─庄内藩の女性たち(3)─第二章 花ノ丸殿母 西田成羽(1)

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 ─庄内藩の女性たち─(3)第二章 花ノ丸殿母 西田成羽(1)
 平成二十四年(2012)九月二十八日、筆者は滋賀県へ旅をした。滋賀県立図書館と大津市立図書館での資料探し、それに甲賀市水口町にある水口城を見たい、という気持があった。水口城は、花ノ丸殿の母親、西田成羽の父・伴兼定が城代をしていたことがある。花ノ丸殿の父親・西田九郎右衛門が仕えたとされる蒲生氏、その出身地日野市の郷土資料館にも行きたかったが、あいにく日程上で無理があった。取材旅行のスタートの前日は大津に泊まったが、琵琶湖に上る月、湖岸を縁取る秋灯の煌めきを眺めたこと、湖に寄せる波音より高くすだく虫の音に耳を澄ませたことが忘れられない。

 花ノ丸殿の母親、西田成羽の出自については@「大泉外戚伝 高源院殿」A「大泉外戚伝 政運公・忠俊公御母堂 高源院殿」B「大泉探求誌」C「御系譜参考 七 忠当条」D「古人家勤書写帳 西田九郎右衛門」に散見される。
最初の二つの史料は「大泉外戚伝」という同じタイトルで、内容は花ノ丸殿のことが中心であるため、そう大きな違いはないものの、@の方は鳴輪(成羽)が「伴長右衛門尉兼定の女(むすめ)」と書かれ、Aの方には「西田九郎右衛門、蒲生家随属の内、数度の攻め合い軍功あり。蒲生家断絶以後、暫らく京師に寓居す」とある。
 Bの「大泉探求誌」には、成羽のことが少し詳しく書かれている。
 「伴長右衛門兼定女(むすめ) 成羽 西田九郎右衛門次去コ 酒井忠当君、同忠俊君の御母堂高源院殿の実母 慶長八年卯年 山崎甲斐守家治主領地、備中国成羽という所において生る。成人の後、蒲生氏郷主に属住せし西田次汲ノ嫁ぎて一女を産む。号て(なづけて)波那(はな)といふ。」
 この史料の内容の検討は後にして、書いてあることのみ、そのまま記した。

 Cの「御系譜参考 七 忠当条」には、西田家、及び成羽の実家の伴家のことが、かなり詳しく載っている。内容が多岐にわたるので、ここでは西田九郎右衛門、成羽、成羽の実家伴家、花ノ丸殿に絞って、書き抜きしてみる。
「政運公(忠当)母君の御事、『信正抄』に(大田忠右衛門が家の伝説の由)言う。蒲生飛騨守殿の家司、西田九郎右衛門は、かの家断絶の後、京都に浪々す。達三様(酒井忠勝)京都にて、西田が妹を召し出され、花ノ丸殿と称す(高田の郭の名なるべし)。(中略)
 (成羽の)実父伴長右衛門兼定とて、江州甲賀の士也。その先祖、孫九郎(後、長右衛門)が新田義興を三雲より田木まで送り届ける時、義興が与えたる祝着の状、今以て伴幸右衛門が家に所持なり。其孫九郎が子孫、伴長右衛門兼次まで代々江州かる(か?)あらといふ所に住す。然るに長束大蔵太輔正家は兼次が姉婿なりしかば、水口へ招きて城代とす(正家は江州水口六万石の城主なり)。長束、関ヶ原没落以後、兼次は山崎甲斐殿に仕ふ(雄按、山崎甲斐守家治ハ讃洲丸亀五万石の城主なり)。」

 D「古人家勤書写帳 西田九郎右衛門」には、伴家と西田家の由来が述べてある。 「右、九郎右衛門儀、本国近江、郷洲(近江)西田村に住居仕り候、右、九郎右衛門親、伴九郎四郎儀、兄、伴九兵衛尉方より江州(近江国)西田、深瀬両所にて一万石分知配当仕り罷り在り候。その後、蒲生家に属し罷り在り候処、かの家断絶について、その後京都に蟄居仕り候」

 これら史料に共通していることは、西田九郎右衛門が、蒲生家に仕えたこと、蒲生家断絶後、京都に住まいしたことである。花ノ丸殿が、西田九郎右衛門の妹か、成羽との間に生まれた娘か、という点については考察の余地があるのだが、総合的に判断して筆者は西田成羽の実子説を採るものである。この点については今後も考察する機会があろう。  史料のC、Dでは、伴九郎右衛門は江州甲賀の武士で、西田九郎右衛門の親に当たる人は、伴家から領地を分けて貰って、西田と称して独立した、と読めるのである。つまり、伴家と西田家は、元々同族であったと言えよう。

 まずは、西田成羽の実家の伴氏の来歴をひもといてみたい。 伴家は江州「かるあら」、もしくは「かかあら」という場所に住んでいたと言う。「かるあら」は甲賀のことであろうか。「甲賀郡志」によれば、「大伴氏の一族で伴谷を本拠とした甲賀の名族」とされていて、かつ「一族諸国に散見して孫流多し」ともある。 大伴氏の一族となると、古代史まで遡らなければならないので、近江古武士の伴家という地点から始めよう。「甲賀町史 通史編」によれば、「甲賀武士の発生については、平安末期ころ既に山中氏、伴氏などは荘園の下士・公文として武士化しており」とあり、やがて「郡惣中」と呼ばれる連合組織へ発展していく。中世から近世へかけての近江の歴史は、それだけでも大変面白いのだが、先へ進みたい。

 甲賀の有力武士の伴家は、軍事力と共に婚姻関係でも、政治力を維持していた。史料 Cに見る戦国大名・長束正家に伴家の女性が嫁いでいた関係から、伴兼次(伴兼定か?)は水口(岡山)城の城代となった。この史料では、伴兼次と兼定が混同されているフシが見えるが、伴家の家系図(抄)では、「伴兼次 孫九郎、後、九兵衛尉ト改。後、浅井長政滅亡ノ節、織田信長ノタメ領地退転ス、入道シテ宗久ト改。山城国小山ニ閑居。九十九歳デ卒。」とある。伴兼次は、浅井家とも縁故があったらしい。
   一方、伴兼定は伴兼次の息子で、「長右衛門尉。老後、宗斎ト云。慶長五年(1600)、 水口城代。」この人物が成羽の父親と思われる。伴兼定が仕えた長束正家は豊臣秀吉の五奉行の一人であった。
 長束正家(なづかまさいえ)は、「三百藩藩主事典」(新人物往来社)によれば、「永禄五年(1652)に栗東郡長束で生まれたという。『近江人物志』などでは、生年も父も不詳である。初名は利兵衛といった。算術に優れていたと言われる。豊臣秀吉の武将丹羽長秀に仕えて巨万の富をなしたので、秀吉に認められ一万石を与えられて、郡や国の貢賦租税会計をした。累進して、従五位下、大蔵大輔に叙任された。天正十八年に秀吉が小田原の北条氏を攻めたとき、食料輸送の任に付き、朝鮮の役にも参加した。」
 これをみるに、長束正家は武将と言うより、優秀な大蔵官僚というところだろうか。彼の迷走が始まったのは、秀吉の死からだった。
 「秀吉が死に、秀頼が立つに及んで、正家は家康に親しく近づき、石田三成の奸謀を家康に密告した。しかし、石田、増田、浅野長政、前田玄以らと豊臣政権の五奉行であったため、思慮定まらず三成にも通じ、慶長五年八月には長宗我部盛親らと、安濃津城を攻め。羽柴雄利らと兵を進めて塔世山に陣し、宮田知信と争った。関ヶ原の役では、西軍に加わって敗れ、正家は急いで水口城へ帰った。」(同上)
 この時、伴兼定はどうしていたのか気になるが、城代として水口城を守っていたとも考えられる。
 「東軍の池田輝政およびその弟の長吉らが兵を率いて水口城を攻め、正家に降参するよう勧めたが、応じなかったので、両軍兵火を交えて城が落ちた。弟の伊賀守は自刃し、正家は松尾村に逃れたが、村人がかくまってくれず、蒲生郡桜谷中之郷で自刃した。」(同上)  水口城が落ちた時、伴兼定、その父の兼次、および家族は何とか落ち延びたと思われる。その後、彼らとその一統は、山崎家に仕えるのである。

 筆者が甲賀市水口町を訪れたのは九月二十九日であった。大津から草津まで電車で行き、草津線に乗り換えて貴生川に行く。更に私鉄の近江鉄道に乗り換えて水口を目指した。秋の頃とて、沿線から見える田んぼの畦に、真っ赤な彼岸花が咲き、収穫を終えた稲が地干しにしてあるのが物珍しかった。筆者の住んでいる新潟県では、「はざかけ」といって、大がかりな井桁状の「はざ(稲架)」を組んで干す。故郷の庄内地方では、畦の稲杭に交互に差し込んで干す。遠くから見るとお地蔵さんが立ち並んでいるように見える。この近江の干し方は、稲株を寄せ集め、丸い「にお」風にし、穂先が天を向くようにして、田んぼの上に点々とあった。福井地方はこれを「にお干し」と言うそうだが、この地方はどう呼ぶのだろうか。その土地で違う干し方は、おそらく先祖から伝えられた、その土地に最も適した方法なのだろう。稲の干し方に往時を偲ぶことができるのも、実際に旅することの利点である。
 さて、水口町に着いて、水口城跡にある「水口城資料館」を訪れた筆者は、自分の知識の浅さに遭遇した。と言うより、時の流れの中で、関ヶ原合戦当時水口城と呼ばれていた城は、実は山城で、今は水口岡山城と呼ばれ、筆者が訪れた水口城は、徳川幕藩体制が整って以後、将軍の宿泊施設として使われた城だったのである。こうしたことも、現地を訪れると明確に分かる。
 「水口岡山城はここから見えますか?」
という私の質問に、資料館の女性は窓から彼方に見える低い山を指さして、
 「あそこです。今は跡地だけですが」
 その山に登る時間的余裕はなかったものの、城代だった伴兼定はあの小高い城にいて、家族はその麓の家臣団屋敷に住んでいたらしいので、往古を思う時間を持つことができた。

 ところで、麓の家臣団屋敷に幼い成羽はいたのであろうか。こう書くと、注意深い読者は「Bの『大泉探求誌』に、成羽の出生年は慶長八年とあったではないか、慶長五年の関ヶ原合戦当時、まだ生まれているはずはない」とおっしゃるであろう。そう、成羽の生まれた年は「慶長八年卯年 山崎甲斐守家治主領地、備中国成羽という所において生る。」と書いてある。しかし、筆者はこの点に関しては、疑問符をつけたい。
 そもそも山崎甲斐守家治が、大坂冬、夏の陣で殊功を立て、今の岡山県備中成羽三万石の城主となったのは、元和三年(1617)七月のことであった。十四年前の慶長八年当時、山崎家は家治の父・家盛時代で因幡国(鳥取)若桜藩三万石の主であった。「大泉探求誌」のこの部分の叙述には明らかな錯誤がある。
 慶長八年に成羽が生まれたとすると、十四年後の元和三年の八月五日、越後高田城で花ノ丸殿が酒井忠勝の第一子、忠当を出産しているので、母親成羽が十四歳、娘花ノ丸殿が同年かもう少し上となり、全くあり得ることではない。もし花ノ丸殿が、西田九郎右衛門の妹ではあっても、成羽の娘ではないと仮定すると、この生誕日にも一片の信憑性が生じるが、山崎家の件といい、あまり信用はおけないのである。それに、成羽が「花ノ丸殿 はな」を生んだとした方が理解可能な状況が、後の「後花ノ丸殿召し出し」の時に見られる。それは、いずれ語りたい。しかし、この「探求誌」での「備中国成羽」という地名は、「成羽」の名の由来として、示唆に富んでいる。彼女が元々成羽という名前だったかどうかも不明である。この時代、生まれた女子に最初から漢字で、しかも三音の「成羽」などと命名するだろうか。例えば「とよ」とか「きく」などの二音の名前が普通ではないのか。
 思うに「成羽 鳴輪 なりわ」という三音の名前は、改まった御殿仕え風になることに注目したい。以下は筆者の仮説であるが、越後高田で第一子を生んだ花ノ丸殿の元へ、「成羽」は赴くことになったのではなかろうか。その時、「とよ」や「きく」ではなく、「成羽」としたのは、彼女が直前までそこに住んでいて「成羽から来た」からか、「父親が成羽藩士」ということで「成羽」と命名された可能性があるのではないかと、筆者は考えている。例えば「吉田殿」「碓井姫」のように、地名を以て人の名や、呼称とすることは、珍しくはないのである。
少し先を急いでしまった。次回は、成羽の夫の西田家について考察する。
  (続く)
 
2014年2月1日