─庄内藩の女性たち(5)─ 第三章 越後高田城

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 ─庄内藩の女性たち(5)─ 第三章 越後高田城
 新潟県上越市は2014年(平成26年)の今年「高田開府四百年」の諸行事に沸いている。昭和四十六年(1971)に高田市と直江津市が合併して生まれた上越市は、越後随一の城下町として繁栄した歴史を持つ。戦国時代、少し離れた春日城を拠点とした上杉家は米沢に去り、かわりに豊臣家の旧臣堀秀治が越後にいた。だが『高田市史』によれば、
「草創期の幕府にとって、堀秀治が越後にいることは不安でならなかった。(中略)加えて、豊臣秀頼がなおも大坂城に健在であり、加賀金沢には前田氏がいた。越後は前田氏が江戸のうしろをつく通路でもあったうえ、越後には上杉の遺風を慕う者が多いので、一日も早く、越後の地を安定しておくことが必要であった。」
 徳川家康は六男松平忠輝を越後に封ずることにし、慶長十九年(1614)、高田城築城の命令をくだした。ちょうど四百年前のことであった。その工事は大規模なもので、『高田市史』によれば、
「川の掘割・埋め立て・土塁の構築・城内の建物の建造・侍屋敷の設置などの城郭造営を始めとして、都市計画に基づく城下町の区画の設定、おびただしい道路の開さく等に及ぶこの大工事が、慶長十九年三月十五日に着工して以来、五月の大出水に悩まされたにもかかわらず、七月上旬までの四ヶ月たらずで完成したというその工程に注目せねばならない。これは国役普請を命じられた十三人の諸大名が、戦場で武功を争うように,財力・人力の限りを尽くしてこれに従事したためで、人夫の数も恐らく十数万に達したものと思われる」

 しかし、松平忠輝はこの城の主としては、二年ほどしか滞在しなかった。伊達政宗の娘・五郎八(いろは)姫との短い結婚生活のあと、忠輝は改易されたのである。その経緯を述べると長くなるので割愛する。
 元和二年七月に松平忠輝が改易され、酒井家次が高田城本丸を受け取る役に任じられた。酒井家次は七月末には高田入りしたものと『高田市史』では推察している。同年十月には酒井家次の高田拝領が決定した。これは忠輝時代の六十万石をそのまま受け継ぐのではなく、頸城郡の一部と刈羽郡内の三十ヶ村であったようだ。『高田市史』では、
「酒井家にとっては五万石から十万石に領地が倍増し、しかも北国の押さえである高田を拝領したことは、まさに譜代第一の家柄を自負する酒井家の繁栄を意味した。しかし、上越地域にとってみれば、酒井家時代の藩域は頸城一郡におよばなかったので、地域的には衰退に映ったと『訂正越後頸城郡誌稿』は評している」

 『高田市史』によれば
「高田城は江戸城や名古屋城と同じ流れをくむ比較的大規模な平城であったが、城壁に石垣もなく、四方を圧する天守閣もなかった。その主な理由としては、当時大坂方との間に戦の危機が迫っていたため急いで工事を終える必要のあったことが挙げられよう。」
「慶長十九年八月二十日には諸藩の役人、人夫も前後して帰藩し、忠輝は越後福島城から木の香も新しい新城に入った。しかし、十月には大坂の諸藩が秀ョを奉じて兵をあげたので、城下を整備するいとまもなく江戸留守の命を受け、諸臣を従えて江戸に登った」

 十三の大名が「国役普請」として戦場の功を競うが如く取り組み、延べ十数万人の人夫を動員して作られた高田城。松平忠輝の改易後、その「大規模な平城」に酒井家次は入城し、長男忠勝も行を共にし、内室の波那―はな―も従った。
 現在の高田城址は再建された三層櫓が往時を偲ばせ、新潟県の中でも指折りの桜の名所で、観桜会には大勢の人々が集まる。夏には広い掘割いっぱいに蓮の花が見事に咲く。「花の高田」というキャッチフレーズは大げさではない。但し最初の城は、寛文五年(1665)暮れの大地震で崩壊し、現在残っている「高田城内之図」はそれ以後のものなので、忠勝や波那が住んだ場所を現在の図から正確に特定することはできない。しかし、本丸の北側に北の丸があり、そこは御花畑や御茶屋があるので、筆者としては本丸の北側、もしくは北の丸に波那が住んでいたのではないかと思っている。

 この間の酒井家の記録は高田には乏しい。『上越市史』では
「譜代大名の在府が常態であった元和期(1615〜24)にあって、譜代大名の中でも最古参の家柄といわれ、旗頭であった酒井家は,将軍を護衛する軍団の長として常に将軍の近くに控えておく必要があったと思われる。また、元和三年七月に将軍秀忠は諸大名を率いて上洛しており、家次もこれに従ったと思われるが、いずれも史料的な裏付けはないので、後考を待ちたい。」
 二十三歳の酒井忠勝は、父の家次が江戸で将軍の護衛の任にあるとき、越後高田で領地支配を受け持っていたと思われる。領地経営は殆どが高力数馬、伊藤孫六、石原主馬、高力但馬などの「年寄衆」が行い、数少ない史料には彼らの連署の文書が発給されているが、その一つに忠勝の名前で布告された文書があるからである。

 酒井家の跡取りではあっても、まだ部屋住みの忠勝と波那は、ここでいわゆる新婚生活を送ったのである。波那にとって越後高田は彼女の人生の中でも、のびのびと幸福な時期だったように筆者には思われる。波那はこの地で「花ノ丸殿」と呼ばれるようになったという。現在残っている城の図に「花ノ丸」という名称の場所はないが、筆者は「お花畑」を好んで散策する波那に、周囲の人々がつけた愛称のように思われてならない。ときには夫の忠勝も波那と肩を並べて四季の花を愛でたかもしれない。
 まもなく彼女は懐妊した。元和三年八月五日、波那は忠勝の長男を出産する。幼名は小五郎、後の酒井摂津守忠当、庄内藩二代目藩主である。
 酒井家の次世代の嗣子を産んだ波那の扱いは、いわゆる「御部屋様」に変わり、「〜殿」という敬称を以て呼ばれることになる。当時の高田城に「花ノ丸」という場所が実在したかどうかは史料的に証明できなかったが、ともかく周囲の人々は彼女を「花ノ丸殿」と呼んだのである。

 さて、このとき波那の母親の成羽はどこに居たのか。
 筆者は「成羽」という名前に関し、前稿で述べたように、生誕地ではなく後に住んだ場所の地名にちなんで「成羽」と呼ばれるようになった、という仮説を立てている。伴家系図によれば成羽の父伴兼定は、関ヶ原の戦いでそれまで城代をしていた長束正家の水口城が落ちると、次は同じ近江の武門、山崎家盛の因幡国若桜(わかさ 今の鳥取県)三万石に仕えた。
 その嫡子、山崎家治は元和三年(1617)七月に、備中国成羽三万石へ転封となり、伴兼定の一族郎党も従ったと思われる。この年の八月に、高田で波那が酒井忠勝の長子を生む。
 山崎家治は寛永十五年(1638)、肥後富岡藩四万石に移封されるまでの二十一年間は成羽藩主であった。一方、庄内の「大泉紀年」によれば、花ノ丸殿の父、西田九郎右衛門が五百石で正式に庄内藩に召し抱えられるのが寛永四年(1627)。酒井忠当が将軍に初御目見得した年である。
 つまり、花ノ丸殿の母親は数ヶ月、もしくは最大十年間は成羽に居た可能性がある。高田時代から娘の元に行ったにしろ、次の松代からにしても、花ノ丸殿の母親が「成羽」と呼ばれる条件は揃っているのである。「御部屋様」になった花ノ丸殿が、いつ両親を呼び寄せたかは記録がないので確定的な事は言えない。西田成羽とその夫の九郎右衛門が花ノ丸殿と同じ土地に住むようになった年月日は、新しい史料の発見を待つことにしたい。

 この元和三年から寛永四年頃までの十年ほどは、花ノ丸殿・波那の最も充実した人生の刻となった。彼女は男子を二人産み、その子等はそれぞれ将軍に御目見得した。夫・忠勝の愛情も得ていた。
 しかし、高田時代の完全な幸福の刻はひとときの夢のように去り、花ノ丸殿の人生には苦みが混じり始める。酒井家の次の移封地信州松代に、鳥居家から正室が嫁いで来るのである。それは次回から述べる。

―この項、終―
 
2014年5月26日