齋藤篤信の遺稿目録にある「鶴岡中学校開業式祝辞」について

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
 齋藤篤信の遺稿目録にある「鶴岡中学校開業式祝辞」について
≪齋藤篤信の遺稿目録にある鶴岡中学校開業式祝辞≫
 私が、会員になっている「山形県立博物館(以下「博物館」という。)友の会」では、分館である「教育資料館」(重要文化財の指定の「旧山形師範学校」)において、教育史や広く教育全般についての「談話会」を昨年度から開催していますが、この第4回の懇話会において山形師範学校が取り上げられ、師範学校創設の話に次いで、この山形師範学校の初代校長となった齋藤篤信について話が及びました。齋藤篤信について私は、教育資料館の展示や「米沢日報」の記事などでその人となりを知る程度でしたが、博物館の嘱託をされておった松田源恵さんが、齋藤篤信の孫に当たる関口信介さんと外曾孫の種村一郎さんによって著わされた『馬陵(※1)齋藤篤信行迹V(※2)』(関口信介(※3)編纂、外曾孫の種村一郎(※4)発行、昭和41年5月発行)を参照して纏め上げて報告された『山形師範学校初代校長齋藤篤信の遺稿』(博物館研究報告第7号、1986)の中に、ここで取り上げる「祝辞」があることを知り、博物館専門嘱託の野口一雄先生や教育資料館の学芸員である青木章二先生のお力添えを得て、この「祝辞」の写しを入手することができました。当該祝辞は、松田源恵さんが纏められた齋藤篤信の遺稿目録第36帖の4にあるのですが、最初にその全文を紹介してみたいと思います。
(※1)齋藤篤信の用いた「号」で、本名とは別に使用する「称号」のことである。なお、中国戦国時代に当たる紀元前341年、魏と斉が激突した戦いに「馬陵の戦い」というのがあって、この戦いでは、斉が魏に圧勝し,普の後継者として天下の覇国たらんとした魏は、この戦いを境に衰微してゆき、代わって斉は秦と並び大陸を二分する大勢力へと成長していった。
(※2)「ぎょうせき」と読み、人の行ってきた事柄の意味である。
(※3)長男善信の次男に当たる方である(関口家を継ぐ)。
(※4)長男善信の次女で種村家に嫁いだ常子の子で、元米沢信用金庫理事長を勤めた。
【原   文】
維明治十一年、十一月廿五日、鶴岡有中学校開業之典、我山形県次官、石巻君、代長官而見臨焉、篤信等亦在下風、満堂之学徒、?采齊ゝ、百儀咸宣、恭惟、鶴岡千秋之祥瑞、化為鳳雛鸞子、鳳雛鸞子化為大鵬、亦未可知也、夫鶴岡甞為建廳之地、当初県令三島公、深察人材唯学是由、拮据大力、其堤撕振作之功、一発也為朝?学校、為中学校、生徒志業大進、嗟乎此学斯学徒、因長官育材之深旨、莫一不帯秀英元気、雄心憤發、進不已、則萬国雄飛之功、亦可期也、不唯鳳雛?子大鵬之翼、羽陽之首鳴又何足道。而亦安知非發祥於鶴岡哉、余期千秋之光于今日、以聊表祝辭

【読み下し文】
維(これ)、明治11年、11月25日、鶴岡に中学校開業の典有り。我が山形県次官石巻君(※1)、長官V(※2)に代り而(て)、焉(ここ)に見臨す。篤信等(ら)も亦下風(※3)に在り。萬堂の学徒、?采齊ゝ(※4)、百儀咸(みな)宣し。恭しく惟(おも)うに、鶴岡は千秋の祥瑞(※5)たり、化して鳳(※6)雛は鸞(らん)(※7)子と為(な)り、鳳雛鸞子の化して大鵬(※8)と為(な)るも、亦知るべからざるなり。夫(それ)鶴岡は甞(かつ)て廳を建つるの地為(た)り。当初の県令三島公、人材は唯だ学(がく)是に由(よ)るを深察し、拮据(※9)して大いに力(つと)む。其堤撕(※10)振作(※11)の功、一たび発するや朝?学校を為(つく)り、中学校を為(つく)る。生徒の志業(※12)大いに進む。嗟乎(ああ)ここに学ぶこの斯(こ)の学徒、長官の育材の深旨に因(よ)れば、一として秀英の元気を帯びざる莫(な)し。雄心(※13)憤発、進みて已(や)まず。則ち萬国雄飛の功亦期すべきなり。唯(ひとり)鳳雛鸞子、大鵬の翼のみならんや。羽陽の首(かしら)と鳴すは又何(なん)ぞ道(い)うに足らん(※14)。而して亦知を安んじ祥を鶴岡に発するに非(あら)ざらんや。余、千秋の光を今日に期し、以て聊(いささか)祝辞を表す。
【字句等の説明】
(※1)石巻清隆少書記官(明治10年改訂の「掌中官員録」によると、県の場合、奏任官4等「令」、5等「権令」、6等「大書記官」、7等「少書記官」とある。明治12年8月18日付を以て大阪上等裁判所判事に転任(三島通庸関係文書)。)、(※2)三島通庸、(※3)かふう:低い地位、(※4)ふうさいせいせい:人品威儀整うこと、(※5)縁起の良い前兆、(※6)鳳雛(ほうすう):鳳凰の雛。雄を「鳳」といい、雌を「凰」という。将来優れた人物になることが期待されている少年、(※7)中国に伝わる想像上の美しい鳥。「鸞」は神霊の精が鳥と化したもの。鳳凰が歳を経ると「鸞」になるといわれる。(※8)中国に伝わる伝説の巨鳥、(※9)仕事に励むこと、(※10)ていせい:師が弟子を奮起させて導くこと、(※11)人の気持ちや物事の勢いを盛んにすること、(※12)学業に志すこと、(※13)雄々しい心、、(※14)いうまでもない。
≪鶴岡における中学校創設の経緯≫
 鶴岡における最初の中学校が我々の母校、現在の「山形県立鶴岡南高等学校(以下「母校」という。)」ですが、その歴史をみると、明治21年(1888)7月1日に創設された「荘内私立中学校」に始まるとされています。しかし、それ以前にも中学校が存在しており、その辺の事情は『山形県立鶴岡南高等学校八〇年史及び百年史』(八〇年史:昭和45年2月1日発行、発行者:山形県立鶴岡南高等学校八〇年記念事業期成同盟会、百年史:平成6年4月20日発行、山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会、著者:八〇年史:大瀬欣哉・齋藤正一・佐藤誠朗、百年史:大瀬欣哉・齋藤正一・佐藤誠朗・安部博行(以下「八〇年史」・「百年史」という。)において、次のように説明してあり、『山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会会員名簿』(平成23年6月、以下「同窓会名簿」という。)においても同様の記述があります。
 「三島通庸は土木県令といわれたほど土木事業を盛んに起し,殊に県下道路の開通に努力したのですが、また教育に対しても非常な熱意を持っていました。鶴岡県令の時には、東北にての比を見ないといわれた三階建洋風の朝?学校を設立し、明治9年末山形県令になると今度は一郡一中学校主義を採り、又変則中学校の設立を奨励した結果、県下に靡然(筆者注記:びぜん:なび従う様子)として中等教育の隆盛を見ました。鶴岡には馬場町十日町口の旧藩の重臣服部氏の旧宅(現田川地方事務所敷地))に「鶴岡変則中学校」を設けました。明治10年12月10日県から柴山景綱八等属,肝付了介、区長・戸長・副戸長等が列席して開校式が行われたのですが、生徒は91人でした。
 また、『鶴岡市史中巻』(昭和50年2月1日発行、発行者:鶴岡市役所、監修:伊東多三郎、編纂執筆:大瀬欣哉・齋藤正一・佐藤誠朗、以下「市史中巻」という。)の384頁においても、
 ・・・しかし一方では明治7年(1874)の平田学校,華山学校、雲山学校、保春学校、本鏡学校、蓮池学校、大宝寺学校、苗秀学校の開設、明治9年(1876)の洋風瓦葺三階建の朝?学校の建設、明治10年(1877)の荘内神社,三川橋の竣工、鶴岡変則中学校の開校、明治14年(1881)の西田川郡役所の建設等新時代の建設が進められた。このような鶴岡の文明開花を推進したのは、鶴岡県令三島通庸であった。
とあり、鶴岡における中学校の創設は、1877年(明治10)の「鶴岡変則中学校」であったことが分かります。
 ところが、母校のホームページ(以下「母校ホームページ」という。)を見たところ、「沿革」として@明治10年 1月 鶴岡中学校設立、同じくA明治10年11月鶴岡変則中学校設置とあって、『八〇年史』・『百年史』、『同窓会名簿』、『市史中巻』の記述と異なり、「鶴岡変則中学校」創設以前に「鶴岡中学校」が1月に、また、11月に「鶴岡変則中学校」が設置されたかのように読みとれるような記載があり、平成25年7月1日に執り行われた「母校創立125周年記念式典」式辞においても柴田曜子校長が同様のことを述べております。
 そこで、この事に関して母校に照会をしたところ、平成24年度まで母校同窓会事務局長を勤めていた渡部眞二さん(71回、昭和39年卒)から証拠書類は無いが、母校ホームページ記載のことは、昭和26年度からの「学校要覧」に書いてあるとし、資料として明治35年度の『山形県立荘内中学校創立満25周年記念号』記載の「沿革略誌(写)」が添付されてきました。その沿革略誌の冒頭には次のような記述があります。
明治10年11月、三嶋通庸氏ノ県令タルトキ県費ヲ以テ鶴岡二一中学校ヲ設置シテ、鶴岡変則中学校ト称シ・・・       
 更に、私見としながらも次のような意見が付け加えてありました。
明治10年1月に文部省令が出て、三島県令が一郡一中学校を設立すると訓示したとの記録から@があり、沿革略誌にもあるようにAが記録されたと思います。       
 従って、これから判断すると、沿革としては、三島県令の方針として1月に鶴岡に中学校の設置が決定され、次に11月になって具体的にその中学の種類は変則中学校と決定し、旧庄内藩家老服部瀬兵衛旧邸において「鶴岡変則中学校」の開校式典が12月10日に挙行されたということになるものと思います。
≪明治11年11月25日の鶴岡有中学校開業之典≫
 以上、『八〇年史』・『百年史』、『同窓会名簿』、『市史中巻』及び「母校ホームページ」を見てきましたが、これ等には冒頭に掲げた明治11年(1878)11月25日に「開業式」が行われたという事実が出てきません。壁に突き当たった私は、鶴岡市郷土資料館勤務の秋保 良さん(第75回、昭和43年卒)の力を借りることにし、明治11年11月25日に鶴岡中学校の開業式典が執り行われたか否かの照会を行うことにしました(照会:平成25年12月11日、回答:平成26年1月8日)。
≪「鶴岡中学校開業式祝辞」の謎≫
 秋保さんは、鶴岡市立資料館で所蔵している一般の人々が書いた日記等関係する蔵書までもくまなく調査してくれたのですが、結論としては明治11年1月25日に鶴岡中学校開業の式典が挙行された事を証することはできませんでした。
 明治11年(1878)というと、後述する通り9月に「山形師範学校」が135名の第1回入学生を迎えて開校した年であり、このとき齋藤篤信は、53歳で副校長の職に就任した年でもあります。
 取り揃えてもらった『荘内中学校沿革史』(明治33年)、『鶴岡市史下巻』、『八〇年史』、『百年史』、『鶴岡沿革史・中学校』(大正12年)、『山形県立荘内中学校一覧』(大正2年9月)、『鶴岡一覧之紀行』明治12年9、『山形県教育史 通史編上巻』(平成3年)の各種資料では、鶴岡変則中学校の開校式典は、いずれも明治10年(1877)12月10日となっており、その根拠は当時の第七大区学区取締(※1)・遠藤厚夫(こうふ)(※2)が記した『各校取扱備忘誌』(明治10年)によるもので、当該備忘誌には毛筆で次のように記録されています。
◆12月9日 日曜
 昨日五課官員柴山景綱八等属(※3)、肝付了介中学校開校二付到着之趣ニテ本日朝?学校並中学校江巡視

◆12月10日
中学校開校式挙行
柴山景綱八等属
肝付了介本県ヨリ出張臨席
区長,戸長、副戸長、学校世話掛出席
太政官御布告文ヲ朗読畢テ訓導関原(弥里)中台直矢祝文ヲ読ム
金25銭ヅツ、訓導3人二賜ル
金3銭ヅツ、生徒91人二賜ル 河上和義共92人也
同人ハ中学校開設二付懇切世話致候二付御賞詞有之       
(※1) 明治5年8月2日太政官布告第214号によって「学制」が公布されたが、「学制」はフランスの学制に倣って「学区制度」をとった。全国を八の大区に分け(翌年の改正で七)8大学を、一大区を32中学区分けて256(翌年の改正で239)中学校を、一中学区を210小学区に分けて53760(翌年の改正で42451)の小学校を置くことを決めた。山形県は、青森、福島、磐前(現在の福島県浜通り地域に在った県)、水沢、岩手、秋田、宮城の各県と共に第七大区に区割され、宮城県に本部が置かれた。「学区取締」は県から任命され、「学区取締事務章程」に基づき、学区内の諸学校の管理、諸通告文書の検閲、学令を検査しての就学督励、学事の諸年報統計の編集、文部省補助金の配領、県立学校費を両収誌県庁への納付等の学事に関する一切の事務を担当した。
(※2)漢学者。文政8年(1825)12月13日荘内藩士遠藤七郎(茂逸)の4男として鶴岡一日市町裏町に生まれる。幼時より才あり。天保7年(1836)藩校致道館に入学し、弘化3年(1846)舎生となる。詩経を坂尾六郎(清風)に修め、剣術を澤井水之助、槍術を土屋正蔵、馬術を鈴木虎七にそれぞれ学んだ。嘉永5年(1852)同姓遠藤修二(茂政)の養子となって、その後を継ぎ、安政2年(1855)致道館典学兼助教、万延元年(1860)藩命をうけ日本各地を学事視察した。維新後の明治3年(1870)抜擢されて致道館の祭酒代(筆者注記:現在の校長代理にあたる。)となる。学徳あり特に詩文章及び書に長じて多くの門人に経書を講じ、また旧藩主酒井忠篤に度々進講した。明治8年(1875)鶴岡県大七大区学区取締を命じられ、同10年(1877)開校の鶴岡変則中学校(後の西田川郡中学校)の校務を取り扱う。同12年(1879)より16年(1883)まで山形県学務委員を務めた。明治25年(1892)1月9日68歳で没した(荘内人名事典)。
(※3)柴山竜五郎、名は景綱天保6年(1835)11月11日生まれ。薩摩藩士。文久2年の寺田や事件に連座したが許されて徒目付となる。戊辰戦争では本営付監郡として北越に従軍。維新後警視庁大警部、山形、福島県で郡長等を勤めた。明治44年(1911)9月6日没。享年77歳(デジタル日本人名事典)。なお、柴山は三県令夫人の兄、明治10年山形県庁に採用された。
 ところが、『八〇年史』や『百年史』には、
校舎は、初め前記のように藩士服部氏の旧宅を使用したが、朝?学校に移った。朝賜学校の2階16坪12教室のうち4室が中学校にあてられた。       
 との記載があり、また、『図説鶴岡のあゆみ』(2011年3月31日、鶴岡市発行)にも同様の記述があるので、当該祝辞は、三島通庸が鶴岡県令時代に完成させた朝?学校に中学校が移った際の開業式に当たって寄せられたものと考えられたので、このことについて秋保さん宛て追加照会(平成25年12月30日)をしたのですが、送付されてきた資料・『朝?学校沿革史』によると、中学校の服部旧宅から朝?学校への移転は、
(筆者注記:明治13年(1880))
8月西田川郡中学校ヲ当朝賜学校二置カルルヨリ6月中二教場中学校教場トス
とあって残念ながら関連性がないことが判明しました。
 そこで、『変則中学校が変則でない、いわゆる通常の中学校となって開業する計画に対応して用意された祝辞であったかもしれない。しかしながら何らかの事情でこれが実現できなかったものであったのかもしれない。あるいは、その構想が「西田川郡中学校」への改称と変更になったものかもしれない。それとも標題に「開業之典」とあるので、「開」には「はじめる」、「業」には「学びのわざ」、「典」には「儀式」の意味がそれぞれあり、また、年月日からみて、「開業之典」は現在の「始業式」というような意味を持つのではないかと考え、そこで、この祝辞は変則中学校が開校した翌年度の始業式に際してのものではなかったのか。』などなどと大胆に種々推理してみたのですが、いかんせん典拠となる書面やその他の記録が存在しないので、齋藤篤信の祝辞の謎は深まるばかりで、結局これ以上の追及は断念せざるを得ませんでした。
 ただ、『朝賜学校沿革史』を見ると、明治11年11月24日に、「本県五等属長沢惟和(※))」が、また明治14年11月17日に「本県師範学校長齋藤篤信」がそれぞれ朝?学校を訪れたことが箇条書きで記されていますので、齋藤篤信の鶴岡訪問の足跡は残されていました。なお、明治13年9月1日改正『山形県職員禄』を見ると、齋藤篤信は、当時師範学校校長に加えて山形県学務課と土木課の要職を兼務していいたことが分かります。
(※)長沢惟和(顕郎) 荘内藩中老松本権右衛門(親敏)の二男として天保14(1843)2月25日に生まれ、若年のころから俊秀の評あり。後に松平家の宗家といわれる長沢家を再興する。松平権十郎(親懐(ちかひろ))はその兄。戊辰戦争に当たり荘内藩の周旋方として活躍。明治3年(1870)8月犬塚盛巍(もりたか)と共に旧藩士酒井忠篤の使者として鹿児島に赴く。島津藩知事及び西郷大参事と面談して薩摩藩の兵器製造所、紡績所を視察、同藩の将来の動向を察知して庄内に帰る。明治4年(1871)大泉藩権大属、5年(1872)酒井忠篤に随従してドイツに留学したが、翌年病気のため帰国した。明治10年(1877)山形県五等属となり、西村山郡長を経て同13年(1880)4月東田川郡長に、15年(1882)2月西田川郡長に転じて同19年(1886)2月まで在任した。明治26年(1893)4月26日没。享年51歳(荘内人名事典)。
 「鶴岡変則中学校」は間もなく「西田川郡中学校」と改称されますが、その開校については、『荘内中学校沿革史』(明治33年)、『八〇年史』、『鶴岡市史下巻』、『山形県立荘内中学校一覧』(大正2年9月)が明治12年1月とし、『鶴岡沿革史・中学校』(大正12年)、『百年史』では明治13年1月とし、『山形県教育史 通史編上巻』(平成3年)にいたっては、別々の頁(368頁と396頁)に両説が記されています。しかし、『百年史』によれば、両校の訓導を勤めた中台直矢の履歴書には明治12年3月が「鶴岡変則中学校勤務」、同13年8月が「西田川郡中学校勤務」となっており、また、家中新町大山街道口1番ノ内2番の「地価帳」に明治12年6月酒井邸を購入した時の張り紙が「鶴岡中学校」となっていることから、「西田川郡中学校」の開校は明治13年(1880)1月が正しいということになります。
 変則中学校があった場所は、開設当初は馬場町十日町口5番の服部旧邸で、明治12年6月に家中新町大山街道口1番の旧藩主酒井忠宝(ただみち)の屋敷の北側一部を買受けて移転、更に明治13年8月に朝?学校に移りますが、明治16年3月に朝?学校が焼失したため、『百年史』によれば再び酒井伯爵邸の一部を買い受けてこれに移っています。
≪一郡一中学校構想の具現化と廃止≫
 明治11年7月22日の太政官布告第17号をもって「郡区町村編成法」が公布され、山形県には村山には東西南北の4郡、置賜には東西南の3郡、田川は東西の2郡、それに飽海と最上の2郡、合計11郡が置かれ、三島県令は「一郡一中学校」の構想の具現化を進めました。その結果を平成25年度山形県立博物館館長・学芸員講座第6回資料を参考にして纏めると下表のようになります。
名     称 所  在  地 設立年 生徒数 参    考
公立西田川郡中学校 西田川郡鶴岡町 明治13年 70人 明治10年設置の鶴岡
変則中学校の名称変更
公立酒田中学校(※1) 飽海郡酒田町 明治12年 34人 明治15年1月、山形県
師範学校に「中学師範予
備科」設置。同17年「山
形県中学校」として分離
(現山形東高校)。
公立東田川郡中学校(※2) 東田川郡清川村 明治13年 3人
公立南置賜郡中学校 米沢門東町 明治13年 98人
公立最上中学校 新庄小田島町 明治14年 47人
(※1)琢成小学校が設立されるとともにこの3階に設けられた。しかし、明治16年3月、学校が火災にあって、千日堂前の元勧業試験場に移したが再建不能となり、遂に中学校は廃止となった。
(※2)明治14年の明治天皇御駐在のため、一時的に設けられたものらしく、有名無実の中学校であった。
 しかし、明治19年(1886)の「第1次中学校令」(明治19年4月10日勅令第15号)公布によって「中学校は各府県において設置できるが、地方費の支出または補助によるものは各府県1か所に限り、郡町村費で設置することはできない」とする一県一校主義となったため、「西田川郡中学校」は廃校のやむなきに至り、明治21(1888)7月1日に「荘内私立中学校」が設置されるまで鶴岡には中学校が存在しなくなります。
≪齋藤篤信という人≫
 ここで、齋藤篤信について簡単に触れておきます。彼は、人物・学識ともに優れた米沢藩士でしたが、『馬陵齋藤篤信行迹』に基づき教育資料館が纏めた略歴は次表のようになっています。
年    号 説             明
文政 8年(1825) 米沢藩士齋藤庸信の長男として出生。幼少より書を好み、父より儒学の
指導を受け,興譲館に学ぶ。また、槍術・馬術を修練する。
嘉永 3年(1850) 興譲館勤学兼助読、以後9年間在職(25歳)
文久 元年(1861) 糠之目砦将明
文久 3年(1863) 高畠砦将(37歳)
慶応 元年(1865) 典謁者(奥取継)、中士隊頭
明治 元年(1868)  戊辰の役に総隊長として参戦、長岡城攻略に功有り、藩主の感状をうけ
る(42歳)。
軍務参謀となり、和平交渉の全権を担う.藩命により会津藩、庄内藩を説
得し和平交渉に当たる。
明治 2年(1869) 待詔院(※1)下局出仕(44歳)
明治 3年(1870) 米沢藩宣教師
明治 4年(1871) 准少参事藩校総理
明治 6年(1873) 教部省出仕(47歳)
明治 9年(1876) 第十大区区長、栗子隧道開削に奔走。
明治11年(1878) 山形県師範学校副校長(53歳)(※2)
明治12年(1879) 山形県学務課土木課師範学校校長(54歳)(※3)
明治17年(1884) 山形県師範学校校長退職(59歳)
明治18年(1885) 文部省編?局出仕、学習院教授補(60歳)
明治24年(1891) 米沢にて病没(67歳)
(※1)士民有志の建言を受理し、処理する明治政府の機関で、議定・参与からなる上局と各藩を代表して議事に参加する貢士からなる下局を置いた。
(※2)この時「校長」の名称は無く、「副校長」がトップであった。
(※3)明治13年9月1日改正『山形県職員禄』に記載してある。
≪三島通庸と齋藤篤信との関係≫
 齋藤篤信が県令三島通庸に請われて山形県師範学校校長に就任した理由はどのようなものであったのでしょうか。
 齋藤篤信は上記の略歴にもある通り、明治6年に教部省に出仕していますが、明治7年(1875)当時の『掌中官員録』を見ると、三島通庸が教部省大丞(※)の職に在り、同時に齋藤篤信が権大録の職に在って、ここに上司三島通庸と部下齋藤篤信との関係が見られ、この時すでに三島通庸は齋藤篤信の人物・学識を見込んでいたものと思われるのです。
   三島通庸は県令就任に当たって「各地に学校を興し、人材を育成する』という所信表明を行っておりますが、これに基づき、明治11年3月、本格的な教員養成機関としての「山形師範学校」の建設に着工し、8月には落成式を迎えています。そして、前述の通り明治11年(1878)9月、「山形師範学校」は135名の第1回入学生を迎えて開校したのですが、このとき齋藤篤信は副校長の職に就任し、翌年になって初代校長となり、以後、足掛け7年間校長を勤めました。
齋藤篤信が教部省勤務時の名簿(明治8年「掌中官員録」より)
官の種類 等級(等) 月給(円) 官職名 在職者名
勅任官 500  
  400 大輔 宍戸 環(たまき)
 
350 少輔 黒田清輝
奏任官 250 大丞 三島通庸                   
200 小丞  
150   6等出仕:鈴木 焦
100   7等出仕:土持綱幸・足立正聲
判任官   大録 八木 雅・山内時習・後醍院眞柱・
小中村清矩・山下敢愛・清原眞由美・
石尾孝基・眞木直人 
8等出仕:久留清隆・大谷順三・磯村定之 
  権大録 永坂 潜・堀 秀之・山田武雄・
尾越孝輔・栗田 寛・島田葬根・
齋藤篤信・猿渡容盛・大澤清臣・
加藤春大
9等出仕:井上頼國・井上眞優
10   中録  
11   権中録  
12   少録  
13   権少録  
14   筆生  
15   省掌  
等 外 1〜4      
(※)三島通庸が教部省大丞となったのは、1872年(明治5)11月で37歳の時である。そして、教部省大丞と兼職のままで1874年(明治7)12月には第2次酒田県令に就任する。更に、1875年(明治8)8月に第2次酒田県が鶴岡県と改称し、県庁は旧藩校の「致道館」に移され、三島通庸は教部省大丞を免ぜられて鶴岡県令となり、その翌年の明治9年(1876)8月21日には、置賜県、山形県、鶴岡県が統合されて現在の山形県が発足し、三島通庸はその初代県令に就任した。
≪終わりに≫
 冒頭に掲げた齋藤篤信の「祝辞」は、山形県令である三島通庸が、かつて自身が鶴岡県令を勤め、旧庄内藩士族の反対を押し切って「朝?学校」を建設し教育を奨励したその地に開学された中学校におけるものであり、当時の県庁のナンバー2の人物を臨見させ、ここに進学した生徒が自己を研鑽して勉学に励み、将来彼らが大鵬となって万国に雄飛して行くことを希望している格調の高い祝辞ですが、残念ながら鶴岡で披露された事実をつきとめることは適いませんでした。そこで、もしこの拙稿をお読みになって何らかの情報をお持ちでしたら是非お知らせいただきたく思います
 最後に拙稿を執筆する機会を与えていただいた博物館専門嘱託野口一雄先生、齋藤篤信の祝辞(写)を提供していただいた教育資料館学芸員・青木章二先生、祝辞白文の読み下しに際して助言をいただいた前述の野口、青木の両先生、鶴岡市立郷土資料館の秋保 良さん、資料の提供を頂いた母校同窓会元事務局長渡部慎二さん、事務局の菅原みずえさん(第85回(昭和53年3月卒))、それにご多忙にもかかわらず各種資料を検索し、その全部を提供下さった秋保 良さんには心から御礼申し上げる次第です。
2014年1月24日