明治期における「宮城前広場(現皇居外苑)」の整備について

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
明治期における「宮城前広場(現皇居外苑)」の整備について
≪東京第一大区小区分絵図≫
 私の手元に『東京第一大区小区分絵図』と題する絵図がある。この絵図は1875年(明治8)10月に判成され、彫工・佐藤富次郎、本板元・山村金三郎、江戸時代からの老舗書肆(しょし:書店)・須原屋の当主北畠茂兵衛が発兌書林(はつだしょりん:書籍出版)となって頒布されたものであり、定価は15銭とある(現在価格では3,000円ほどか。)。嘉永2年(1849)に金鱗堂尾張屋清七が発行した『尾張屋版切絵図』と同様の絵図であるが、この二つを比較してみると、『東京第一大区小区分絵図』では、かつて幕府の施設や各大名の屋敷で占められていた江戸城の西の丸下から大手門を中心とする一帯の地域が、明治維新後はその様相が一変しており、その大名屋敷などが元老院、内務省、大蔵省、文部省、教部省、紙幣寮、東京上等裁判所、警視庁等の明治政府の諸官庁に転用されており、これらが朱色一色で表示されているのが著しく目につく。
 この絵図は、廃藩置県後、政府によって新しく定められた地方行政制度である「大区小区制」による区割を示したものであるが、「大区小区制」については別稿に譲るとして、今回は旧江戸城の「西の丸下」地域がやがて「宮城前広場(現皇居外苑)」として整備が進む経緯とこの「宮城前広場」の整備の意義について調べた結果を報告してみたい。
≪西の丸下の土地利用変遷≫
 この絵図にある「東京第1大区1小区」の区域は、江戸時代「西の丸下地区」と呼ばれ、江戸城の巽(たつみ:南東)を防御する郭として日比谷入江を埋め立て築造された。幕末まで各大名屋敷があったところであるが、明治政府はこれら大名屋敷の大半を取り上げ、官用地や軍用地に転用していく。やがて、宮城に向かって左から祝田町、宝田町、元千代田町と命名され、やがて皇居造営事業の一環として「宮城前広場」として整備されることになるのである。なお、現在、この一帯は、96ヘクタールの面積を有する「皇居外苑」と呼ばれる地域になっており、19ヘクタールの「北の丸地区」を含めて面積115ヘクタールの環境省所管の「国民公園」として国民に解放されている。
 最初に明治初年から同20年頃までの当該地域内の土地利用の変遷を表にして概観すると次のようになる。
年代町名 文久元年
(1861)
明治2年
(1869)
明治4年
(1871)
明治8年
(1875)
明治20年
(1887)
祝田町【1872年(明5)〜1967(昭42)】(注1) 中老・久世大和守 土州(土佐)屯所 御用邸 近衛騎兵隊下川自原邸(注3) 皇居御造営工作場
若年寄・堀出雲守 御用屋敷 御用屋敷 皇居御造営工作場
若年寄・酒井右京亮 待詔局(注2) 中山忠能 元老院 元老院
若年寄・諏訪因幡守 中山忠能邸 議定所 工部省  皇居御造営工作場 
諏訪部弥三郎預厩 御厩 御厩
宝田町【同上】    老中・安藤対馬守 長州屯所  御用邸  東京鎮台営及び太政官代   皇居御造営工作場 
安藤対馬守御預地
老中・内藤紀伊守 神祇官 神祇官 斯文黌(しぶんこう)皇居御造営事務局華族会館
松平下総守 会計官 岩倉具視邸 右大臣岩倉具視邸  
元千代田町【同上】  松平肥後守 軍務官 御用邸 陸軍軍馬局調馬厩及び陸軍軍馬局調馬分厩  衛戌主衛陸軍大学校
松平肥後守預地 詰所 詰所 千代田文庫
(注1) 町名変更により祝田町、宝田町、元千代田町は、1967年(昭和42)以降、「千代田区皇居外苑1−1」となった。
(注2) 1869年(明治2)明治政府の建白書受理機関として太政官に設置された。同年7月「待詔院」と改称され、8月には衆議院に合併された。
(注3) 明治8年当時の土地利用の欄は、「絵図」と安政7年(1860)『江戸切絵図 御江戸大名小路絵図』を参考にして筆者が記載した。ただし、「絵図」の祝田町にある「下川自原邸」については調査したが、どのような人物の邸宅であったかを特定できなかった。
≪皇居御造営事業≫
 1873年(明治6)5月5日に西の丸御殿(皇城)が焼失した。早速、1874年(明治7)10月に皇居再建の下命があり、1876年(明治9)工部省は予算額百万円、5カ年計画で準備に着手したのであるが、1873年(明治6)10月には「明治6年の政変」が、1874年(明治7)の「台湾出兵」、「佐賀の乱」、1876年(明治9)10月の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」等が頻発し、国内の不穏、各地に漲り、1877年(明治10)2月には「西南の戦争」が起こったうえに、表向きの理由は地租の減額、諸費節約のためであったが経済的理由も加味されて、1877年(明治10)1月に皇居の造営は中止されることになった。この西の丸御殿(皇城)の焼失に関し東京日日新聞は、5月5日付記事で次のように述べているので、参考までに紹介しておく。
皇城炎焼の顛末
 5月5日午前第一時、皇居内より出火、皇城一円炎焼し六時頃鎮火せり。火元は紅葉山局女官下婢部屋前に柴小屋ありし所、前た米屋より藁灰を持参り右小屋へ入れ、当日製(こしら)へ候に付水は掛け湿し置候得共、猶気を付候様申伝え帰りしに、全く下婢不念にて右灰より燃上り候由。聖上(注1)、皇后宮には早々吹上御茶屋へ御立退被遊五時前御同車にて赤坂離宮へ御遷座被為在,賢所(注2)、皇霊(注3)、剣璽(注4)も無事御別条御同様御遷座其外御重器等焼出無之由なり。偖(さて)深夜宮中の急火には存外に焼死怪我人等少なく、女官の下婢三人、内一人焼死、二人怪我ばかりの由。死人へは葬式料三十円、怪我人へは十五円宛下し賜はりし由。
(注1)せいじょう:天皇を敬っていう語である。
(注2)かしこどころ:三種の神器(しんき、じんき、しんぎ)の一つである「八咫鏡(やたのかがみ)を祀る場所をいう。
(注3)こうれい:歴代天皇の霊をさす。
(注4)けんじ:三種の神器のうち、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)(草薙剣(くさなぎのつるぎ)と八咫瓊勾玉(やさかにのまがたま)とを合わせた呼称である。
 「西南の役」も終わり、内乱・暴動の類も鎮まり、再び皇居造営の議がしきりと起こるようになったため、明治12年(1879)9月12日太政官から工部省対して準備調査方の達しがあり、同月26日、旧本丸跡に再建という案もあったが、これについては、周囲の荒廃が著しく、これ等の整理に経費がかさむことから、最終的には旧西の丸跡に皇城を造営することに決定した。工事は、1883年(明治16)からの7年間、工事費八百万円(実際は約千万円かかった。)で計画され、1789年(明治22))の大日本帝国憲法公布、翌年の第1回帝国議会開催までの完工を目指すことになった。
 皇居造営事業全体としては、1882年(明治15)に皇居造営事務局が太政大臣直轄のもと設置され、1884年(明治17)に地鎮祭が行われ、1887年(明治20)12月に奥宮殿聖上常御殿、皇后常御殿などの竣工に至っている。これより以降「皇城」は「宮城(きゅうじょう)」と称された。
宮内省告示第6号皇居御造営落成ニ付、自今宮城ト称セラル明治21年10月27日
                宮内大臣子爵 土方久元
 ここで、同月、皇居御造営事務局は廃止となり、残務は皇居御造営「残業掛」に引き継がれた。その後、西の丸下の地域は、大部分の建物は撤去され、やがて千代田文庫が内閣記録課分室となって残り、衛戌主衛の跡には後年(明治42年)帝室林野局が建設されるのであるが、その他の一帯は空地となった。なお、一切のものがこの地区から撤去され整備が行われたのは、伊藤博文の指示によるものといわれている。
≪宮城前広場の整備≫
 前掲の表で見る通り「西の丸下」地区は、明治20年(1887)までには大部分の建物が撤去され、空地化した部分が広場として整備されるのは1888年(明治21)に至ってのことであるが、この整備は皇居造営事業としては残務として行われたことになる。宮城前広場の敷地は、明治13年(1880)から20年(1887)までに計6回、面積にして約4万2千坪(約14ヘクタール)の土地を買い上げなどして「皇宮地付属地」に編入して宮内省の所管となっていた(『東京市史稿皇城編』)。この他にも宝田2丁目の華族会館の地はすでに宮内省用地となっていたが、この地は、1886年(明治19)1月に皇居造営事務局から事務局用地として使用したい旨打診があり、これを受けて華族会館は半年間隣の旧岩倉邸に移った後、上野に移転したものである。したがって、祝田町、宝田町の一角は、明治20年までに元老院用地を除いて一体的に皇宮地付属地として整理されており、この土地の動きは、皇居御造営と一体の動きであることを示している。
 宮城前広場の整備は、明治22年(1889)2月11日の「大日本帝国憲法発布」の式典に合わせて整備されることになり、もっとも早い工事は明治21年(1888)4月に開始されたものの、式典までには完全に工事が終わらず、結局、完全竣工は「大日本帝国憲法発布」の式典が終了した1889年(明治22)3月31日であった。
 工事としては、主として@道路として3路線(幅約25〜90メートル)とA4ケ所の苑地(施行順に祝田町円庭、大手外濠縁円庭、宝田町円庭、外構第3着円庭)である。つまり、工事は非常に広い道路的空間とその道路に囲まれた三つの長方形の芝庭からなる広大な広場であった。芝庭は角が大きな半径で曲線の隅切りがなされているので「円庭」と呼んだらしい。B植栽工事に関しては記録がほとんどないが、1922年(大正11)4月実測の樹木調査で、マツ868本、ヤナギ173本、シイ106本、ヒマヤラシ―ダー89本、アカシア21本、エノキ8本、カシ5本、サクラ4本、カエデ4本、ミズキ2本、ウメ2本、モチ1本、イチョウ1本、合計13種1,285本と、松が主体となっていた記録があり、このことから植栽工事はまず芝生の広大な広場として成立し、後に大正期までに松と芝の現在に繋がる風景が創造されていったものと考えられている。なお、現在の皇居外苑広場の黒松は約2千本あり、皇居内の深い森と対照的に開放的でありながら、しかも荘厳な雰囲気を醸し出している。
≪宮城前広場での儀礼≫
 まだ工事の一部が完成していない明治22年(1889)1月11日、憲法発布式のちょうど1ケ月前、明治6年(1879)以来赤坂の仮皇居に居を構えていた天皇皇后は、鹵簿(ろぼ)(注1)により新しい皇居に移られた。この時の様子を『風俗画報1』(注2))は
・・・大手の広場に両陛下が到着されると花火師が奉祝の花火を打ち上げ、大手門前には近衛歩兵7大隊、砲兵1連隊、騎兵1大隊、歩兵1中隊(注3))が並び、これを小松宮(彰仁親王)が督して列兵の前に並び、これと相対して宮内の官員数百が礼服を着て迎え、二重橋に両陛下が近づくや近衛の諸隊は銃による敬礼を行い、楽隊は君が代を演奏した。この時無数の拝観人は大手の広場に充満して、立錐の余地なく、歓声笑語し、どよめき、この千歳の盛時に遭遇したことを喜び祝った。・・・
 と伝えている(『公園の誕生』に掲載の元文を筆者が要約した。)。
(注1)儀仗警護の隊伍を整えた「行幸(ぎょうこう・みゆき)・行啓(ぎょうけい)」の行列のことである。「鹵」は楯、「簿」は鹵簿の列次を書いた帳簿を意味する。なお「行幸」は天皇が外出することで、目 的地が複数ある場合は、「巡幸」という。「行啓」は皇后・皇太后・皇太子・皇太子妃が外出することをいう。
(注2))1889年(明治22)2月に創刊され1916年(大正5)2月に廃刊になった明治・大正期の風俗雑誌。東陽堂発行。『画ヲ以テ一ノ私史ヲ編纂スルノ料ヲ作ル』ことを目的に江戸時代風俗の考証、各地に伝わる地方風俗、刊行時における流行風俗の記録を編集方針としたが、創刊当初は復古調の時流を反映して江戸研究に重点が置かれた(世界大辞典第2版)。
(注3)明治陸軍では「近衛隊」の人数は、歩兵2,970名、騎兵228名、砲兵297名、工兵297名、合計3,792名となっている。
 続くイベントが同年2月11日の「大日本帝国憲法発布観兵式」である。式典そのものは、午前中に新宮殿内で行われたが、午後は青山練兵場で記念の観兵式が行われ、その鹵簿が宮城広場を通過した。官報によって警視庁高等官、文部省直轄学校、学習院、東京農林学校などの学生生徒及び府会議員らが奉祝のため動員されていたことが分かる。当日の様子を前述の『風俗画報2』は
 ・・・観兵式の情報を入手した人々は、雪解けの悪路にもかかわらず四方より宮城正門に集まり、万歳の歓呼の声は笛太鼓の音と和して天に轟く中、両陛下の到着を今か今かと待っている。・・・ほどなく両陛下の姿が近づくにつれ学校生徒は整列して一斉に両陛下及び国家の万歳を唱え、君が代、紀元節などの唱歌を歌った。また、数百の花火を打ち上げるなど、勇ましくもまた厳かであった。人々は押し合いへしあい大変な様子であった。・・・
 と述べ(『公園の誕生』に掲載の元文を筆者が要約した。)、各区から山車を宮城広場に集め、また、学校生徒を参列させている様子が分かり、お祭り騒ぎともいえる雰囲気であったことが想像できる。これを描いた錦絵(注4)もいくつかあることから、この描写はさほど誇張されたものではないと思われる。
(注4)『憲法発布宮城二重橋御出門之図』(東京都中央図書館特別文庫室)、『明治22年2月11日帝国憲法発布臨時観兵式行幸皇居御出門之図』(早稲田大学)などがある。
 更に、翌12日は、宮城より上野公園まで東京府からの要請にこたえる形で行幸が行われた。この道筋は、宮城正門〜桜田門〜外務省〜東京府庁〜二葉町〜新橋〜京橋〜日本橋〜万世橋〜黒門通り〜上野公園内華族会館というものであり、生徒らが立ち並び君が代を斉唱するなかを行幸は進んでいった。
 これらの宮城前広場の竣工直前のイベントに共通していることは、@鹵簿のルートが正門(大手門)と桜田門の間であること、Aその道筋に軍隊や学校生徒の奉祝人員が整列していること、Bそれらの人員による君が代の斉唱や演奏があること、C拝観人である群衆は外側(馬場先門側)の広場に集まっていることなどである。従って、広場の整備工事も、もっとも重要な正門〜桜田門に近い場所から順次着工されたことが分かる。そして、広場の空間計画も儀礼のための空間を作り上げることが第一の目的であったのである。
 これらの行進ほど盛大でないにしても、これと同様のパレードを我々はテレビ放映で見ることができた。それは2013年(平成25)11月19日の出来事である。キャロ ライン・ケネディ駐日大使が皇居・宮殿での信任状奉呈式に臨む際、明治生命会館から 2頭立て儀装車に乗り込み、皇居前広場を経由して約1キロメートルのコースを通って 正門から皇居に入り、宮殿の表玄関まで進んだが、馬車に乗った大使を一目見ようと大 勢の国民が皇居前広場に詰めかけ、歓声を上げたのである。
≪上野公園の整備目的≫
 明治時代には、近代日本の新しい文明の成果や他国の文化を人々に伝える啓蒙的な行事として「博覧会」が開催された。上野公園では、1877年(明治10)8月に「第1回内国勧業博覧会」が開催されたのに続いて1881年(明治14)に第2回の内国博、(明治23)には第3回内国博が開催され、そのために、「人民輻輳の地」としての公園、あるいは土地政策としての公園とは異質の、国家の公園としての意味付けがなされ、博覧会の会場として整備され、これらの内国勧業博覧会においては、天皇が臣民を前に開会を宣言した。つまり、上野公園は、新政府が目指す国の形を国民の目に見えるものとして示す特別な場所であり、また、上野公園の広場が天皇主体の儀礼となる広場造成であったことに比べ、宮城前のそれは、天皇を「拝観」し奉拝する臣民が行為の主体となる儀礼の場を意図して整備されたことにその特徴がある。
 博覧会の開催状況を概観してみると次のようになる。
 1871年(明治4)5月、東京九段下の「西洋医学所薬草園」で行われた大学南校主の「物産会」10月には京都の西本願寺で開催された「京都博覧会」が国内の博覧会の最初期のものである。上述の通り1877年(明治10)に上野公園で政府主催の「第1回内国勧業博覧会」が開催され、以後、第2回(1881年(明治14))、第3回(1890年(明治23))と同じく上野公園で、第4回は1895年(明治28)に京都御苑で、1895年(明治36)には大阪で第5回が開催された。第5回の大阪での博覧会では初めて海外からの出品を許し、事実上日本で初の「万国博覧会」となった。
≪終わりに≫
 宮城前広場とよく似た空間が日本にもう一か所ある。それは、京都御所を取り囲む「京都御苑」である。京都御苑は現在の皇居外苑と同様、京都御所を取り巻く園地として「国民公園」になっているが、この両者にはどのような関係があるのであろうか、この点に関しては稿を改めて紹介してみたい。
(参考図書等)
『大江戸古地図散歩』(佐々悦久、2011年2月13日第1刷発行、株式会社新人物往来社)、『東京都公園協会監修・東京公園文庫9・皇居外苑』(前島康彦著、1981年2月1日第一刷発行、株式会社郷学舎)、『歴史文化ライブラリー157・公園の誕生』(小野良平著、2003年7月1日第一刷発行、株式会社吉川弘文館)、『緑と水のひろば』(公益財団法人東京都公園協会、winter 2012)、環境省ホームページ
2014年1月6日