われらの大先輩 大平(おおひら)ヘ介(ていすけ)さん

64回(昭和32年卒) 庄司 英樹
 
●われらの大先輩 大平(おおひら)ヘ介(ていすけ)さん
 山形鶴翔同窓会の佐藤新一前会長(元荘内銀行常務 49回・昭和16年卒)、庄内会の小林茂實会長(元県出納長 酒田市出身)とお話する機会があるとお二人とも大平驩さんの名前をあげて「絶えず母校や庄内のことを気にかけて、当時内陸では数少ない庄内の後輩や師範学校の学生の面倒を見る集いを開いておられた」という。
   同窓会会員名簿の母校創立記念日のページに「現代の風潮とマスコミの実態」と題して大 平さんが74周年記念(昭和37年)に在校生に講演されたことも記されている。
 大平驩さんは1901年酒田市生れ 荘内中学27回卒(大正8年)、慶応義塾大学卒、報知新聞、サンフランシスコ新世界新聞、ロサンゼルス日米新聞(8年間)を経て、朝日新聞(13年間)の南京支局長から引き揚げて新愛知新聞に招かれたところを、昭和21年に特に請われて山形新聞に迎えられた。編集局長、主筆、山形放送専務、山形美術館常務理事を歴任。
 山形新聞紙上に掲載された「気炎」「日曜随想」を収めた著書「その日 その日」(山形新聞社 昭和54年刊)から母校のことなどの記述を拾ってみると「日曜随想」の『氷雨』でわたしの育んだ作品の中に「エール大学出の荘内中学校長、寶山良雄先生が講じた采根譚訓話」あると一行の記述がある。また『献立は五品』には、嫌いなものだらけのわがまま少年が、中学では家を離れ、始めの一年間を英語教師でクリスチャンの秋葉馬治先生の、そのあと卒業までの四年間を体育の小室善一郎先生のところに寄寓することになって、骨の髄から、心の芯から打ちのめされ叩きなおされ、全く別人のような若者にしていただいたと述べている。
 大正時代のこの頃は、教育者が職場のみならず、自宅にも生徒を預かる風潮があり、経済的に裕福な家庭に寄宿させてもらい、学校に通う習慣があった。歌人・書家で教育者の会津八一は、郷里の新潟から上京した学生や知人の子弟を自宅に塾生としておき、家塾の塾生のための定めとして
「学紀」深くこの生を愛すべし/ 一、省みて己を知るべし/一、学芸を以って性を養うべし/一、日々新面目あるべし
 と掲げ会津八一自身が率先してこの実践に心がけたという。大平さんも寄寓の家族から食べ物の好き嫌いをなくすことから人間教育を受けていたのだろう。
 また、内科医だった父(『触診の温かい手』に三島県令の誘いと東京医学校の先生の推挽に従い山形済生館医師に奉職、明治帝東北ご巡幸の先触れ検分使大久保利通卿が酒田の旅舎で発病、その見舞い医師として山形から派遣され、そのまま町医者として住みついたとある)からはものの食べ方として「何でも23回噛むんだよ」が習い性になった。同じ動作を23回も繰り返す反復、慎重のしからしむところは処世の方法にもしみこんで、遅いけれども堅実を身上とするに至ったとあり、父上の教えが大平さんの健康法と生き方を貫いている。
海外に赴いた経緯については『みな吾が師』でふれている。マーク・トウェンを日本に紹介した英文学者でユーモア作家の草分けともなった佐々木邦先生が慶応予科の英語教授の時に、「君は今まで欠席ばかり。きょうは君から訳読を」と指名され、意味のわからない単語表現があったが、当てずっぽうに訳したら「大平クン名訳ですナ、これぐらい読めるなら、もう私の講義はいらんでしょう。期末テストをさぼっても優をあげます」といわれた。後年、先生が奥さんの里、鶴岡の諏訪家に暫く滞在された時に伺い、昔のその話をし、あの時の先生のひと言に励まされて英語に馴染み、それが、その後の私の人生に濃い影を投げた十年間のアメリカの放浪ともなった因縁を申し上げたとある。
 このほか、『流れゆく』では鶴岡の中学の時、今のように改修されていない青竜寺川へ泳ぎに行ったおり、ひどい蕁麻疹で数時間人事不省に陥ったこと、『ここに果てん』では大正九年に開校の旧制山高第一回生、芳賀幸夫は荘内中学では一級下だが、同じ学校図書室委員で仲がよく、詩人星川清躬・画家勝山恒躬兄弟の医家の隣で、鶴岡市内を流れる内川に面した家には、よく遊びに行った。
 著書「その日 その日」に中学校や生い立ちについての記述は以上のようなものである。
 大平さんは双生児で兄の驪gさんは新荘(現新庄)中学16回卒(大正8年)と別々の中学校に進学している。
 私が入社したのはテレビ開局間もない昭和37年で、当時テレビニュースは放送の記者が撮影・取材していたが、ラジオニュースは山形新聞の編集局に送られてくる新聞原稿をラジオ用に書き直して「山形新聞ニュース」のクレジットで放送する仕組みになっていて、私は数年間山形新聞社に出向いて新聞原稿を放送用にリライトする仕事だった。 このため入社して数年は、大平さんが最上席に座っている編集局に通う毎日だった。新人にとって近寄りがたい存在だったが、庄内弁の名残のある独特のリズムのしゃべり方でニコニコしておられ親しみのある方だった。
 昭和37年に有料道路「蔵王エコーライン」が開通した時に、当時は飛ぶ鳥を落とす勢いの実力者といわれた河野一郎建設大臣(現河野洋平衆議院議長の父)が来県し「土埃が舞い上がるこのような道路で通行料金を徴収することは出来ない。至急舗装するように」と車を降りるとすぐに道路公団幹部に指示したという。
 大平さんは、後藤又衛旅館に宿泊の河野建設大臣に「朝日新聞の後輩です」と夜に挨拶に赴いたところ、浴衣姿でくつろいでいた河野一郎氏は「ちょっと待ってください」と姿を消したという。しばらくしてネクタイを締めてスーツに着替えて現れ後輩の挨拶を受けてくれたのでとても感銘を受けたと編集局員に披露している話を聞くことができた。このエピソードあと、県知事選挙をめぐり自民党県連が分裂した時に、取材に応じた国会議員の浴衣姿の写真を掲載して関係者が処分されたこともあった。
 後になって何かの本で、河野氏はマナーに厳しく、河野番の記者には上下そろいのスーツを着ていないと遊び着の記者は駄目として番記者から外された。毎晩自宅で行われる取材や新年会は、同室で懇談が出来るのは側近の記者だけで、他の番記者は隣の部屋とさらに離れた部屋で待機の三段階に分類されていたという記事を目にしたことがある。
 昭和40年代なってに母校卒業の女性が入社し後輩が数人になると、ご馳走になる機会を設けてくれた。当時、酒田には中学校がないために鶴岡に下宿して荘内中学に通ったこと。土曜日の午後に歩いて酒田まで帰り、日曜日の午後にまた歩いて下宿に戻ったこと。焼き魚を食べた後に頭と骨をまた火であぶり、茶わんにお湯を注いで骨を洗い、醤油を少し入れて飲むスープの美味しかったことなど往時を懐かしんで話してくれたのが記憶に残っている。大平さんは休日には必ずと言っていいほど渓流釣りに出かけ、釣り糸を投げ入れる時に「○○のバカヤロー」と叫んで日頃のうっぷんをはらしているので職場ではいつも笑顔を絶やさないでおられるというのが社内の伝説になっていたが、その真偽を確かめることはとても出来なかった。
 著書「その日 その日」には趣味の山歩きと魚釣りで目にした渓谷の情景が鮮やかに描かれ、交流のあった人々を優しいまなざしでとらえ、ユーモアあふれるエッセイなどリズミカルで簡潔な文章が数多く掲載されている。そこには不条理の世俗を許さぬ、言論人としての真実を追究する姿勢があり、社会正義を貫こうとする透徹した目がある貴重な著書である。
 あとがきに大平さんは「新聞記事というものは、大体はその時きりの読み捨てで事足りるし、あとでそれを読みなおすなどということはめったにない。だからといって生涯を新聞記者として生きてきた自分の仕事のどんな些細な記事にでも、いい加減な態度で臨んだことはない。いかに貧しくとも、そこにはまぎれもない自分自身の姿があった。私は生来リングにあがるファイターではなく、舞台にお目見えする役者でもなく、蔭からそれを支えるセカンドであり裏方であった。それが自分に叶った生き方であると観じてきた。庶民の良心を目あてとして、平俗な言葉でみんなと語り合いたい。それが私の終生の願いである」と結んでいる。
 いま「その日 その日」は絶版になって書店の店頭にはない。この大先輩の著書で名文に触れお人柄を偲ぶには図書館で手にするしかない。

2004年11月26日