─庄内藩の女性たち(6)─ 第四章 正室鳥居姫(一)
時間が少し前後するが、取材の様子なども記しておきたい。
2012年の春は遅く、桜の開花も遅れた。4月21日、鶴岡はようやく前日に開花宣言がされたばかりだった。既に私の住む新潟市では桜は満開だったし、途中「いなほ」の車窓から眺めた新発田の桜も見事だった。駅からぶらぶらと歩いて山王神社の前を通り、内川の川端通りに出て、朱塗りの三雪橋を渡り、鶴岡公園に行く。露店や人出はあるものの、肝心の花はまだほんの少ししか咲いていない。やはり鶴岡は北国なのだ。
鶴岡図書館に行くつもりだったが、歩き疲れたのでどこかで一服することにした。図書館の手前の道を折れると、大督寺のある通りに出る。ここら辺りにその昔、長門守が住んでいたのだったなあ、若き無頼漢の末松彦太夫も往来していたのかと思うと、急に空気が濃く感じられる。
もう少し歩いて喫茶店「海坂」に行く。あ、「おふくセット」でお願いします。お抹茶に練り切りの和菓子がついて450円。美味しいです!
さて、甘いもので疲れもとれたし、図書館の二階の郷土資料館に行きますか。今日の調べ物のテーマは「忠勝公正室・鳥居姫」である。花ノ丸、後花ノ丸、西田成羽はいずれも「庄内人名辞典」に記述があるのに、鳥居姫はない。諡の「明法院殿」で引いても無い。こうなったら私の不得意分野の古文書に直接当たるしかないのである。といっても古文書は閉架図書だし、専門家の指導がなければ、殆ど読めない私である。
この日は資料館専門研究員のK氏に史料を探して頂いた。
鳥居姫はいつ忠勝公と結婚されたのでしょうか?
「あ、これですね。酒井家世紀(一)に、忠勝公松代城に在りしときに、鳥居左京亮の女(むすめ)御入輿有り、とありますね」
「え、今、なんと言われました?松代って、本当に?」
本当だった。何度見直しても「松代」の字は私でも読めた。そ、それはつまり、えーっと。私は巡りの良くない頭をフル回転させた。
「それって、側室の花ノ丸の方より後ってことになりますよ」
もっと詳しく調べたかったが、午後5時で資料館は終了なのであった。夜は高校のクラス会があるから、すべては明日ということにした。
翌日、私はもう一度郷土資料館に出かけた。思いがけない展開に胸がどきどきしていた。私と高校で同期生の研究員A氏は出勤しておられたので、彼をおおいに煩わせて、色々な古文書を探して頂いた。そこから浮かび上がってきた事実の様相は、私の貧弱な想像力を遙かに凌駕するものばかりだった。
最初に確かめたことは、鳥居姫の輿入れの時期だった。複数の史料が「松代」と示していた。忠勝公は元和八年に庄内に入部する前、越後高田に三年弱、ついで信州松代に約四年居た。花ノ丸が長男忠当公を生んだのは越後高田城だったし、次男の忠俊公を生んだのは松代でのことだった。その松代に鳥居姫は正室として、忠勝公に嫁いできたことになる。
「こういう視点から調べた人が今まで誰もいなかったので、ちょっと気がつきませんでしたなあ」
と研究員のA氏が言われた。歴史上、女性を調べる時に史料が少ないのは事実だったが、こういう風に、まだ調べられていなくて日の目を浴びていない史料もまだまだあるのかもしれない。私も心を入れ替えて、できる限り第一次史料に当たる努力をしなければと、心に誓った。同時に、庄内藩主となってからの酒井家のみならず、もっと広く他家も含めた前史を調べる必要もありそうだった。
鳥居姫は鳥居家から輿入れしたから「鳥居姫」と呼ばれている。「御名詳らかならず」、つまり本名は分からない、としか記述がない。後からざっと調べたら、鳥居姫の祖父、鳥居元忠は徳川家康の側近中の側近で、関ヶ原の戦いの前、家康が会津征伐の途につくときに、伏見城の死守を頼んだ人物であった。会津征伐は大河ドラマの「天地人」の後半では最大の見所で、直江兼続が石田三成と謀って、徳川を挟み撃ちすべく待ち構えていた訳だが、三成の挙兵が早すぎ、なおかつ伏見城を守った鳥居元忠が十日ばかりも持ちこたえた御陰で、家康は取って返すことができ、関ヶ原の戦になだれ込むことになった。伏見城を三成勢に攻められた際、鳥井元忠は奮戦、そして落城と共に果てた。「三河武士の勇猛果敢」を天下に示したことを、家康はじめ徳川家は代々の恩義として忘れなかったという。
徳川家による天下平定が成った元和年間、鳥居姫は酒井家に嫁いできた。この時、実家の鳥居家の領国は磐城十二万石(現福島県)である。但し、姫の父親の鳥居忠政は大阪夏の陣、冬の陣を通じて江戸城の留守居役をしていたから、家族達も江戸に住んでいたとする方が自然であろう。縁談が成立し松代に入る前に、鳥居姫は花ノ丸の存在を知っていたのだろうか。多分、知らされなかっただろう。もし知っていたとしても、その人が既に男子を生んでいることを、どう感じたのだろうか。
鳥居姫の正確な輿入れの年月日は今の時点では分からないが、高田と松代の在任期間中の忠勝公の動きを調べれば、元和何年かくらいの見当はつきそうな気がする。高田、松代時代の酒井家を鳥瞰してみよう。
「上越市史 通史編四 近世二」によれば、忠勝公の父の酒井家次の高田拝領の時期について、四つの説があった。その中でもっとも妥当なものは、元和二年七月に酒井家次が松平忠輝の改易を受けて、高田城の受け取りに出向き、その処理が一段落した十月に正式に拝領が決定したという説である。
その頃、忠勝公と花ノ丸も高田城に一緒に暮らしていたと思われる。何故なら「花ノ丸」の命名の謂われは「越後高田城の郭の名なり」と(酒井家旧記九 政運公(酒井忠当)御世記 六)に記されているのを、今回確かめることができたのである。これも大きな収穫だった。
家次公がずっと高田城に居たかどうかは分からない。徳川家の最古参の家柄の酒井家は、常に将軍の護衛として近くに控えている必要があったようだから、高田は嗣子忠勝に任せていたかも知れない。「上越市史」に
「元和三年七月、将軍秀忠は諸大名を率いて上洛しており、家次もこれに従ったと思われるが、いずれも史料的な裏付けはない」
とある。ともあれ、父親家次公の留守を預かる忠勝公が高田城に居た元和三年八月五日、花ノ丸の方は嗣子忠当を産む。
その翌年、高田拝領からわずか一年半後の元和四年三月十五日、酒井家次は五十五歳で江戸に没した。死去を受けてすぐの四月に、酒井忠勝は二十四歳で家督相続をした。忠勝公が信州松代に移封された時期については、元和四年と五年と二つの説があるようだが、「上越市史」では、「家次の死去により忠勝は家督相続を許されたが、領地は信州松代に替えられたとする方が妥当性がある」として、元和四年説をとっている。
では、松代での忠勝公はどういう生活だったのか。家督を継いでからの彼は忙しい。元和四年八月には既に松代に移っているようだが(長野市誌第3巻)、のんびりする暇もなく元和五年六月、改易された福島正則の安芸広島城の受け取りを命じられている。この時は酒井家だけではなく、西国大名の多くが出陣を命じられたようだ(「日本の歴史16 講談社」より)。将軍秀忠は戦も視野に入れていたのかも知れない。福島正則は逆らわず、城の明け渡しは滞りなく行われ、酒井忠勝は事後処理のため、しばらく広島にとどまったという。ちなみに、福島正則公は信州高井郡(長野県小布施)に左遷され、そこで生涯を過ごした。栗の殖産を奨励し、現在小布施の栗菓子は有名で、地元の人々は福島正則公に恩義を感じているようだ。
忠勝公が信州松代に帰還したのはいつなのだろう。安芸広島は遠い。想像するだけだが、翌年の元和六年になっていても不思議はない。元和八年の庄内入部まであと二年。その間、花の丸の方との間に次男忠俊が生まれるのが、元和七年(生年月日不詳)である。鳥居家から姫が輿入れしたとすれば、元和六年か七年だろうか。或いはぎりぎり八年の春頃の可能性もある。徳川家の天下支配の一翼として元和八年、山形の支配を任されるのは鳥居家であり、その時点で新庄戸沢家も庄内酒井家も、鳥居家の女婿なのだから。藩主の結婚はすなわち政事であった。
|