山形城下における行者宿の町・「山形八日町」

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 

≪行者宿の町となった山形八日町≫
 六十里街道の内陸側の起点となる城下町山形は、湯殿山参りの行者たちの宿泊基地であり、また、お土産品の購入地でもありましたが、その行者宿は「八日町」に限られていました。
 これについて『第1集より第6集まで復刊合本・山形経済志料』(昭和45年10月10日発行、山形商業会議所山形経済志料編纂、株式会社郁文堂書店発行)(※1)の「三山参りの「御行様」」を見ると、
 三山参詣者を俗に「御行様」と称し、慶長年中より八日町請願寺付近の宿屋において、その宿泊を取り扱う慣例となり来るものである。山形に停車場(※2)出来てより、交通関係一変し、三山行者の多くは、旅籠町並びに停車場付近の宿屋に宿泊するようになりたるが、以前旅籠町の宿屋は商人その他の宿屋、八日町の宿屋は三山行者の宿屋と自から分界を明らかにし来られるものである(八日町蛤屋(※3)老婆の談により川崎浩良記)。
 遠くその由来を尋ぬるに、八日町請願寺世話の下にありたる八日町の人々は,慶長5年(1600)関ヶ原の戦役に際し徳川側の勝利を祈るため、湯殿山に祈願を籠めたる褒美として行者の宿泊取り扱いを差し許されたるものであることは、左の記録に依りて窺い知ることが出来る。
 今度濃州関ヶ原大敵会津景勝御しつめ被成候に付而、家康公為御利運湯殿山江月山寺行人召連、四十八日山籠勤可給候、御立願成就に就いては家康家あらん限、極月八日十五日於両寺柴燈護摩可被成候、且又此度百八人之御代参取立被成由御座候、此節御人御不足に候間、是等も其元御働を以て百八人御揃可給候、右之儀表向より御申被出候、兎角新山寺御兼帯被成候故、其元の御苦労御座候 以上
 七月五日
                                 大会所判
                                  小 美 治
  請願寺上人
(以下略)               
とあり、また、社団法人山形市観光協会の山形観光情報サイト『WEB山形十二花月』の「八日町」の項では、
 八日町は出羽三山詣での人々で賑わった行者宿で、江戸時代は国際都市で、方言混じりの挨拶で楽しんだ街であった。街には薬屋・医者・占い屋・馬医者・飛脚屋も見られ、町の賑やかさを浮世絵師一立斉広重(※4)がつくり売り出されていた。しかし、明治27年、昭和22年などの大火で古い屋並が少なくなり請願寺の本堂も小さくなっている。
 との記述があります。
(※1)大正10年(1921)、当時の山形商業会議所副会頭渡辺正三郎氏が、山形の古典や先覚者の経験談、あるいは貴重な経済資料などを収録すべく、会議所内に編纂部を設置し、自らその委員長となり、会議所書記長有泉亀ニ郎(元新聞記者)、渡辺徳太郎(山形商業校長)。五十嵐晴峰(郷土史家)、川崎浩良(郷土史家)などの諸氏の協力により、同年10月から昭和6年までに6刊を発行した。本稿では第1集より第6集までの復刊合本に記載のものを使用した。
(※2)明治34年(1901)
(※3)江戸時代(安政2年(1855))の『東講商人鑑』の「湯殿山道者宿之図」に描かれている「行者宿」のこと。
(※4)初代歌川広重(完成9年(1797)〜安政5年(1885))のこと。文化6年(1809)火消同心職を継ぐ。8年(1811)歌川豊広に入門。幕府の御馬献上の一行に加わって京都へ行った折の写生を基に描いた天保4年(1833)の「東海道五十三次」で風景画家としての地位を確立した。62歳で死去。姓は安藤、通称は重右衛門、徳兵衛、別号に一遊斎、一幽斎、一立斉。作品に「木曽街道六十次」、「名所江戸百景」など。遺言状の中の歌「しんでゆく地ごくの沙汰はともかくもあとのしまつが金次第なれ」が有名。
≪山形風流松之木枕にみる山形八日町≫
 ところで、山形城下に宿泊した旅人を、旅籠の主人が二日間にわたって城下の名所・旧跡を案内する内容の、今風にいえば「山形城下ガイドブック」のようなものに『山形風流松之木枕』があります。江戸時代後期頃のものといわれ、玉井本、櫻井半十郎本、佐藤光男本、館林本など少なくとも20冊余の写本が残るといわれるところから、当時の人々に広く読まれたものであったことが窺えます。原本があって、これを多くの人が写本したことになりますが、写本した人によってそれぞれ思い入れがあったため、それぞれの項目の表現や内容に濃淡があるそうです。
 玉井本『山形風流松之木枕』の「八日町」の項には次のような記載があり、江戸時代から明治にかけての八日町の賑わいぶりを知ることができます。
 此の杭より八日町、軒数か百八十軒、扨、此の町は湯殿山の行人一宿の所ニして、四月八日山開きにて、此の日より湯殿山へ参詣、夫より四・五・六・七月中、関東より奥州迄の行人沢山ニして町内賑わい夥布(敷)、諸商人入込み、男女ニ不限、夜ル昼宵暁の差別もなく、唯とや唯とやと云うて、若き男女我おとらし負しと争い商ふなり、何か壱軒の宿ニ千人、七・八百人やとる衆中、又四百五百人宿か何間と云ふをしらす、凡日本二ケ様成参詣有ましき事也、又かたハらニハ花咲掛る宿も有、金のなる木の宿も有、見め能娘を独持ぬれハ、親子三人寝て暮らす,婬声美色は人を惑し安しと、先哲の金言誠なるかな、最早盆後八月ニ至ると行人も過ぬれハ、親持主持の、夏中賈ふ利分の勘定成兼、ならぬ分別を仕出し出奔より外もなく、心にそまぬ世捨人、誠に世に捨られて黒染の身と成るも有、或ハ主有女を勾引し(かどわかし)、娘や娘(娵)をそひき出し、爰(ここ)やかしこに身を隠し、山家の住居、手なれぬ営み詮方なく、是そまことや一蓮托(択)生とやいわん/TD>
≪蛤屋老婆の語る山形八日町≫
 安政2年(1855)刊の前述の『東講商人鑑』の「湯殿山道者宿之図」には、道者宿のほかに小間物屋、酒店、荒物屋、油屋,干物屋、薬屋、呉服屋、金物屋などの店が軒を連ねていた様子が描かれていますが、先ほどの『山形経済志料』において、八日町蛤屋老婆の談として、郷土史家の川崎浩良氏が「維新前八日町行者宿の事」・「御行様と山形土産」の項目で伝えるところを要約すると、
@行者の宿泊は年々旧3月よりぼつぼつとあり、旧盆において最も活況を呈した。特に丑年は弘法大師が御山を開いた年に当たるので平年の10倍の参詣者があった。A明治27年(1894)の市南の大火で当時の宿屋が焼け失せて、また、廃業した家も多数あって、残っているのは蛤屋一軒のみである。Bこの家も以前とは全く変わった家構えであるが、以前は、一夜に行者を300人宿泊させることが度々あった。C夜具はいたって粗末で、座敷に茣蓙を敷きつめ、その上で寝た。枕は四角な木を用い、それさえも全部行き渡らないこともあった。D8畳に15,6人を収容した。盛んな時は物置まで使用し、それでも収容しきれぬときは、飯だけ宿で食し、鉄砲町・三日町・小荷駄町周辺の法印坊に泊めてもらった。E各行者宿には各講中の指定した札を宿の前に立てかけた。F行者の中には念仏踊りを演じるものもあり、七日町・旅籠町・六日町など北部の人々が踊り見物に来て賑わった。G行者宿は全て一夏で1ケ年の生活費を稼ぎだした。H明治10年(1877)の一泊料金は、昼用の握り飯二つを添えて金8銭であった。当時の米1升は2銭7厘であった。I膳は「平」は寄せ豆腐、「皿」は糸蒟蒻の煮付、「坪」は麩と椎茸と湯葉の煮付で、一夏は食中毒を防止する関係で、決して肴を取り扱わなかった。J宿の片隅で酒屋や菓子屋や餅屋が出店を開いていた。K繁盛したものに按摩、参詣後の髪結いがあった。J土産として麻布、真田紐、阿古耶紅、鬢付油、三山掛け物、血の薬、腹巻、銅鉄器、塗り物、陶磁器などが売れ筋であった。(八日町蛤屋老婆の談により川崎浩良記)       
とあり、往時の行者宿の盛況ぶり、食事内容、町で繁盛した商売、道者が購入したお土産品などがよく分かります。
≪六十里越街道の出入口・山形下条町≫
 八日町の行者宿を出立した行者達は、現在の十日町、七日町、旅籠町と「羽州街道」を北に進み、相生町の「きらやか銀行本店」付近で羽州街道から分かれて肴町方向に向かい、山形城北高校の側を西方に進んで、やがて山形城の11口の一つである「下條口」からの「六十里街道」と下条町で合流し、江俣に向かいます。 かつて、古老は、この六日町〜相生町〜肴町〜下條を通って江俣に向かう道のことを 「寒河江街道」と呼んだそうですが、山形市観光協会公式ウエブサイトWeb『山形十二花月』等によると、
文禄、慶長の頃、現在の旅籠町から七日町(元三日町)にかけては、宿場町で、笹谷街道だけでなく、二口峠からも商人や行者達によって利用されており、そして、現在の六日町辺りを寒河江との交通の発端地であることから「寒河江町」と呼んだといいます。また、旅籠町は参勤交代の本陣(現山形銀行本店のある場所)・脇本陣があったところであり、幕末には八日町と行者の奪い合いをやったという記録もあるとのことです。       
 とあります。
 「下條」という地名は、上山に向かう「上町」に対して呼ばれた地名といわれ、慶長年間(1600年ごろ)には「下町」と記録されたものもあり、「六十里越街道」の出入口でした。古くは馬見ケ崎川が北肴町あたりから数条に分かれて流れていたため、下條付近には冷たい地下水が湧出して、三山参りの行者や山形城下の町民が楽しんだところといわれています。山形旅籠町の旅宿屋「八木屋」生まれで、江戸末期の絵師「皆川義川」も三山道中版画に「テン茶屋」を摺りあげています。
 行者たちは、八日町から約1里(3.93キロメートル)の距離に当たる下条で小休止をし、ここを出た一行は、船町で須川を渡り、長崎で小休止し、最上川を渡って寒河江で大休止をしました。寒河江川の臥竜橋を経て白岩に達すると、ここからは湯殿山の神域に入るといわれ、行者達は新しい草履に履き替えて進み、川で水浴している子供を見つけると賽銭を撒く習慣があったといいます。また、この白岩には10人ぐらいの馬子がいたそうですが、谷地、寒河江、天童などからも100人ぐらいの馬子が集まるので、往時は賑やかであったということです。
 前述の『山形風流松之木枕』にも、下條には冥加屋とか桔梗屋などの茶屋、色酒屋の姫路屋などがあって三山参りの時期には賑わったとあります。また、夕涼みをしながら、火縄(現在のライター)を廻して煙草を吸う男、酒屋の近くで色香を漂わせて男を誘う娘や女房たち、浮名を立てようとする若旦那たちがさまよう風景に、いずれ罰が下るであろうとの記述も見られます。その『松之木枕』の「下條町天茶屋」の項には、次の記述がありますので紹介してこの稿を終えることにします。
 従是(これより下條町、軒数か96軒、此寺ハ柳向伝昌寺と申して龍門寺末寺たり、是ハ修験宗行蔵院末清浄院と申也、此出仏壇ハ慈覚大師御正作の地蔵尊、最上48番札所
○伝昌寺ハ開起一山寿昨(昭の誤り)大和尚元和8甲戌年鳥居左京亮様御代草創
此側(街のあやまりか)ハ湯殿山の通りにて、参詣の折柄賑ひ申候、此所へ御立寄暫く御休ミ、名物の心天(ところてん)、出水なれハ冷やか成事余の常とハ違ひ、其仕掛の綺麗さ、是ハ冥加屋・藤屋、こなたは桔梗屋・花菱屋色有、酒か御望ならハ姫路屋へ御立寄被成へし、たはこたはこと火縄片手に吸付莨?(たばこ)、又冷やか成甘酒も有、夕涼ミの折柄上気盛の息子や手代衆、隠れかこんて玉子酒含、酒の甘味に打込、夜な夜な通ふ折柄に、そゝり立られうき立娘、娵子(よめこ)、ついに出もせぬ嬶(かかあ)さま迄も、そやし立られ杖をちからに遊ひくる、真の闇にも迷ハぬワしか、子を思ふ道に迷いくる、又ハ娵や娘のうまくだましてまよハれし、一盃飲や心天、気はうちやうてんでに娵や娘か、徒くらかり二て、するもしらすして、又あすの晩ぞと約束の油断のならぬ此道そかし、近年好色殊の外繁盛にて、世間の男女も上手になり、度重なりて終二又、阿漕か浦の引網もついあらハるる(※4))、親の門口敷居も高く成て、首尾悪くして浮名立、勘当程の事ハ名けれ共、おのつから帰り難く,曲三味線二書しことく、伝死病(肺結核)の心地こそすれ       
(※4) 伊勢大神宮の網を入れる禁漁の浦に、阿漕という漁師が慾心のあまり度々網を入れて密漁をしたところ、遂にこれがばれて柴漬という簀巻の刑に処せられ沖に沈められたとする、御伽草子の物語がある。
2014年5月20日