─庄内藩の女性たち─(4)第二章 花ノ丸殿母 西田成羽(2)
成羽の嫁した西田家は、もともと伴一族であった可能性が高いということは先回記した。
庄内史料の「古人家勤書写帳 西田九郎右衛門」に、伴家と西田家の由来が述べてある。
「右、九郎右衛門儀、本国近江、郷洲(近江)西田村に住居仕り候、右、九郎右衛門親、伴九郎四郎儀、兄、伴九兵衛尉方より江州(近江国)西田、深瀬両所にて一万石分知配当仕り罷り在り候。その後、蒲生家に属し罷り在り候処、かの家断絶について、その後京都に蟄居仕り候」
これを読む限り、伴家から枝分かれしてからの西田家は「近江の国の西田、深瀬両所にて一万石分地配当され」ているのだが、複数の歴史地理地名辞典で調べても,滋賀県内で該当する地名はなかった。但し、「蒲生家」「西田」というキーワードを以て探した結果、滋賀県日野市に興味深い人物名が見つかった。
滋賀県立図書館にある「近江日野町志 下巻」に「西田先右衛門(まづえもん)」なる人物の記述があったのである。
「西田先右衛門 西田氏は日野町の名門なり。宝暦六年(1756)の大火の為、系図家記等概ね焼失せしを以て、其の出自を詳知するに由なしと雖も、祖先は丹波国船井郡西田村、川勝某の男にして、分家の後出生地の名を取りて西田を以て氏となしたりと云う。姓は秦氏なり。はじめ佐々木氏の旗下となり蒲生郡野邊村字八反田に住居し、後蒲生家の臣となり、日野村井町に転住せり。これを治郎兵衛となす。其の子(あるいは兄)は姉川の合戦に討死す(蒲生軍記に西田とある是也)。蒲生氏郷、勢州松ヶ島(伊勢松島:筆者註)に封を移されし時、治郎兵衛は留まりて日野に残れり。(其の子は蒲生家に仕へたりといふ。元和七年の分限帳に西田長助、西田十蔵なる者あり。蓋し此の末ならむ)」
また同文には治郎兵衛の子、治郎七が「慶長五年日野町の代表者として、鉄砲師田中弥次右衛門等四人と関ヶ原に赴き、鉄砲を徳川氏に献上し、戦捷の日家康公より朱印を付与せられたり。嗣子を先右衛門といふ。其の豪家と旧縁とにより、蒲生家の信頼厚く」ともある。
これによれば、先右衛門の祖父、西田治郎兵衛は蒲生家に仕え、晩年彼自身は日野に留まったが、「其の子は蒲生家に仕へたりといふ」とある。末裔の西田先右衛門は蒲生家の信頼厚く、「蒲生の武器庫」と称されたらしい。
筆者はこの日野の西田家と西田九郎右衛門に何らかのつながりを見いだすことができないかと、考えた。ただし、日野の西田の祖が、伴氏と同様に古来からの名族ではあっても、川勝という秦氏系統であることは気になった。
滋賀県からの調査旅行から帰り、筆者は日野町史編纂委員会に、何点かの庄内史料を添えて、筆者自身の考えも加えて、詳しい調査を依頼してみた。
一「蒲生家家臣に西田九郎右衛門という人物がいたかどうか」
二「西田九郎右衛門の祖と西田先右衛門の祖は、同系統の可能性はあるか」
日野町史編纂委員会の女性の学芸員の方からは、まことに懇切な対応を頂いた。
「お問い合わせ頂きました件につきましては、以下のとおりご回答申しあげます。 一「蒲生家家臣に西田九郎右衛門という人物がいたかどうか。」
【『氏郷記』などに蒲生家家臣団の名前の記載がございますが、その中に西田九郎右衛門の名は確認できませんでした。ただ、これらの史料に記載のある家臣は城代を任せられるような有力家臣でありますので、その陪臣までが判明する史料が存在するかどうかは現在のところ当町では把握しておりません。西田先右衛門家自体は徳川家康から日野三町に下されたという諸役免除の御朱印を保管する守護役として、江戸時代には領主から苗字帯刀を許された家柄だったようです。】
二「西田九郎右衛門の祖と西田先右衛門の祖は、同系統の可能性はあるか」
【西田先右衛門家の系図・由緒等が存在しないため、確認できておらず、またその家祖について言及した史料は「近江日野町史」以外には管見のかぎり見つけられませんでした。】
ということであった。ちなみに日野西田家は町史編纂以前に町を離れておられるそうである。二つの西田家は蒲生家との関係を除けば、重なるようで,重ならない。但し、西田九郎右衛門は蒲生家の一武将あるいは有力家臣というよりは、その陪臣だったのではないかという線は浮かんできた。
蒲生家の家臣団について、筆者は「蒲生氏郷と家臣団」(横山高治著)を参照してみた。すると、蒲生氏郷の会津領・約百万石時代の分限帳に「伴八兵衛 七百石」「伴道玄 六百石」「伴刑部 三百石」という三名の伴氏の名を見つけたのである。西田九郎右衛門の名はここにも無かったが、もしかしたら、この三名の伴氏の誰かの元に属していたか、もしくは属することになる可能性はあるかも知れない。今、筆者が把握しているのは以上であるが,今後も新史料の発掘を心掛けたい。
ただし、ここまでで言えることはある。西田、伴、蒲生、徳川、酒井は一つの同心円の内部にあり、それもかなり距離が近いということである。
さて、西田九郎右衛門はいつ蒲生家から離れたのだろうか。そもそも、いつ頃から西田九郎右衛門は蒲生家に仕えていたのだろうかという設問と絡めて考察していきたい。 蒲生家から家臣が離れていった時期は何度かある。一つは蒲生氏郷が逝去したときである。
蒲生氏郷は有名な武将なので、皆様よくご存じだと思うが、略歴を記してみよう。「戦国大名系譜人名事典」(小和田哲男著 新人物往来社)によれば、
「蒲生氏郷(1556〜1595)は、永禄十一年(1568)、十三歳の時に、父賢秀とともに織田信長に降り、氏郷はそのまま岐阜城に赴き、信長の人質として留めおかれた。翌十二年、信長の伊勢北畠攻めに出陣。これが氏郷の初陣であったが、そこで戦功を挙げている。帰陣後、信長の娘と結婚。(中略)信長死後は秀吉に属した。(中略)キリスト教に帰依し、受洗名はレオ。
天正十八年(1590)の小田原征伐には、伊豆韮山城攻めなどを受け持ち、その戦功によって一躍、会津若松四十二万石の大名になった。後、加増されて九十万九千三百石の大大名となる。茶の湯に秀で、利休七哲の一人に数えられている。」
永禄十二年(1569)に信長の娘の冬姫と結婚した氏郷は故郷日野に戻り、蒲生武士団や町民の祝福を受けた。その頃の日野城下は、「すでに近江商人の町屋が並び、農作物、鉄砲、薬、日野椀、コンニャク、ろうそくなどの特産の工芸品も集まり、商いの市も岐阜よりも一足早く『楽市楽座』が始まり、商人で賑わっていた」(「蒲生氏郷物語」横山高治)という。
氏郷の領した近江日野、伊勢松坂、会津若松のどの地にも茶道文化が根ざしている。文武両道の人物であり、氏郷個人を慕って家来になった武人も多いという。それゆえ、文禄四年(1595)二月、氏郷が四十歳を一期として没してからの蒲生家臣団の動揺、混乱は大きかったようである。近江や伊勢に帰る者もいたという。天下分け目の関ヶ原の戦いまであと五年だった。
西田九郎右衛門はこの時、蒲生家の陪臣であることを止めたのだろうか。
彼の娘の「はな」が、酒井忠勝に仕えるようになったのは慶長二十年(1615)の大坂夏の陣のすぐ後であろうということは先稿に記した。すると二十年もの間、西田九郎右衛門が浪人だったとは考えにくいので、もう少し後から蒲生家に仕えたと考える方が自然だと筆者は推察する。
蒲生家の次の危機は氏郷没して三年後の慶長三年(1598)である。その二年前の慶長元年、秀吉は氏郷の遺児の秀行に会津領をそのまま継がせ、徳川家康の三女・振姫との祝言を挙げさせた。ところが、慶長三年三月、秀吉は突然、蒲生家に宇都宮十八万石への転封を命ずる。禄高五分の一の減封であった。秀吉はその年の八月に亡くなるが、この減封に蒲生家内部は大混乱を呈したという。他の大名に召し抱えられる者もあり、会津で帰農した武士もかなりいたという。秀行について宇都宮にいった武将は少なかったと言うし、五分の一の減封では,抱えられる武士もおのずと限られてくるだろう。
では、西田九郎右衛門はこの時、主家を離れたのだろうか。庄内史料には「蒲生家滅亡のあと」という文言が使われている。この時、蒲生家自体はまだ滅びてはいない。
慶長五年(1600)、蒲生英行は義父、家康の東軍に参戦。会津の上杉軍の南下を阻んだ功績により、翌六年、十九歳で会津若松六十万石に復帰した。十八万石から再び六十万石になったのであるから、新規および復帰の召し抱えは多かったことだろう。この時点で、西田九郎右衛門は確実に蒲生家陪臣であったのではないだろうか。
だが、その後、家中に混乱が生じ、家臣の退散が続く中、慶長十七年(1612)五月、三十歳を一期として、蒲生英行は逝去したのである。蒲生家の名跡自体はもう少し続くが、実質的に英行の死をもって蒲生家の滅亡と捉えると、西田九郎右衛門が「京に浪々し」たのは、この頃かも知れない。
豊臣家と徳川家の間の緊張は高まり、慶長十九年には大坂冬の陣、翌年には大坂夏の陣があり、豊臣家は滅びるのである。
慶長二十年(1615)の大坂夏の陣後、元号は元和となり、西田九郎右衛門の娘「はな」は徳川家の譜代大名酒井家次の嫡子、忠勝に召し出された。仮にこの時の「はな」の年齢を数え十五歳とすると、「はな」は慶長六年くらいの出生であろうか。徳川氏が天下を取り、蒲生氏が六十万石の大名に復帰した頃である。父親九郎右衛門が二十歳で妻を娶り、子をなしたと仮定すると、その頃は三十代半ばであったろうか。母親、成羽も当時の結婚出産年齢を考えると、三十歳そこそこであろう。
京に浪々して二年、西田九郎右衛門、成羽、はなの運命は、ここから大きく転換して行く。ただ、酒井家の次の任地、越後高田に西田夫妻も追従したのかどうかは分からない。「はな」は、まだ酒井忠勝の身の回りの世話をするくらいの立場であったと思われるので、まだ「お部屋様」ではないのである。
父母と娘は一旦、ここで別れたのではないだろうかと云うのが、あくまでも仮定であるが、筆者の考えである。娘は忠勝について越後高田へ、西田夫妻はそのまま京に居たかも知れないし、成羽の父親、伴兼定の仕える山崎家治の元へ参じたかもしれない。
さて、次回は越後高田に舞台を移して、酒井忠勝と「はな」の行方を追うことにしたい。
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