抜けることは以前から禁止である。
2 最上・村山地方から山越えして月山に参拝し、羽黒山を経て庄内から帰国することも、以前から禁止である。しかし、この例は多いので、もし不案内ゆえに入判(いりはん)(注14)をもたない者については、宿坊から事情を書き出させ、出判(ではん)(注15)を添えて番所に差しだすこと。
 (注14)江戸時代に旅をするには、「往来手形(通行手形)」が必要で、これがないと厳しい藩では余所者はその藩内に入国出来ず、また、宿泊も出来なかった。これとは別に、藩内で何をするか、何泊するかなどの許可が必要であった。これは旅籠などが町奉行などに代理申請した。出国時や藩内の移動の際は、番所などは奉行所が捺したこの許可証が本物かどうかをチェックした。この許可証を往来手形とは別に持参する必要があり、これを「手判」とか「入判」などと呼ぶ。日光などでは寺の参拝にもこれが必要であった。奥州仙台藩でも発行していた。
 また、『角川日本大辞典・東北地方・山形』には、「最上・村山地方から山越して月山に参拝し、羽黒山を経て庄内に抜けることを「懸掛(かけこし)」と呼んで禁止しましたが、入国する者が跡を絶たなかったため、庄内藩では無手形入国として取り扱い、出判は5文、入判は15文の手数料を徴収した。」と述べてあります。
「入判」に対して「出領許可証」のことをいう。
 また、『角川日本大辞典・東北地方・山形』には、「最上・村山地方から山越して月山に参拝し、羽黒山を経て庄内に抜けることを「懸掛(かけこし)」と呼んで禁止しましたが、入国する者が跡を絶たなかったため、庄内藩では無手形入国として取り扱い、出判は5文、入判は15文の手数料を徴収した。」と述べてあります。
 以上、鶴ケ岡城下の行者宿、三山への順路などについて述べてきましたが、山形城下の行者宿については,いずれ機会を見てご報告したいと思います。
2013年12月7日