明治初期の鶴岡における「大区小区制」について
1 「戸籍法」(府藩県一般戸籍ノ法)の制定趣旨≫
過日投稿した『明治期における宮城前広場(現皇居外苑)の整備について』(平成26年1月6日投稿)において「大区小区制」について触れたが、今回はこの「大区小区制」について調べてみたことを報告してみたいと思う。
明治政府は全国一律の戸籍を作るため、1871年(明治4)4月4日(5月22日)付け太政官布告第170号で「戸籍法」を公布し、戸籍編成の単位として「戸籍区」を置き、戸籍吏員として官選の「戸長」と「副戸長」を置くことを各府県に対して命じ(注1)、同法の施行を翌1872年(明治5)2月1日とした。法の制定が壬申(じんしん、みずのとさる)の年であったため、この戸籍法は別名「壬申戸籍(じんしんこせき)」とも呼ばれる。「戸籍法」が公布された1871年は、7月に「廃藩置県」により、庄内藩改め「大泉藩」が「大泉県」に、更に、11月には、「大泉県」が「酒田県(第2次」)になった年でもある。
「戸籍法」の目的は、その前文で述べているように国政遂行の基本要件として、まず「戸数人員を詳らかにする」ことにあった。そして、法律の実施上の必要性から全国に「区」という新しい行政区域を制定し、また、戸籍事務を遂行する地方行政機関として「戸長・副戸長」(注1)を創設した(第一則)。このことはそれまで手を付けられていなかった町村行政に改革をもたらし、結果から見れば、明治の地方制度に大きな影響を与えることになった。特に、戸長、副戸長がこの後まもなく単なる戸籍吏から「土地人民に関係する一切」を担う地方行政機関に転化した意義は大きいといわれている(亀掛川浩『明治地方自治制度の成立過程』)。ただ、1871年(明治4)8月28日太政官布告第61号「穢多非人等賤称廃止令(賤民廃止令)が布達されたにもかかわらず、この戸籍には「元○○」や『元▲▲』などと記載されたものもあり、封建制度における身分差別を温存するものでもあったために、その後、職業選択や結婚等において差別を生じる事態が生じ、1968年(昭和43)3月29日民事甲第777号法務省局長通達によって、この戸籍は「永久封印保管」されて、現在一般が閲覧することは不可能になっている。
(注1) 第二則に「戸長ハ、長ト副ト二限ルべカラズ」とあり、天童の蔵増村の明治5壬申年8月28日付の『最上川自普請仕候二付御願』という 古文書(野口一雄氏所有)には、1等戸長武田勇右衛門とか1等副戸長野口三之助という役名が見られ、また、類似の書面には、3等副戸長なる役名も出てくる。
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2 「戸籍区」の改称によって生じた「大区小区制」
当初、「戸籍法」では、「戸長」の任命については、従来の町・村役人の兼務でも別任命でも、それは各地方に委ねるとしたため、各地でその取り扱いが一定せず、旧来の町・村役人とは別に「戸長」を任命したところでは、両者間で地方の諸務の主宰を争うという問題が頻発した。更に、彼らの月給や事務経費などは住民の負担であり、経費がかさむという問題も生じ、従って、地方事務の一本化を図る必要が生じていた。
そこで、この「戸長」、「副戸長」と従来の名主、庄屋、年寄等の町村役人との間に起きる権限の競合を無くするため、1872年(明治5)4月9日(5月15日)付け太政官布告第17号をもって、先の「戸籍区」を「大区」と改称し、その下に旧来の町村を幾つかに纏めて「小区」を置き、「大区」には「区長」、「副区長」を、「小区」には「戸長」、「副戸長」を置くことにした。これがいわゆる「大区小区制」という地方行政制度の誕生である。
これについての政府の当初の考え方は、「戸籍法」に基づく「戸長」、「副戸長」を廃止したうえで、既に地方に設置されていた「大区、小区」を容認して、「大区」に「区長」、「小区」に「副区長」を置き、町・村には旧来の町・村役人を改称した「戸長・副戸長」を置くとするものであったが(福島正夫・徳田良治『明治初年の町村会』『地租と地方自治制』)、前述のように地方でその運用に混乱が生じていたので、これを解消するため、1872年(明治5)10月10日に大蔵省から布達第164号を出すことにより、「戸籍法」によって創出された「戸籍区」は法的に「大区小区」としてその体制を整えることを狙ったものである。ただ、「小区」の設置については、10月10日の大蔵省布達によって認められたとされているが、(亀川浩『明治地方自治制度の成立過程』)、実際は全国各地で既設置の「大区小区」を政府が追認したにすぎない。そのことは次のような大蔵省の書面からも読みとることができる。
庄屋名主年寄等改称ノ儀二付等4月中御布告ノ趣モ有之候処、右二付テハ一区総括ノ者無之、事務差支ノ次第も有之哉二付、各地方土地ノ便宜二因リ、一区二区長一人、小区二副区長尚差置候儀ハ不苦候(クルシカラズソウロウ) |
3 「大区小区制」導入の意図
最初に挙げられるのは「政策的配慮」である。すなわち、戸籍作成のみならず、徴兵制の実施(「徴兵令」(1873年(明治6))、学校の設立(「教育法令」(1872年(明治5))、地租改正(「地租改正令」(1873年(明治6))の前提としての地券発行(1872年(明治5)等、「戸長」の行政事務はますます多端となり、「県」と「区」だけの二段階行政区画では対応しきれなくなっており、全国的に地方では、実質「大区」及び「小区」の考え方で事務を実施していたことから、政府も県の行政事務を補佐し、行政の末端である「小区」を監督する「大区」設置の必要性を実感していたものである。町や村に置かれた「戸長」の業務は、次のようなものであった。
@政令の布達と施行、村民への解説、A戸籍調査、人口増減と牛馬数調査、B正租、雑税の徴収、C郷校(学校)の開設と啓蒙、D孝子徳行者(注2)及び窮民の状況調査、E風紀の監督、矯正、F火災、水害時の救助、G荒蕪地の開墾と植栽、H堤防の修築,I村役人の監察、J郡村入明細の記帳 (注2))「孝子」は「こうし」と読み、父母によく仕える子供のことをいい、「徳行者」は、「とつこうしゃ」と読み、真心のこもった良い行いをする人のことをいう。 |
次に地理的、財政的配慮があった。つまり、戸数及び石高を出来るだけ平均化するとともに多端な行政事務の負担に応じ得る財政能力のある地方行政区画を編成する目的があった。この大区小区の改編は、内務卿大久保利通に提出された「大区画合併及び大小区長職制章程(規則、法式を箇条書きにしたもののことである。)等ノ儀に付伺」によるもので、方針としては、従来の郡ごとに一大区を置き、「事務取扱来候処、実際不都合ノ廉不尠(フツゴウノカドスクナカラズ)候二付熟慮の上改編スル」というものであったが、前述のように全国で既に設置のものが政府によって公認されただけである。
4 鶴岡における「大区小区制」
前述の通り、1871年(明治4)7月、廃藩置県が行われ、庄内藩主酒井忠宝(さかい ただとみ)は藩知事を免ぜられて、大泉藩は大泉県となり、同年11月酒田県(第2次)が置かれ、庄内三郡を管轄することになった。参事松平親懐(まつだいら ちかひろ)、権参事菅実秀(すげ さねひで)以下県の官吏は皆庄内藩士であった。廃藩置県当時全国3府72県のうち旧藩の人間で官吏を占めたのは、鹿児島県(薩摩)、山口県(長州)、高知県(土佐)、伊万里県(肥前)、それに酒田県(第2次)(庄内⇒大泉)のみであったが、酒田県(第2次)の管轄区域は次の通りである。
@本庁管轄の地・・・・・酒田、遊佐郷、荒瀬郷、平田郷,狩川通、中川通,京田通 A鶴岡支庁管轄の地・・・鶴岡、櫛引通、山浜通
B松嶺出張所管轄の地・・元松嶺県管下
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1872年(明治5)10月の第二次酒田県では11の大区と30の小区に分けられ、大区に「区長」(官選)、小区に「戸長」(官選)を置き、先に説明したように政令の布達の徹底、戸籍、租税、徴兵、小学校設置等国の行政事務を担当し、住民を統治した。旧藩の「通」(11区)、「郷」(30区)を「大区」に、数組村を「小区」とし、旧代官や大庄屋を区長・戸長に任命し、各村には旧藩の「肝煎」、「村役人」が留任して村を統治した。そして、酒田県(第二次)では戸長の職務に関して次のような「戸長心得」を各戸長に対して通達した。
戸長心得
一、 各区扱所江日々出頭一切之区用右扱所ニ於テ取扱候事
但定式ノ休暇日等都テ県庁ヲ振ニ倣フヘキ事
一、 一大区中一人ツゝ其区戸長惣代トシテ酒田江相詰メ日々出庁之事
但臨時御用ハ此限ニアラス
一、 惣而清廉ヲ旨トシ区内之事務ヲ担当シ村長ノ勤惰ヲ監視シ各村ノ入費ヲ可A成丈ケ相省@営
勧農ノ方法ヲ精々注意可B致事
一、 上令下布聊淹滞ナク下情上達毫モ抑蔽スルナキヲ専務トスヘキ事
但小民等上令解シ兼候儀モ有之候ハ、諄々申諭趣意貫徹候様厚注意可B致事 一、 願伺等ノ書面江証判奥書等申出候節ハ聊無A遅滞@速二可A差出@事
但其内筋違ト見認候願伺ハ懇篤申聞セ夫トモ強テ申出候ハ、右書面江見込之次第添書ヲ致
シ為A差出@候事
一、 区内取締向別シテ注意致シ見込之次第有B之候ハ、申し出可B受A指令@事
一、 区入費課出方之儀定額アル分ノ外臨時課出之節ハ伺ノ上可A取計@惣シテ許可ヲ得スシテ
課出方一切不A相成@事
一、 酒田詰ヲ始メ巡廻出張等之旅費日当今般想定候ニ付テハ右ヲ以自分限取賄可B申従前之賄
判帳ヲ以民費課出之仕法ハ以来廃止候事
但旅費日当定額不日可A相達@事
一、 区内孝子義僕貞婦ノ賞誉及鰥寡孤独癈疾ニシテ救恤可A相成@者等其事実ヲ詳ニシテ可A
伺出@事
一、 徴兵戸籍並小学校施設ノ義ハ即今急務之調ニ付下民ヲ誘導シ精々尽力不A取調@無B之
様厚注意可B致事
一、 河港道路之便否橋梁ノ修築等致A注意@時々見廻リ明鮮ニ取調可A申出@事
一、 村長差替新規人撰之義一村限入札為B致高札之者ヲ以テ可A申伺@事
一、 旧戸長ヨリ前々公用帳簿請取一切引渡相済候ハ,可A届出@事
一、 村長ニテ取扱ノ諸仕払月々取扱所ニ於テ取調置6月12月両度に諸務課へ可A差出@事
但民費課出区内ノ入費ハ1ケ年明鮮詳ニ取調一村毎ニ可A触示@之事
一、 用掛計算掛心得別紙之通相達候得共事務整頓ハ専ラ其責戸長にアルへキ事
一、 勤年数満5年ヲ期限トス右者為A心得@申達候也
明治8年2月19日
酒 田 県
(注)@は下付き(一)、Aは下付き(二)、Bは下付き(レ)がそれぞれ入る。 |
酒田県(第二次)における大区小区を纏めると次のようになる。
《大区小区(現鶴岡市管内)の変遷》
年月(県 名) |
大区 |
旧 通 |
小 区 |
旧 組 名 ・ 町 名 |
明治5年10月 (第2次酒田県) |
1 |
山 浜 |
1 |
鼠ケ関・田川・小名部 |
2 |
温海・三瀬 |
3 |
淀川・由良 |
2 |
櫛 引 |
4 |
清竜寺・本郷・田沢 |
5 |
黒川 |
6 |
嶋 |
3 |
鶴 岡 |
7 |
番田、裏番田、新整町、同三軒屋敷、畑町、八日町、鍛冶町、坂ノ上、安国寺前、八ツ興屋、大工町、四ツ興屋、同新地、下リ町、新町、金注連、大山街道、同片町、万年橋、内川端、元曲師町、家中新町、同百間堀端、同経蔵小路、同鍛冶町口、同伊予様小路、同渋紙小路、同大山街道口、馬場町三日町口、同五日町口、同十日町口、馬場町、御小姓町、鷹匠町、同七ツ蔵脇小路、裏鷹匠町、上肴町、田元小路,稲荷小路 |
8 |
新シ町、小舞台、漆畑、天神町、同裏町、十日町東、十日町、二百人町、同仲町、十三軒町、七軒町、南新屋敷、南町、一日市町、御坊橋、光明寺小路、七日町、新地、寺小路、東島、筬橋、檜物町、西嶋、白銀町 |
9 |
根木橋、紙漉町、同横町、御中間町、天王前御徒町、三日町、紙漉町新地、金谷小路、新船渡町、五日町片町、五日町、八間町東、八間町、下肴町、船渡町、田中町 |
10 |
鳥居町河原端、同御徒町、同御徒町横町、同裏町、同矢場小路、同餌刺小路、与力町、新与力町、荒町、同裏町、長山小路、薬湯小路、御持筒町、大蔵小路、仲道、同横山街道般若寺前、六軒小路、高町、新山小路、高畑裏町、矢場小路、最上町、同横山街道、蓮乗寺前新地、元長泉寺前、代官町、新山下、高畑町、新屋敷、同裏町、東新屋敷、同一番町、同二番町、同三番町、同四番町、同裏四番町、同五番町、同六番町、同仲町 |
4 |
京 田 |
11 |
京田 |
12 |
大山 |
13 |
西郷・加茂 |
5 |
中 川 |
14 |
横山・押切 |
15 |
荒川・藤島・長沼 |
6 |
狩 川 |
18 |
添川・増川 |
明治8年2月 (第2次酒田県) |
1 |
山 浜・ 京 田 |
1 |
鼠ヶ関・温海 |
2 |
田川・小名部 |
3 |
淀川・由良・三瀬 |
4 |
加茂(湯野浜村を大山組へ) |
5 |
西郷(大山組から下川村他3ケ村入) |
6 |
大山(西郷組から菱津村他9ケ村入) |
7 |
京田 |
2 |
鶴 岡 |
1 |
明治5年10月時点と同じ。戸長 竹内右膳 |
2 |
同上 戸長 高橋義達 |
3 |
同上 戸長 服部民郷 |
4 |
同上 戸長 安藤武吉 |
3 |
櫛 引・ 中 川 |
1 |
清竜寺・嶋 |
2 |
本郷・田沢 |
3 |
黒川 |
4 |
荒川・藤島 |
5 |
横山 |
6 |
長沼・押切 |
4 |
狩 川 |
4 |
添川・増川 |
明治9年10月 (山形県)) |
6 |
藤 島 |
1〜11 |
東田川郡の大部分 |
7 |
鶴 岡 |
1〜11 |
西田川郡一帯 |
(出展:『鶴岡市史上巻』373頁及び『図説 鶴岡のあゆみ』131頁)
1874年(明治7)12月、教部大丞三島通庸が酒田県令を兼任し、翌1875年(明治8)2月、大区小区制の改正が行われて、上記の表のように、酒田県は6大区と33小区に分けられ、鶴岡は、第2区となりその中は4小区になったが、大区番号を変更しただけで小区の中味は当初と変わりなかった。三島酒田県令は、上記の新大区小区制制定の際、戸長には中堅士族を起用し、前戸長(旧大庄屋)を戸長の下の「用掛」に任命して統治の強化を図ったのである。また、肝煎を廃止し、入札(投票)による村長選選出を行ったが、公選では伝統的村落社会の秩序を壊すと考えられたのか、1876年(明治9)6月には廃止され、村長の人選は、正副戸長に委された。
1875年(明治8)8月に酒田県(第二次)は鶴岡県となり、県庁も酒田から鶴岡へと移るが、翌1876年(明治9)8月21日には、山形・置賜・鶴岡県の3県が統一され、ここに現在の山形県が誕生する。そして、「大区小区制」は、県全体で大区が10区、小区が300区になったが、庄内では、酒田に区務所を置く第5大区、藤島に区務所を置く第6大区、鶴岡に区務所を置く第7大区に分けられた。そして、12月20日には第5、第6、第7大区を統括する支庁が鶴岡に置かれた。また、この年次の通り鶴岡の町名変更があった。
旧 町 名 |
新 町 名 |
旧 町 名 |
新 町 名 |
御小姓町 |
若葉町 |
鳥居河原御徒町 |
鳥居河原緑町 |
御坊橋 |
真澄町 |
鳥居河原御徒町横町 |
鳥居河原緑町横町 |
曲師町 |
檜物町 |
鳥居河原御徒町裏町 |
鳥居河原緑町裏町 |
御中間町 |
栄町 |
御持筒町 |
宝町 |
天王前御徒町 |
八坂町 |
田中町を八間町に統合 |
鳥居河原御徒町横町 |
区長、戸長はすべて県庁の人選で任命されて県役人となり、町・村の長は区長、戸長の人選となり、1876年(明治9)12月には、村長、長人を廃止し、「里正(りせい)」、「保正(ほせい)」を置くこととし、翌1877年(明治10)1月に選任した。更に、1878年(明治11)1月には理正,保正を廃止し、同年3月には「差配」と改称した。このような情勢の中で、村長は村寄合いや村惣代人制を生かし、村民らの意向を戸長、区長、県に要望した。
なお、第6大区区務所では、1877年(明治10)2月に 次のような「理正保正之心得」を定めている。
第1条 諸規則ヲ尊奉シ人民犯罪無之様厚ク論説致スベシ
第2条 緒御布告ヲ下達シ速ニ人民熟知致様臨時寄合等之節尚更可B及A説論@事
第3条 諸上納金並日限調物等総テ延滞ナク上達可B致事
第4条 人民願伺届等速ニ取次候儀ハ勿論之処其事情ト書面不都合無B之様調理之上加印致スベ シ
第5条 受持村内遊情無頼ニシテ家業ヲ怠ルモノアラバ懇々教諭ヲ加家屋ヲ起シ老幼等快ク養育 スベシ
第6条 満6歳以上ノ子供従学セザルアラバ父兄ヲ督責シテ入校致サスベシ
第7条 男子25歳以上女子20歳ニ至リ無B謂無妻又ハ嫁セザル者アラバ親類及近隣之者ニテ媒酌 致曠夫怨女等無B之様可B致畢竟淫乱之基ハ男女共イツ迄モ配偶ヲ得サルニ起原スル 者多ク有B之候事
第8条 空野並耕宅地之畦畔等ニテ敢テ他之障害碍ニモ不A相成@不毛地アラハ桑茶楮?等植附物 産繁殖方奨励致スベシ
第9条 山林繁茂方ハ最モ厚ク注意致シ伐木跡植附等無B怠督促スベシ
第10条 薩摩芋並唐?之類ハ民食之一助ニ相成土地ノ寒暖ニ不B係出産スルモノニ付山間之村落 等別テ植附方誘可B申事
第11条 官山林守衛ハ該村民之義務ニ付聊不締無B之様厚注意致スベシ
第12条 官山林立木雪折風倒等ニテ枯木ニ相成候分ハ字地名木数尺廻リ等調届出ベシ
第13条 街道掃除受持丁場ハ勿論村道作場路ニ至ル迄無A油断@修繕ヲ加諸人之通行及物品運 送之便ナラシムベシ
第14条 道路等ニテ往来諸人病災ニ係ル者アラバ薬用食事等心ヲ附区務所及最寄警察出張所エ届 出可B受A指図@事
第15条 一家内ハ勿論一村ム睦シク近鱗之交際尚更厚ク若シ非常之災害等ニ掛ルモノアラバ相互 ニ相救助シテ人タル道ヲ尽サスベキ事
第16条 該村在来之諸帳簿及共有諸機器等ハ旧村長ヨリ目録諸ヲ以受取後紛了不B致様可A 取扱@事右ケ条外ト雖モ従来之弊習ヲ革ムル歟又公益上ニ関スル事件等ハ該村人民協 議之上従来之方法等親シク戸長ニ申立処分ヲ受候様ト可A相心得@事
(注)@は下付き(一)、Aは下付き(二)、Bは下付き(レ)がそれぞれ入る。
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参考までに大区小区制当時の申請文書等を1、2例紹介すると次のようなものがある。
(例1)菓子屋営業申請書と免許鑑札(武田傳右衛門家資料623−6348)
菓子営業之儀
私儀今般菓子屋営業仕度奉り候、尤税金之儀者御規則之通上納仕候二付何卒御下度,此段奉願候也
山形県下羽全国村山郡第一大区一小区八日町武田傳右衛門(印)
里正所労二付代理 右町保正小林誓兵衛(印) 戸長 俣野景洲 (印) 明治10年(1877)2月7日
山形県令三島通庸代理 山形県大書記 薄井龍之 殿
【別筆跡にて】
書面願之趣聞届候条書ヲ以鑑札受け取り方大区区役所ヘ可申出来事
但手数料五銭即納可致事
[鑑札表]
明治10年2月9日
菓子屋 免許鑑札
第1大区1小区
八日町 武田傳右衛 |
裏に「第7666号 山形県庁印」とある。 (例2)理正及び保正の人数と俸給(『白鷹町史』(第6章近代、第2節行政の変遷))第6表12小区10ケ村の理正と保正の員数及び年給
村 名 |
理正・人 |
年給・円 |
保正・人名 |
年給・円 |
村 名 |
理正・人 |
年給・円 |
保正・人 |
年給・円 |
鮎 貝 |
2 |
48 |
2 |
24 |
深 山 |
1 |
48 |
1 |
12 |
田 尻 |
1 |
48 |
1 |
18 |
黒 鴨 |
1 |
48 |
1 |
12 |
横 越 |
1 |
48 |
1 |
18 |
栃 窪 |
1 |
48 |
- |
- |
高 玉 |
2 |
50 |
2 |
24 |
蓑 田 高 田 |
2 |
48 |
2 |
24 |
山 口 |
2 |
50 |
2 |
24 |
|
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5 「郡区町村編製法」の制定と「組合戸長役場」
「大区小区制」は、旧来の地域の実態に関係なく設定された例が多く、全国的に不評であったところから1878年(明治11)7月22日、太政官布告第17号をもって、「大区小区制」を改め、住民の政治参加を一応認めて、旧来の「村」を復活し、単なる地名にすぎなかった「郡」を行政区画とする「郡区町村編成法」が公布された。
山形県では、村山を東西南北の4郡に、置賜を東西南の3郡に、田川を東西2郡に、飽海と最上はそれぞれ1郡とし、合計11郡とした。郡には郡役所が置かれ、大区の代わりとなった。鶴岡には「西田川郡役所」、藤島には「東田川郡役所」が開設され、それぞれの郡長には氏家直綱(旧庄内藩士で藩校の句読師)、木村順蔵(新潟県出身)が任命された。なお、「郡区町村編成法」のほか同日付太政官布告第18号で「府県会規則」、同じく太政官布告第19号で「地方税規則」が制定されたが、この三つの布告を「三新法」といい、明治政府最初の統一的地方制度に関する法制度であった。
鶴岡は明治9年の地租改正の時、従来の各町を合わせて鶴岡町と称されるようになったが、「郡区町村編成法」により前述の「西田川郡」の中に入れられた。郡内は従来の村を行政単位として再組織され、新たに「組合戸長役場」が置かれたが、鶴岡町には、次のように13の「組合戸長役場」(104ケ町)が置かれた。
@馬場町(18ケ町、戸長:関正行)、A新町(10ケ町、戸長:三浦正義)、B上肴町(6ケ町、戸長:小野寺幸右衛門)、C七日町(3ケ町、戸長:野坂清右衛門)、D銀町(6ケ町、戸長:山口弘毅)、E二百人町(@1ケ町、戸長:田口幸吉)、F十日町(5ケ町、戸長中村重光)、G三日町(4ケ町、戸長:加藤重郷)、H根木橋(7ケ町、戸長:矢作時円)、I五日町(4ケ町、戸長:山口弘茂)、J与力町(@2ケ町、戸長:鈴木保定)、K宝町(9ケ町、戸長:川内金平)、L新屋敷町(9ケ町、戸長:高橋正直) |
明治13年12月3日、鶴岡の上記13組合戸長役場に属していた104の町を次表のとおり40に統合整理したのであるが、今では消えてしまった懐かしい町名が随所に見られる。
新町名 |
旧 町 名 |
新町名 |
旧 町 名 |
馬場町 |
馬場町、馬場町十日町口、同三日町口、同五日町口 |
十日町 |
十日町、十日町東 |
若葉町 |
御小姓町、広小路 |
天神町 |
天神町、天神町裏町 |
鷹匠町 |
鷹匠町、同裏町、同七ツ蔵脇小路 |
新士町 |
新し町、小舞台、漆畑 |
家中新町 |
家中新町、同渋紙小路、同伊予様小路、同経蔵小路、同鍛冶町口通、同大山街道口、同百間堀端 |
三日町 |
三日町、金谷小路 |
大海町 |
大山街道、同片町、同下り町、同金注連、同八つ興屋 |
八坂町 |
八坂町,天王前、紙漉町新地 |
新町 |
新町、安國寺前 |
五日町 |
五日町 |
幸町 |
大工町、四つ興屋、同新地 |
栄町 |
栄町、五日町肩町、船渡町 |
上肴町 |
上肴町、田元小路、稲荷小路 |
紙漉町 |
紙漉町、紙漉町横町、紙漉町新地 |
元曲師町 |
元曲師町、内川端 |
下肴町 |
下肴町 |
鍛冶町 |
鍛冶町、坂の上 |
八間町 |
八間町、八間町東 |
七日町 |
七日町、寺小路の内(20番より)、光明寺小路 |
荒町 |
荒町 |
銀町 |
銀町 |
与力町 |
与力町、長山小路、荒町裏、薬湯小路、新与力町 |
吉住町 |
新地、寺小路の内(1番より19番まで) |
鳥居町 |
鳥居河原緑町、同横町、同裏町、同矢場小路、同餌刺町、同川端通 |
賀島町 |
東島、西嶋 |
宝町 |
宝町、枡形、中道、大内蔵小路 |
南町 |
南町 |
泉町 |
代官町、元長泉寺前、新山下 |
七軒町 |
七軒町、南新屋敷町 |
高畑町 |
高畑、同裏町、新山小路、矢場小路、最上町横町 |
十三軒町 |
十三軒町 |
高町 |
高町 |
二百人町 |
二百人町、同中町 |
新屋敷町 |
新屋敷表町、同裏町 |
檜物町 |
檜物町、筬橋 |
最上町 |
最上町、同横山街道、蓮乗寺前新地、般若寺裏 |
一日市町 |
一日市町、十日町東 |
日和町 |
六軒小路、般若寺前 |
明治17年5月、戸長所管区域の拡大が実施され、鶴岡の13「組合戸長役場」は6つの「組合戸長役場」に整理統合された。 >
役場名 |
戸 長 名 |
所 管 区 域 |
馬場町 |
高橋 義達(士族600石) |
馬場町、若葉町、家中新町、鷹匠町、新屋敷町、
高畑町、泉町、最上町 |
鍛冶町 |
納 青五郎(士族100石) |
鍛冶町、大海町、新町、幸町、上肴町、元曲師町 |
七日町 |
疋田 正寧(士族15人扶持) |
七日町、檜物町、銀町、賀島町、吉住町、南町、
一日市町 |
天神町 |
三宅 弁治(士族100石) |
天神町、七軒町、二百人町、十三軒町、紙漉町、
栄町、新士町 |
三日町 |
鈴木 保定(士族17石2人扶持) |
三日町、十日町、八坂町、五日町、下肴町 |
荒 町 |
三浦 信彰(士族1代禄5石2人扶持) |
荒町、与力町、鳥居町,日和町、高町、宝町 |
6 市制町村制の施行
明治22年4月1日に「市制町村制」が施行され、山形県下では、人口29,591人の米沢と人口29,0192人の山形がそれぞれ市になったが、鶴岡は、人口19,562人で3番目であったが、市の誕生は、大正13年10月1日まで待つことになる。
なお、市制・町村制以前の山形県には、270の町と1,188の村があったが、この法律の施行に当たって合併が行われ、2市8町212村に整理された。
(参考にした図書等)
『山形県の歴史』(誉田慶恩・横山昭男共著、昭和45年9月1日1版1刷発行、(株)山川出版)、『やまがたの歴史』(山形市市史編纂委員会編纂、山形市、昭和55年11月15日発行)、『山形百年』(岩本由輝著、1985年8月20日1版印刷、(株)山川出版)、『図説鶴岡のあゆみ』(鶴岡市史編纂会、2011年3月1日、鶴岡市)、『山形県の明治・大正・昭和』(横山昭男著平成23年、7月1日初版発行、みちのく書房)、『鶴岡市史』(東京大学名誉教授伊東多三郎監修、大瀬欣哉・齋藤正一・佐藤誠朗編纂執筆、昭和50年2月1日鶴岡市発行)、『山形県管内大区小区別一覧』(明治11年1月新刻、山形書林 有斐堂蔵)、『明治地方自治制度の成立過程』(亀掛川浩)、『明治初年の町村会』・『地租と地方自治制』(福島正夫・徳田良治)
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