「京都御苑」の整備の歴史について

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 

 去る5月15日、京都三大祭り(5月の葵祭、7月の祇園祭、10月の時代祭り)の一つである「葵祭が」執り行われました。この祭りは今から1400年ほど前の欽明天皇の時代に凶作が続き、五穀豊穣を祈ったのが始まりとされています。平安装束をまとった王朝行列が、全長 700メートルに及ぶ行列となって京都御苑内の京都御所の建礼院門を出発し、約8キロメートルの道のりを下鴨、上加茂両神社に向かい練り歩くのです。
 2014年(平成26)1月6日付で、「明治期における「宮城前広場(現皇居外苑)」の整備」と題する投稿をしたのですが、今回は東京遷都後の京都御所周辺が現在の「京都御苑」としてどのように整備されていったかについて、その概要を述べてみたいと思います。
≪里内裏(今内裏)と公家町の歴史≫
 延暦13年(794)、恒武天皇により定められた「平安京」の内裏(皇居、御所)は現在の京都御苑から2キロメートルほど西にありました。しかし、度重なる内裏の焼失により、主に摂関家の邸宅を一時的に皇居とする「里内裏(今内裏)」が置かれるようになり、安貞元年(1227)の火災後は、元の位置に内裏が再建されることはありませんでした。
 現在の「京都御所」は、里内裏の一つであった「土御門東洞院殿(つちみかどとういんどの」に由来するもので、元弘元年(1331)、光巌(こうごん)天皇がここで即位されて以来,皇居とされたものです。明徳3年(1392)の南北朝合一によって名実ともに皇居に定まり、明治に至るまでの500年もの間天皇の住まいでした。
 豊臣秀吉や徳川家康の時代になると、御所周辺には宮家や公家達の屋敷が集められ、幾度となく大火に見舞われながらも明治初期の東京遷都まで、大小200もの屋敷が立ち並ぶ公家町が形成されていました。
≪京都府による「大内保存事業(おおうちほぞんじぎょう)」≫
 明治2年(1869)明治天皇と共に公家らが東京へ移った後、公家屋敷などが広がって公家町を形成していた一帯は大量の空き家の続出により荒廃しましたが、明治10年(1877)に京都に行幸された明治天皇は、その荒れ果てた様子に深く悲しまれ、京都府に対して御所保存・旧慣維持の御沙汰を下されました。これを受け京都府では、直ちに屋敷の撤去、外周石垣土塁工事、園路工事、樹木植栽等の「大内保存事業」を開始し、予定を繰り上げて明治16年(1883)に当該工事を完了しました。
 同年9月、御苑の管理が京都府から宮内庁に引き継がれた後も整備は続けられ、大正4年(1915)の「大正大礼」に建礼門前大通りの拡幅改良等の改修工事が行われ、ほぼ現在の京都御苑の姿が整ったのです。
≪岩倉具視の京都皇宮保存に関する建議≫
 孝明天皇の側近であった岩倉具視は、明治4年(1871)以降右大臣の座にありましたが、千年来続いた京都が衰退することを憂慮し、その死の半年前の明治16年(1883)1月に「京都皇宮保存に関する建議」を提出しました。岩倉は、京都の現状を「まさに狐兎の栖(すみか)ならんとす」と形容するほどに嘆き、14項目に及ぶ具体的提案を行いました。つまり、岩倉は、皇居の保存と京都の復興が、皇室儀礼を再興することで、外部から人々を集め成し遂げられるとしたのです。
 以下、14項目を掲げますと、@三大礼執行ノ事、A恒武帝神霊祀ノ事、B伊勢神宮並神武帝遥拝所ノ事、C加茂祭旧儀再興ノ事、D石清水祭現今ノ男山祭旧儀再興ノ事、E白馬節会再興ノ事、F大祓ノ事、G三大節拝賀ノ事、H宮闕(きゅうけつ)ノ近傍ニ洋風ノ一館ヲ築造スル事、I宝庫築造ノ事、J宮殿並御苑ニ関スル事、K二条城ヲ宮内庁ノ所轄ト為ス事、L留守司ヲ置ク事、M社寺分局ヲ置ク事となります。
 建議@は、
 「三代礼執行の事」として、即位、大嘗会(だいじょうえ)(※1)、立后(りつこう)(※2)の三つの天皇の儀礼を平安京において行うことを提案したものです。そして、これは最も重要であるとして、「根本にして百事是より始まる」と強調しました。
 岩倉は、前述のように明治天皇が明治10年(1877)の京都行幸の際、天皇がその荒廃した状況を嘆き、また、ロシアでは古都モスクワ(当時の首都はサンクトペテルブルクでモスクワが再度首都となるのは、大正7年(1918)です。)で皇帝の即位式が行われているのに倣い、京都復興のために即位式を京都で行うことを提案し、天皇の儀礼を伝統のある京都で行うことを主張したのです。また、岩倉は数々の旧儀旧慣の再興を訴えていますが、
 建議Jとして、
 「宮殿並御苑に関する事」として「九門内を御苑と為し大礼の節儀仗整列すべきの地を布置し美麗仁之を修造すべし(岩倉具視関係文書)」
と儀礼のための空間としての「京都御苑」の整備を提案したのです。
(※1)天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭(にいなめさい:収穫祭)のことです。
(※2)皇后の位につくことです。
≪京都御苑整備に関する岩倉具視の提案と具現化≫
 岩倉は明治16年5月、井上馨らを従えて京都に赴き実地調査を行ったうえでさらに具体的提案をおこないました。その中でまず儀礼の場としては、九門内(現在の御苑には九つの門があり、この門の内が御苑の範囲となります。)に@「平安神宮」の建設を提案し、A毎年例祭式などに儀仗兵を整列させることや、B「府下人民の情願に任せ能楽相撲花火競馬等奉納」をさせることを提案しています。更に、九門内の空間としては、
 九門内御苑の位置を定め通路(広さ20間或いは15間)を区画し高木灌木花木の類を種植し御溝を改造し清水を疏通し常夜燈を建設するの事、但建春門(※3)の東側は三大礼の節儀仗隊整列の場所を区画し広芝と為す事(岩倉公実記)
 と、通路に区画された園地や儀仗兵の整列する「広芝」の設置を提案しています。
(※3)京都御所の周囲を巡る築地(ついじ)壁の東側にある門のことです。
 岩倉は京都御苑の整備に関して平安神宮の整備を第1に挙げましたが、実際は次の経緯により創祀されました。つまり、明治28年(1895)3月15日に平安遷都1100年を記念して京都で開催された「第4回内国勧業博覧会」の目玉として平安遷都当時の大内裏の一部復元が計画され、当初は実際に大内裏があった千本丸太町に朱雀門が位置するように計画されましたが、用地買収に失敗し、当時は郊外であった岡崎に実物の8分の5の規模で復元されました。博覧会後、建物はそのままに、平安遷都を行った第50代天皇,恒武天皇を祀る神社として創祀されたのです。
 ただ、岩倉が京都御苑内で儀仗兵が執り行う儀礼とそのための空間の整備を明示していることは注目に値するものとされています。
 実際の九門内はすでに皇宮付属地の「御苑」として位置づけられ、土地買収、土塁築造、道路設置、植樹等の事業が進められていましたが、この岩倉の意見も道路の改修には反映されました。但し、この段階では20間(38メートル)の道路は実現されず、前述の通り、大正天皇の即位大礼(大正4年(1915))を目的とした整備において,建礼門正面の道路が20間に拡張されました。この改造された空間はほぼ岩倉の提案した空間と考えられています。
 そして、広い通路(道路)に区画された、芝を基調とした園地は明治21年(1885)に東京に出現した宮城前広場の空間構成と通じるところが多いといわれています。宮城前広場の場合は、道路の幅員が最大で50間(90メートル)ほどありますが、園地の幅は百数十メートルと同規模であり、スケール的にも共通するところが多いとされています。そしてなによりも明治16年(1883)に京都御苑が桓武天皇を奉ずる儀礼の空間としての整備が提案されたこと、明治21年(1885)に宮城前広場が、先に説明したように天皇を奉ずる儀礼の空間として整備されたこととを考え合わせれば、同じ「皇宮付属地」の空間整備ということからも、この岩倉の建議が宮城前広場の空間造成に強い影響を与えている可能性は大きいと考えられているのです。
≪岩倉が参考にしたロシアの二都≫
 岩倉が京都で調査を実施していた明治16年(1883)5月、欧州に憲法調査のため滞在していた伊藤博文は、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)の名代として特派全権大使となり、明治天皇のロシア皇帝宛の親書を授かり、モスクワにおけるアレクサンダー三世の戴冠式に出席します。この伊藤の戴冠式への参列と岩倉の建議とは新聞でも並行して報道されており、ロシアにおける二都の関係は、当時の日本の首都位置付けに関して、深い関心をもって捉えられていたと言います(高木博志氏の「近代天皇制の文化史的研究」参照)。そして、明治21年(1888)には枢密院会議において即位礼と大嘗会(だいじょうえ)を行う場は京都と決定され、岩倉が天皇の意見であるとして示した、京都と東京を、ちょうどモスクワとサンクトペテルブルクのような、国家儀礼上の二つの首都として位置づける構想は現実のものとなるのです。具体的な都市空間としては、岩倉がどの程度ロシアの二都を参照したのかは不明とされていますが、当時の政府は、皇室の儀礼を欧州の諸王室から盛んに学んでおり、王室の伝統があるという意味で特にロシアの影響を強く受けていたといわれます。19世紀初頭に整備されたサンクトぺテルブルク王宮前の広大な広場は、政治的、宗教的、軍事的で壮大な儀礼のための空間として整備されたものであり、岩倉自身もかつて大久保利通や伊藤博文等と共に不平等条約改正のために、明治4年(1871)1月から1年10ケ月にわたって自らが特命全権大使となって欧州を訪れた際、その空間に接しています。
『公園の誕生』の著者、東京大学大学院農学生命科学研究科小野良平准教授は、これ等のことから京都―東京をモスクワ―サンクトペテルブルグとのパラレルな(平行、並行、並列の意)関係として頭の中に描く岩倉は、京都御苑と宮城前広場の空間を相同的な国家の儀礼空間として整備することを願っていたのではないかと述べています。
≪現在の京都御苑≫
 前述の通り明治10年(1877)の行幸の際に明治天皇が御所の保存を命じたことを受けて京都府が、火災の延焼を防ぐため、御所周辺の空き家となった公家屋敷を撤去して整備を始めたのが、京都御苑整備のそもそもの始まりです。この京都御苑は今出川通(北側),烏丸通(西側)、丸太町通(南側)、寺町通(東側)に囲まれた範囲で63へクタールの広さを有し、木々が生い茂る公園内には、京都御所、仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署、京都迎賓館等の宮内。内閣府・皇宮警察関連施設をはじめ、公家屋敷の遺構、京都御苑の大部分の管理を行う環境省京都御苑管理事務所のほか、グランドやテニスコートなどもあって京都市民の憩いの場となっています。
 公家屋敷の遺構としては、宮家のものとしては、南西部に閑院宮家の邸宅が保存されており、北部には桂宮家の邸宅の築地塀と表門と勅使門が残ります(内部の建物群は二条城に移築されています。)。桂宮家は現在非公開ですが、閑院宮家と同じく庭園と池が残っています。西側中央部には、元女院の御所で、後に嘉陽宮家(かやのみやけ)が一部を使用していた邸宅の庭園の遺構が残り、曲水の宴を催すことができたであろう小川があります(出水の小川と呼ばれます。)。公家の邸宅内にあった鎮守社である宗像神社、厳島神社、白雲神社や井戸も、御苑内各所に残っています。又五摂家の近衛家や九条家の庭園の池である近衛池や九条池はよく保存されており、かつての公家の生活を偲ぶことができます。
 昭和22年(1947)に同じく皇室苑地であった「新宿御苑」「皇居外苑」と共に「京都御苑」は「国民公園」とすることが閣議決定され、昭和24年(1949)に厚生省(昭和46年に環境庁(現環境省)が発足すると環境庁)に国民公園の管理運営は、自然保護行政と共に移管されました。ただし、現在は、京都御所、仙洞御所、京都大宮御所の敷地内は宮内庁が、平成17年(2005)4月開館の京都迎賓館は内閣府が管理し、それ以外は環境省が管理しています。

(参考にした図書等)
『大江戸古地図散歩』(佐々悦久、2011年2月13日第1刷発行、株式会社新人物往来社)、『東京都公園協会監修・東京公園文庫9・皇居外苑』(前島康彦著、1981年2月1日第一刷発行、株式会社郷学舎)、『歴史文化ライブラリー157・公園の誕生』(小野良平著、2003年7月1日第一刷発行、株式会社吉川弘文館)、『緑と水のひろば』(公益財団法人東京都公園協会、winter 2012)、『「古都」京都と天皇制の可視化』(保本野夢、空間・社会・地理思想9号、2004年).環境省ホームページ
2014年6月28日