「大宰府"育ての親"は庄内出身の藤井 功氏」 |
64回(昭和32年卒) 庄司英樹 | ||
「大宰府"育ての親"は庄内出身の藤井 功氏」 同期会初の試みの旅行「海坂藩の原風景をたどる旅」を2005年、鶴岡天神祭(化けものまつり)に実施してから10年。今年も5月に行われた同期会旅行は「西九州を巡る旅」。初日は奇しくも菅原道真公を祀る全国12,000社の総本宮、墓所のある太宰府天満宮が最初の見学地だった。 福岡空港から大宰府に向かうバスに乗ると、今回初参加で地元太宰府在住の案内幹事役の山本康雄氏が開口一番「大宰府史跡の保存は山形県出身の藤井功という人の指導によって行われた。この人がいなければ史跡は宅地化され、現在のような大宰府政庁跡の保存の姿はなかった。大恩人です」と話し始めた。 参加者は20人、東北、山形からは私一人とあって車内からどよめきが上がり、私自身が褒められている気分になり高揚した。 大宰府政庁跡の発掘調査は昭和43年(1968)に開始されたが、発掘開始直前にムシロ旗を挙げて反対運動が起きた。藤井氏は夕方になると一升瓶を提げて地元反対住民の家に出向き、膝を突き合わせて酒を酌み交わし、文化財保護の重要性を説いてまわる日々だったという。 藤井功という人はどのような人だったのか。この話を聞いただけで興味が湧き、山本氏にエピソードを教えてもらい原稿にまとめると、つい口走ってしまった。 女性陣から「バスの中からでしたが、広大な大宰府政庁跡を見られ、山形の藤井さんのご功績によるとの山本さんのご説明に感動した一人です。是非お書きいただきたく楽しみにしております」(市川市)「私は山形県が好きで、食べ物や温泉だけでなく、やはり人なのだと、山本さんのご説明の導入部から、何かドキドキしながら聞き入っていました。庄司さんも耳をダンボの耳にしてあの展開に感激していらっしゃったのですね」(さいたま市)というメールや手紙が届いた。 鎌倉からは「先輩が 勤めとはいえ 生活習慣ことなる遠くはなれた地で 献身的なはたらきによって地権者のこころをゆさぶり 太宰府の遺跡が保存につながったはなし。 みんなの心がやすらぐだけでなく 文化財をたいせつにしていこうという意識にひろがって いくとおもいます 日本人の精神は いまだ健全です」というメールもあった。 山本氏は西日本新聞社の伊万里支局長をしていた当時、陶芸家の中島宏氏(現・人間国宝)のお宅で藤井氏、藤井氏とは奈良国立文化財研究所時代の同僚だった高島忠平氏(当時・佐賀県文化課文化財調査係長)らと何度か酒をくみ交わしたという。豪放磊落かつ心配りの行き届く藤井氏の魅力にすっかり虜にされた彼に資料の提供をお願いした。 山本氏からすぐに「藤井氏と奈良文化財研究所で一緒だった佐賀県の吉野ケ里遺跡保存をリードした高島忠平氏とようやく連絡が取れ、藤井氏の絢子夫人の住所がわかり、電話しました。出身地は酒田市広野中通り、生家は公民館になっているそうです。藤井さんのお宅に伺って略歴など資料を見せていただきコピーして送ります」という返事。 酒田市に向かって国道7号を北上、広野は日本海の強い季節風を防ぐ屋敷林の大欅がある地域。村内をうろつくと不審者、あるいは徘徊老人扱いの恐れがあり、駐在所に立ち寄った。「庄内」ナンバーの車しか走らない集落に見慣れない「山形」ナンバーとあって署員が飛び出してきた。事情を説明して公民館の場所を聞き、車一台が通る道幅の道筋を教えてもらって藤井氏の居宅跡地にたどり着いた。 「むつみの里 中通り」の看板が立つ広い敷地に瓦葺きの大きな建物の公民館、自然石の記念碑に「和」とあり、裏側には「藤井さん こんなに広い すばらしい土地をありがとう 私たちは 藤井さんと親戚の皆さんのふる里を思う温かい気持ちをいつまでも忘れません 中通り自治会一同 題字「和」揮毫 藤井 信(末吉氏四男) 2001年10月中通自治会館建設委員一同建立 と刻んであった。 藤井氏とは小学校の同級生で、公民館建設当時の町内会長だった国松一志氏によると、父末吉氏は隣町の余目町(現庄内町)出身で旧内務省職員。母ゆきえ氏は広野生まれ。男子の4人兄弟で功氏は3男。錚々たる人材を輩出した藤井家として知れわたっていたという。藤井氏が帰郷すると同級生の田村保氏が余目駅前に開いていた寿司屋に集まり、国松氏、熊谷吉見氏の幼なじみの4人で盃を交わしていた。 藤井功氏のプロフィール 県立酒田第一高校(現酒田東高)、東京教育大文学部史学科で和歌森太郎博士の指導を受ける。卒業と同時に東京都文京区立第十中学校の教諭、昭和34年には東京都立文京高校教諭、昭和39年4月奈良国立文化財研究所に入所し、平城宮跡発掘調査に従事。43年9月福岡県教委に移り、49年文化課長。59年4月から九州歴史資料館副館長。60年4月19日死去。53歳。(写真 藤井 功氏) 山本康雄氏経由で届いた藤井功氏の人柄を伝える新聞記事、エッセイ等10点からいくつかを紹介してみよう。 南里義則「森弘子聞き書き ひとすじの梅の香」(海鳥社) 「志伝える石碑三基」 明治以来の大宰府の人々の郷土への熱い思いを象徴するのが、大宰府政庁跡に立つ三基の石碑です。一番古いのは真ん中の「都督府古址」で明治四(1872)年、地元の大庄屋高原善七郎が自費で建立しています。正殿跡に向かって左の「大宰府址碑」は明治十三年、これも地元有志が建立。右側の「大宰府碑」は江戸時代に福岡藩の儒医亀井南冥が碑文を作り、彼の没後百年の大正三(1914)年にその教えの流れをくむ人たちが建立しています。 三基の石碑の前に立つと私はいつも、大宰府史跡が廃れることを憂えた大宰府人の志に胸を打たれます。(写真 大宰府政庁跡) 史跡の核である政庁跡で発掘調査の鍬入れ式があったのは、昭和四十三(1968)年十月。国の史跡指定拡大をめぐる混乱の最中でした。反対派住民の立て看板が立つ中、奈良国立文化財研究所から来た藤井功さんが調査を指揮。政庁跡の全容解明と同時に、その価値を今の世に問い直す作業の始まりでした。 「藤井功さんの登場」 藤井さんは単身赴任で、大宰府天満宮の飛梅会館に寝泊まりされます。休日には、会館の炊事場をたまり場に、同僚や天満宮の職員たちと酒を酌み交わしては大宰府論を熱く語り合われました。いつごろか、そこは「バー炊事」と呼ばれるようになっていました。 「新発見を誇りに」 「バー炊事」に、私も顔を出しました。私が天満宮文化研究所に入ったのは昭和四十四(1969)年四月。前年九月着任の藤井さんは二年余り飛梅会館におられたので、よく顔を合わせました。小鳥居寛二郎権宮司や地元の新聞記者、米国人留学生らもバー炊事に出入りされていました。 藤井さんの着任前、史跡指定拡大に地元の猛反発を受けた国は、@史跡指定地は買い上げる、A発掘して歴史的な姿を解明する、Bその真の価値を明らかにした上で整備・活用する、などの基本方針を打ち出します。 藤井さんは、大宰府史跡発掘調査指導委員会(委員長・竹内理三東京大学教授)の指導の下で発掘を開始。昭和四十三年十二月、政庁中門跡での調査開始早々に、アッと驚く事実が判明します。地表に見えている礎石の下から、また礎石が出てきたのです。それまでは「地表の礎石は天智天皇(七世紀ころ)が造営した政庁の建物の礎石」とされていました。 さらに、もっと大変な事実が判明します。地表の礎石と下の礎石の間から焼土が大量に出てきたのです。焼土は、一帯で全面火災があったことを意味します。その焼土層から「安楽寺」(太宰府天満宮の前身)と刻印のある瓦が出土しました。 菅原道真公を弔う安楽寺ができたのは、道真公が亡くなった延喜三(903)年より後。つまり、政庁火災は同年以降に起きたことになります。ここから藤井さんの推理が冴えました。焼土は「海賊を率いて朝廷に反抗し大宰府を焼き尽くした」と記録された藤原純友の乱(941年)によるものと推定されたのです。 大宰府は純友の乱で焼かれたのが最後で、火災後は再建されなかったというのが通説でしたから、それが根底から覆されたことになります。それまでの大宰府研究は、鏡山猛九州大学教授の「大宰府都城の研究」などが知られ、発掘も先駆者のそうした論考を基に進められました。しかし、初の本格的な発掘調査で、政庁は二度建て替えられた、などの新たな事実が分かってきたのです。 藤井さんは、大宰府史を書き換える新発見で集まった世間の注目を史跡保存に向けさせます。と同時に、多くの地元住民の「誇り」を呼び覚ますことに力を注がれたのでした。 「史跡は地元で守る」 豪放磊落でありながら、細かい気配りも持ち合わせ、ユーモラスなおしゃべりが得意。山形県酒田市出身の藤井功さんは、そんな方でした。 大宰府に着任後、史跡指定反対の地権者を一升瓶提げて訪ねては説得。発掘現場でも事あるごとに作業員の方たちとお酒を飲み、コミュニケーションを取られていました。「あいさつの代わりに、作業員のおばちゃんたちのお尻に触ってやるんだよ」。今ならセクハラで追及されかねないような言葉でも、藤井さんが言えば周りはいつも笑いの渦。 藤井さんが実行されたのが、発掘作業員さんの地元採用でした。自ら訪問、頭を下げて頼まれています。そして、集まった作業員さんたちに発掘の目的などを説明されます。これは画期的なことでした。木簡や土器が出る現場を、地元住民が自らの目で確認できるのですから。遺物の意義も藤井さんが即講義です。 「史跡や文化財は地元住民が守るのが基本」が藤井さんの口癖でした。住民に足元の地域の歴史的な価値を伝えて「誇り」を呼び覚ます。それが未来への史跡保存につながる。そんな狙いだったと思います。藤井さんの着任二年後の昭和四十五(1970)年、国は大宰府史跡追加指定を正式に告示。藤井さんの功績が大であったのは間違いありません。 昭和四十七年、福岡県文化課に移った藤井さんは、埋蔵文化財発掘技師育成などに尽力されます。背景に、開発ブームでどこの自治体も事前発掘調査を迫られていた状況がありました。 その指導力で九州の文化財行政のリーダー的存在になった藤井さんは、文化庁との人脈を生かし、西高辻信貞大宰府天満宮宮司や地元経済界と連携して九州国立博物館誘致に奔走。昭和五十九年に、県立九州歴史資料館副館長として大宰府に戻られます。さあこれから、と周りの多くが期待したその翌年四月、バイクで出張する途中で倒れ、急逝。 「疲レル、キョウ酒ヤリタクナシ、永遠ニヤスミナシ」と日記にあったそうです。 私に電話する時は「あなたの藤井よ」と高音で冗談を言う、いつも陽気な藤井さんでしたが、実は激務であったのだと思い知りました。 「史跡を守る仕事をしながら、余生を送りたいよ」いつか私にそう漏らされた藤井さんの願いはかないませんでした。享年五十三歳でした。 随想「藤井 功さんの思い出」 元九州歴史資料館副館長 宮小路 賀宏「人権文化研究」誌第25号 (福岡人権文化研究所) 「藤井さんの面目躍如!」 藤井さんは酒の席で、山形の故郷のことを時々話した。福岡では「子牛」のことを「子牛」としか呼び名がないが、山形では「ベココのコッコ」というそうで、なんとも可愛いらしい。 藤井さんの話は続く。「私の子どものころは、新聞紙がトイレットペーパーだった。この新聞紙は指に少し力を入れ過ぎるとパリッと裂けて大変なことになった。よく揉んで柔らかくしてつかったものである‥」 藤井さんの子どもの頃は、川に生えている藻を採集し、乾燥させたものを使っていたそうである。「柔らかくて、肌触りがよくって‥」まるで、今、尻を拭いているかのような顔で話していた。 また、子どもの頃の遊びの一つに、数人の男の子が馬を取り囲んで「うーまのダッペ はらたたけ!」「馬のダッペ(馬のチンコ)腹叩け!」と一斉に囃し立てると、なんと腹を叩き出すのだそうである。本当だろうか。まだ、実験はしていない。 藤井さんは、頓智があり、機転が利く人で、沢山の逸話がある。 発掘現場には、大学は出たけれどという若者が大勢いた。その一人にM君がいた。彼は大学時代から交際していた女性と結婚したいのだが、相手の父親が「M君の職業が不安定」を理由に、結婚を許してくれない。彼はとうとう、藤井さんに泣きついた。反対する父親の職業を知った藤井さんは、その父親に向かって言った。「あなたは火を消すのが商売かもしれないが、こんなことにまで、水をかけることはないのじゃないか」 二人は目出度くゴールインすることができたのである。 県議会文教特別委員会の視察が筑後地区で行われた。日程に旧吉井町所在の国指定史跡珍敷塚古墳が組まれていた。 横穴式石室の大部分が破壊され、壁画のある奥壁の石だけが残っている。この壁画のある石材は鉄筋コンクリートの覆屋で保護され、さらに外気を遮断するガラスの部屋の中にある。黴から護るための施設である。 藤井さんは以上の説明をしたうえで、ただ一人の女性のM議員に「先生だけは、このガラスの部屋に入って近くで見ることができます」と言った。 すると、男性の議員たちが「文化課長、それはどうゆうことか。不公平ではないか!」と文句が出た。 藤井さんは「M先生だけは問題ありません。何しろ無菌(金)ですから」 藤井さんは凄かった。係長(四十歳前後)の頃までは財布をもっていたと思うが、文化課長(昭和四十九年、四十三歳)就任の頃には上着の内ポケットから茶封筒を出して支払っていた。給料袋である。 交際は広く、人柄と話の面白さに沢山の人が集まった。気前がいいというか、気風がよいというのか、無頓着というのかいやな顔もせず、給料袋から支払っていた。割り勘など、藤井さんは考えもしなかった。絢子夫人に尋ねたことがあった。「役所を辞めてくれたほうが安上がりなんだけど」 昭和六十年四月十五日、甘木歴史資料館建設についての会議出席のため自宅を出られて間もなく脳出血で倒れられた。済生会二日市病院に運ばれたが意識不明の重体であった。病棟の廊下は、発掘作業を一時中断してきた職員で朝早くから夜遅くまで溢れた。市町村の職員も駆けつけた。藤井さんの心配と他の入院患者に気を使っての、静かな作業服姿に満ちた廊下は異様なものであった。 しかし、絢子夫人によると、皆の心配をよそに、本人は「憧れのハワイ航路」を歌っているという。おそらく中州で飲んでいるつもりであったのだろうか‥。 四月十九日。午前六時十分。意識が戻らないまま藤井さんは旅立ってしまった。五十三歳十ケ月の早い逝去であった。 新聞各紙はこのことを報じた。特に西日本新聞は大きく紙面を割いて異例の報道をした。 西日本新聞 「九州に国立博物館を」『藤井さん 夢半ば‥』大きな活字の横組み見出し、大見出しは「酒くみ交し住民説得 発掘にかけた半生」の4段。 昨年の鏡山猛・九大名誉教授につづいて、大宰府の守り神がまた一人亡くなった。藤井功氏。五十三歳。死去の報を聞いて岡崎敬・九大教授は「エッ」と絶句した。干潟龍祥、鏡山、竹内理三氏ら先人の研究を発掘によって大宰府学まで高め、都府楼とその周辺四百四十四fを史跡指定にこぎつけた功績は大きい。また、全国に先がけて福岡県に文化課を整備、文化財保護のためには、文字通り席をあたためるヒマもないほど出張仕事を重ね「文化財は住民が守るもの」が口癖だった。岡崎九大教授は「大きな柱がなくなった」という。 この前文のあと本文で彼の業績、エピソードを紹介、記事は次のように結ばれていた。 藤井さんの周りには酒と人が集まった。九州歴史資料館の副館長となったときは、福岡県庁文化課が大宰府に移動したと言われたほどだった。 藤井さんが最後に情熱を燃やしていたのは、九州国立博物館の建設だった。「大宰府天満宮が寄贈してくれた用地二十一万平方bをムダにしたくない」と話していた。昨年来、博物館等建設推進九州会議(瓦林潔会長)の運営委員長代行としてその実現に走り始めたばかりだった。「発掘は宝探しじゃないぞ、なあ」。とみに出てきた腹をゆすりながら話しかけてきた藤井さんの笑顔は、もう見られなくなった。 南陽子 著 「地を 這いて 光を掘る」佐賀女子短期大学学長 高島忠平 聞書 「藤井さんは、ともに九州で文化財行政を進める同志であり、先輩だった。もとは同じ「奈良文研39組」で、大宰府跡の発掘調査のため、請われて68年に福岡県に移り、奮闘していた。 当時、大宰府は国の史跡になっている範囲の拡大が検討されていて、地元住民が「農地を奪われる」と"むしろ旗"を掲げて大反対をしていた。藤井さんはそのなかに飛び込んで行き、「遺跡は皆さんの財産です」と調査の必要性を訴えた。酒豪だったから、ひざを突き合わせて酒をくみ交わし、住民の信頼をつかんでいった。 山形県出身なのに「九州の人間より九州らしい」と言われるほど豪放磊落なところがあり、僕は奈良文研から佐賀に移ってからは頻繁に会っていた。 藤井さんは、文化財をどのように市民に提供したらいいかを常に考えていた。大宰府の政庁跡も、学者だけを対象にした史跡ではないとの考えから、大勢の市民が集まり、スポーツをしたり、弁当を広げたりして気軽に楽しめる場所に整備した。藤井さんは「これがおれの目標だったんだ」と話していた。 85年に亡くなる数年前だったか、こう言ったことがある。「おれがやれるのはここまでだ。これから先はおまえしかやれない」と。"先"とは遺跡の活用。僕にとってはその最初の取り組みが久保泉丸山遺跡であり、今なおライフワークになっている。 加来宜幸著 巡礼いのちの旅路「北前船の帰港路」人権文化・教育叢書(西日本新聞社) さて、酒田には、私の親しき<師友> 故「フウサン」(元・福岡県教育庁文化課長、兼九州歴史資料館副館長、考古学者・藤井功氏)の生家と墓がある。 彼が亡くなり、九電ビルでの盛大な<お別れの会>で、フウサンの兄上が参列者一同への挨拶が忘れられない。 それは、フウサンが小学校四年生のころ、酒田に大火事があり、そのあとしまつの最中、フウサンは学校には行かず、毎日、焼け跡のなかから、古壺や刀剣、民具や船箪笥、懸硯や衣装櫃などの破片や金具などを拾いあつめては生家の屋根裏に整理していた、という話であった。続いて、兄上の言葉は泪声になっていく‥。そのことから、後に東京教育大学で和歌森太郎先生の薫陶を受け、奈良考古学研究所や博物館勤務のあと、福岡県教育庁の文化課長として大宰府政庁跡の完全復刻の偉業を成し遂げることができ、弟は幸せ者であったと言われ、そして、これも偏に参列者の御交誼のたまものであったことの謝意も述べられ、泪ぐんでおられたフウサンの兄上の姿が、いまも私の眼に焼きついて離れられない。 フウサンが県教育庁指導第二部文化課の課長であった当時、指導第二部は四課あって、指導二課長が寺脇研氏(テラさん、現・文部科学省の大臣官房審議官)で社会教育課長が文部省勤めを十年近くやり遂げて帰ってきた光安常喜氏(ミッちゃん、現・福岡県教育長、三期十二年の勤めを精力的にこなしている人物)であり、私が同和教育長で、日ごろから「カクサン」と呼ばれていた。この課長たちはみな個性の強い傑物ばかりで、まことにハラに一物も隠さない豪放にして智者であり、仲がよかった。 とくに、<社教>の光安氏と<文化>の藤井氏と<同和>の私とは妙に波長が合って、県議の諸氏からは「こらッ、社文同<シャブンドウ>の悪僧!」と怒られ、可愛がられ、喧嘩もし、県の教育界では、悪名高きシャブンドウの三人‥としたわれ、信頼されてもいた。そのフウサンの墓参りが、この酒田で出来るのである。 生前、藤井氏は、冗談とも本気ともつかぬ表情で、二、三度、酒の席で、同じことを私に言ったことがある。 「カクチャン‥。わしが死んだらなあ、骨の半分は生まれ在所の酒田に帰されると思うけど。あんた、死ぬまで酒田に行くことはないかもしれんが、いやいや、あんたのことやけわからんなあ。もし酒田に寄ることがあったら、酒田の日和山公園の突端に、日本で一番古い木造の灯台がある。わしの骨は、その灯台の下に眠っとる。と思ってよ。ぜひとも日和山公園にお参りにきてくれよ。なあ‥。わしは、カクチャンより人間が良いから、あんたより早う死ぬばい‥。 フウサンの言葉通り、フウサンは逝った。 だけど、あとに生命をながらえた光安氏や寺脇氏は、今を盛りと、フウサンの分も加えて<教育・文化>の世界で頑張っている。 老骨の私は、二人の大活躍を背中に負って、日和山公園の灯台の下へその報告に行き、フウサンと二人で、日本海の夕日を見ながら、フウサンの大好きだった「越乃寒梅」をそなえ、私は「下町のナポレオン」をのむことにした。 酒田での宿は「ホテルリッチ酒田」日和山公園、酒田港(第一、第二、第三)、山居倉庫、本間美術館、本間家旧本邸を中心に見学、心にしみる酒田の一泊二日であった。 とりわけ私には、日和山公園参詣―日本海へ沈む夕日の美しい灯台下での<おとおし酒>、北前船航路を開いた河村瑞賢の像や、芭蕉や蕪村など石川啄木まで含めた二十七人の文学碑の見学、そして池に浮かぶ千石船の撮影―などを楽しんだ。最上川河口にある日和山公園の時間が、私には<最高の時> であった。 古代史を解剖するため大宰府発掘調査に執念を燃やし、史跡の整備、保存に尽くした藤井功と気脈の通じた男たちのロマンと友情。これら新聞記事・エッセイを読み終えて名状しがたい感情にとらわれ、心の高ぶりはしばらく覚めることがなかった。 われわれ同期会旅行初日の山本康雄氏の一言が、大宰府でこのような素晴らしい人間ドラマが展開されたことを教えてくれた。 奈良・平安の時代にかけて、中国、朝鮮半島に向けての外交窓口であり、防衛の前線基地でもあった大宰府政庁。万葉集にも詠われた古代九州の都跡に立って、ここに清澄な知性の灯をともした庄内の大先輩に思いを馳せてみたい。 参照 05年4月「海坂藩の原風景をたどる旅」 2005年6月「母校は七つ蔵の跡地」 |
2014年6月19日 |