曽祖父が祖父に送った書留郵便

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
≪春の切手展で見つけた先祖の遺物≫
 2014年(平成26)5月23日、山形郵趣会の「平成26年春の切手展」を観る機会がありました。私も小、中学生のころに一時切手の蒐集をやったことがあり、また、学生時代には郵便局で集配先への振り分けをするアルバイトを夜間に実施したこともあって、あれこれ展示の内容を想像しながら会場に出かけてみました。
 言うまでもなく切手展は、切手蒐集を趣味とする皆さん方がそれぞれ収集した切手を花、鳥類、建築物、人物など、一定のテーマの下で整理して展示するものが一般的で、当該展示会においても「自然を彩る世界の蝶」と題して美しい蝶の切手蒐集を披露したり、世界の珍獣であるパンダの中国切手を「ジャイアントパンダ」と題して纏めたものなどがあったのですが、これ以外に当該展示では、例えば「明治初期の山形郵便局消印」として消印の歴史を表示したものがあったりしてかなりアカデミックな作品もありました。出展作品は20と多く、いずれも素晴らしいものばかりでした。
 その中に、酒田出身で現在は千葉県市川市にお住まいの富樫敏郎さんが出展された「鶴岡局の郵便印」という作品があったのですが、その中になんと私の母方の曽祖父が東京で医学の勉学に勤しむ祖父宛に送金をした書留郵便が展示してあるのには本当に驚きました。出展の狙いは、日付印の変遷をテーマとしたものですが、私にとってこの作品は、まったく想定していなかった先祖の遺物に遭遇させてくれた感激の展示会でした。
 郵便物は裏面で和紙の先端が糊付けしてあり、現在の「ミニレター」といわれる郵便書簡形式のものと類似していました。
 封書の表面には祖父の寄宿先である「東京神田佐久間町二丁目23番地 殿村定治殿方」と宛先人である「星川幸孺(さちわか)殿」の他、「6号書留(朱書き)」と「要用至急平安」が、更に、「東京、・16・5・10,チ」と16年5月10日に東京に到着したことを示す「スタンプ(二重丸型日付印)」が押印してありました。なお、「チ」とは、郵便物を集配した時間帯を表すもので、「イ」から「ロ」までの13種類があり、「イ」は8時10分から30分まで、「ロ」は9時25分から45分までの集配を意味するものなので、「チ」は15時25分から45分までの集配を表すものと考えられます。
 一方、封書の裏面には差出人である曽祖父の住所と氏名として「羽前国西田川郡鶴岡鳥居町159番地、星川清晃」とあり、「5月5日出ス」との記載もありました。
 切手は現在では封書の表面に貼るのですが、この場合、封書の裏面に「4銭切手」が2枚添付されていて、5月5日に受け付けたことで「羽前・西田川鶴ケ岡、16・5・5」の「スタンプ(二重丸型日付印)」で消印されていました。
 以上を基に、この展示郵便物について調べてみて判明したことを纏めてみると次のようになります(『山形百年』(毎日新聞社、昭和43年11月5日)、『鶴岡郵便局』(ウィキベディア)、『博物館ノート』(郵政博物館)参照。)。
 1 鶴岡で郵便の取り扱いが始まったのは、1872年(明治5)7月1日に「鶴ケ岡郵便取扱所」が開設されてからであること。
 2 翌年4月1日には、「鶴ケ岡郵便取扱所」が「鶴ケ岡郵便役所」と名称を改めたこと。
 3 封書の写真から当時も現在の「ミニレター」といわれるものと同様の和紙の郵便書簡があったと思われること。
 4 郵便料金は、一般的な書状では目方7.5グラム(2匁)までで2銭切手を用い、重要な書類では、「書留」と朱書きして手数料6銭の上乗せが必要であったこと。
 5 二重丸型日付印は、文字どおり二重の同心円で構成された丸形の日付印で、内側の丸の中には局名(鶴岡や東京)、外側の丸には旧国名・郡名・郵便役所名・年月日・時刻が組み合わされており、最初の統一日付印であったこと。この日付印は1873年(明治6)に郵便料金が全国均一料金となったことに伴い、東京、大阪など大きな郵便局で使用され始め、その後翌1874年(明治7)10月に「日付印捺印心得方」が制定されて、全国の郵便役所(郵便局)で使用されるようになり、1888年(明治21)8月まで使用されていたこと。なお、当時鶴岡、東京間は日付印から見て5日の日数を要したこと。
 6 1873年(明治6)に信書の重量を基準に遠近を問わず全国統一の逓送料金となり、このときから「郵便税」という名称が採用されたこと。そして、このような名称は1903年(明治33)に「郵便法」が公布されるまで続いたこと。これは、従来の「賃銭」という言葉に対抗して「税」という言葉を用いることによって全国一律料金という性格を強調したかったためといわれていたこと(『租税資料・郵便税の時代』(税務大学校研究調査委員今村千文))。
 7 「幸孺」というのは祖父、清民の幼名であるが、祖父は1883年(明治16)、18歳の時に「済世学舎」で西洋医学を修めるため上京していて、すでに成人であるにも関わらず、曽祖父は宛先名に幼名を用いていたこと。
 この手紙の内容を知りたくて山形郵趣会会長の坂野幸雄さんに封書の表と裏及び手紙本文の写しをいただきたい旨お願いしたところ、快諾していただきましたので、その内容は別途お示ししてみたいと思います。
≪飛脚から近代郵便制度へ≫
 ところで、明治初期の日本の郵便制度について、その制度創設の経緯を簡単に纏めてみると次のようになります。
 江戸時代まで手紙を運んでいた「飛脚」は、中国の唐の制度に倣って「大宝律令」で確立された「駅伝制」を利用したもので、おおよそ16キロメートルごとに駅を設けて、馬の乗継と宿泊施設を整えたものです。鎌倉時代には街道も発達して早馬が走るようになりました。
 当初は「公の制度」でしたが、江戸時代には諸国の大名が江戸と領国とを結ぶ「大名飛脚」を創設し、また、庶民が利用できる「町飛脚」というものもできました。参考までに脚夫のスピードは時速6キロメートル(1里半)であったそうです。
 明治維新を迎え、後述するように前島 密が「駅逓権正(えきていごんのかみ)」に就任した時、政府の手紙を地方に送るために飛脚業者に支払っている金額の大きさに驚き、前島は、政府だけではなく、誰しもが安価に利用できる飛脚に代わる新しい制度をイギリスの制度に倣い創り出さねばならぬ必要性を痛感したのです。
 この新しい制度は、1871年(明治4)に前島らによって確立されたのですが、日本における近代郵便制度が従来の飛脚制度と異なる点は次のとおりです(『ニッポン初めてヒストリー/学研キッズネット』参照。)。
 1 逓送経路を定めて定期的に国営で配送する(利便性と安全性)。
 2 料金前納の証拠として切手を使用すること。
 3 郵便ポストを設置して、どこでもだれでも手紙を出せること。
 4 宛名先に一軒一軒配達を行うこと。
 5 料金は距離・重量制とする(1873年(明治6)に郵便料金が全国均一料金となった)。
 当然、新制度には従来の飛脚業者の反対が起きることが想定されましたので、政府は、従来の飛脚業者が集まった「陸運元会社(現日本通運株式会社)」を設立させ、郵便物の輸送などを国が委託するような手だてを考えました。
≪日本の郵便制度を創設した人たち≫
 次に、この郵便制度を確立した前島 密とその部下である杉浦 譲について簡単に纏めておきます。
 前島 密は、1835年(天保6)、越後の国頸城郡下池部村(現新潟県上越市大字下池部)の豪農の家に次男として生まれて、幼名は房五郎といいました。父親がほどなくして亡くなり、母方の叔父糸魚川藩医相沢文仲に養われましたが、12歳の時江戸に出て医学、蘭学、英語などを学び、さらに、函館では航海術を学んで、1866年(慶応2)数え32歳の時に幕臣であった前島家の養子となります。当初は、幕府の開成所の翻訳筆記方、そして数学教授となりました。
 神戸が開港すると、外国貿易を取り仕切る「兵庫奉行」の補佐となって外交人居留区の生活規則を翻訳して頭角を現し、税関や保税倉庫の事務も行うようになりました。
 徳川慶喜が大政を奉還し、徳川家が駿河に移ると、駿河藩の役人となって、徳川家を継いだ徳川家達(とくがわ いえさと)を補佐して「遠州中泉奉行」として、江戸から移住してくる旧幕臣達のために住居を整備したり、織物や養蚕を習わせたりしました。 奉行職が廃止になると藩内の新しい産業を興して特産物を創出するための「開業方物産掛」という職に就きました。
 明治維新にともなう新政府の首都について、大久保利通は大阪首都論を考えていましたが、前島は江戸遷都論を唱えていました。また、国民に学問を普及する為には、漢字を廃止してひらがなを国字とすることを主張した漢字廃止論者でした。 1869年(明治2)、新政府の招聘により民部省、大蔵省に出仕します。このころ「密」と改名しました。
 翌年には、「租税権正(そぜいごんのかみ)と宿駅から宿駅へ次々に荷物などを送る役職のトップである「駅逓権正」を兼任します。そして太政官に「郵便制度」創設を建議し、この年郵便制度視察及び鉄道建設借款契約締結のため渡英をします。
 1871年(明治4)8月、帰国して「駅逓頭」に任じられ、「郵便制度」創設に尽力し、日本の近代郵便制度の基礎を確立しました。その肖像は1円切手になっています。
 前島は、郵便の創始者として有名ですが、このほか海運、新聞、電信・電話、鉄道、教育、保健など、その功績は多岐にわたっています。
国営事業として郵便創業が布告されたのは、1871年(明治4)1月24日で、3月1日(新暦の4月20日)に事業がスタートします。
 前島が渡英することに伴い、駅逓権正の職に就いたのは、やはり幕臣であった杉浦 譲という人物でしたが、彼は書状集箱(郵便ポスト)の形や郵便用具の企画、切手の図案などを具体化し、郵便事業創業に向けての準備をしていました。
 杉浦は甲斐の国山梨郡府中(現山梨県甲府市)出身で、前島と同様幕臣で、明治維新後駿河藩の役人となって前島の部下として働きだしました。郵便事業に携わった後は、東京日日新聞や冨岡製糸場の創設にも関わっています。また、早くから四民平等を唱えたほか、地租改正の必要性を訴えた人物でもありました。前島の名に隠れていた存在ですが、前島の留守中に郵便創業に向けて種々準備をしていたのです。
 前島も杉浦も旧幕臣でしたが、幕臣の多くは新政府への反骨を胸に秘めながら、政界、言論界、実業界などで頭角を現し、日本の近代化を下支えしていったのです。例を挙げれば、言論界の東京日日新聞主筆の福地源一郎、経済界の渋沢栄一、三井物産の初代社長益田 孝、東京の都市改造に大きな影響力を与えた田口卯吉などがいます(『日本郵政(株)ホームページ』、『甲府市ホームページ』、『江戸っ子の意地』(安藤優一郎、集英社新書、2011年5月22日)参照。)。
≪山形県における近代郵便制度≫
 山形県では、1872年(明治5)7月1日から、置賜県、第2次山形県、第2次酒田県において郵便取扱が開始されています。その開始に先立ち4月にはこれら3県における「実測里程表(郵便路線は、羽州街道の楢下で第2次山形県に入り、3県内の各地に及んだ。)」と「郵便取扱人(郵便路線に面したそれぞれの地域の素封家に委託された。)」が発表されています。
 当時の郵便物は時速6キロメートル(1里半)の脚夫によって運ばれましたが、東京との所要日数は、米沢と山形が5日、酒田が7日でした。鶴岡は酒田と同様であったと思いますが、前述の書留便は5日で到着しています。また、東京との郵便回数は上下とも月に6回でした。
 料金は、前述のとおり1873年(明治6)4月からの全国均一料金になる前は、書状が100キロメートル(25里)以内で目方15グラム(4匁)まで1銭、80キロメートル(20里)以内で目方15グラム(4匁)まで5銭というように目方と距離によって差がありました。
 郵便制度発足当時は、一般庶民はよほどのことがなければ遠方まで手紙を届ける必要はありませんでした。大店の商用または県庁、郡役所、町村間の下達、進達が主でした(『山形県の百年』(岩本由輝、山川出版、1985年8月20日参照)。
≪曽祖父から祖父宛の手紙の内容≫
 曽祖父から祖父への手紙の内容については、そのコピーを頂戴したのですが、達筆な 毛筆で書かれており、古文書の解読力に劣る私には、現代語に改めるのは極めて難解な作業でした。結局、最後には同窓の秋保 良さん(第75回、昭和43年3月卒、鶴岡市郷土資料館勤務)の力をお借りしてしまいましたが、その本文全文は次の通りです。秋保さんにはこの場をお借りして衷心より御礼申し上げる次第です。
【本文の解読文】
 一書申し進め候。先便委細申し遣(つかわ)し候一条は寛隆氏へ熟談の上、宜しく相運び候様致すべく候。今度上着については余儀無き入費も相察し候間、別紙郵便為換手形を以て金八円差し登せ候間、是にて万緒節倹いたし取り賄うべく候。先便も申し遣し候通り書籍類を始め借用にて相済み候分は決して買い求め候には及ばざる事に候。下宿の事も豫(かね)て申聞け候通り殿村氏へ依り候へば入費相係(かか)らず、万事宜しく、不便の処は却って心静かに勉強も出来、学問の為にも相成るべく候。自由繁花の処は自然騒々しく、無用の交際のみ出来、学問の為には以(もって)の外宜しからず。無用の散財多く遊惰に至り候もの也。外二人の衆へも能(よ)く心付け、互いに勉強に実の入り候様に致すべく候。自分の金にて自分の遣い候には、無用の世話など言ふも有るべけれど、是は大間違ひにて、散財は則ち不勉強の基たる事を弁ぜざる申し分也。能々(よくよく)御互いに心付くべく候。此度は未だ外出も致さざる為に大いに不都合の処、当分野坂君へ配慮に預かり送金相成り候間、後便厚謝致すべく候。右用事迄忽々(そうそう)申し進め候。
  五月八日                     星 川 清 晃
        星 川 幸 孺  殿

尚々、当方一同無事、我病気も弥(いよいよ)快方につき案事くれまじく候。五十嵐氏、殿村氏、其外へもよろしく。

過ぎ去りし事ながら上着の電報、拙者のみ来り候つもりにて三軒へ知らせ候処、各家へも電報これ有り、行き違いに照井氏よりも知らせ候事に候。余り悉(ことごと)しく候、一軒へ相係(か)け候へば十分なるに、都(すべ)てケ様(かよう)の心得にて、無用の散財に及ぶべくと皆閉口の事に候。余りポンヤリした若衆と言わぬはなし。能々心付くべく候。先便より呉々も申し遣し候事相考え申すべく候。

差出人 山形県羽前国西田川郡鶴岡鳥居町百五十九番地 星 川 清 晃
請取人 東京神田佐久間町二丁目二十三番地殿村定治方 星 川 幸 孺

【本文大意】
 先便で申し上げた件は、寛隆氏とよく相談して進めるように。今度の上京については、やむを得ない出費はあるであろうが、別紙の郵便為替で八円を送金したので倹約してこれで暮らしていくように。先便でも言ったように、書籍類は借りられるならばあえて買い求める必要はない。下宿の件も、かねて言っているように殿村氏に頼めば経費もかからず、万事うまくいく。場所が不便でも、心静かに勉学するうえでは却ってよい。繁華街は騒々しく無用な交際のみ多く学問の為には大変良くない。無駄な散財も多くなり、遊び怠けるようになる。他の二人へもよく注意してお互いに勉強に専念するように。自分の金を使うのに無駄なお世話だという人もいるが、是は大間違いで、散財は勉強しなくなる一因である。お互いによく気を付けるように。

 なお、追伸的な文面では、面白いことに祖父が上京した際に曽祖父宛ての一通の電報だけでよかったのに、親類の家にも打電したことは無駄遣いだと説教されています。
 この時期曽祖父は53歳、1878年(明治11)に第2代出羽神社宮司を辞して鶴岡神道事務分局に勤務していましたが、経済的には余裕がなく、知人の配慮により都合した学資を祖父に送金した様子がこの手紙から読み取れます。そして、医学の勉強に励む息子には、遊びにかまけず、ただひたすらに実学を練磨し、その目的を達成するよう諭しています。その甲斐あって、祖父は24歳で帰郷し、鳥居町で「内科・星川医院」を開業しています。
 送金した8円が、現在のお金にしてどのくらいのものであるか、ある人が『続・値段の風俗史』(朝日新聞社)、「物価の文化史辞典」(展望社)、日本銀行ホームページ資料などを参照して算出した結果を見ると、「1897年(明治30)当時の1円は、現在の2万円ぐらいの重みがあったのでは」としています。そうすると送金した8円は現在の金額で16万円ということになります。
 現在地方から東京の理科系大学で学ぶには、共立メンテナンスの資料によると、生活費が月平均11万円ほど必要で、それにいわゆる月謝(授業料)が国立大学で月4万5千円ほどかかりますから、合計で15万5千円ほどになります。そのほかに実習経費なども必要ですから一概に当時と現在とを比較するわけにはいきませんが、16万円という仕送りは決して余裕のある金額ではなかったと思います。
 また、文中には、寛隆、殿村、野坂、照井、五十嵐などの名前が出てきますが、このうち照井は照井長柄のことで、彼は曽祖父らの師である鈴木重胤の遺著『日本書紀伝』の校合を実施した仲間です。
 なお、この二人の人物像については、曽祖父(星川清晃)については、私が2011年2月4日に投稿した『出羽三山における神仏分離(二のA―2)』において、祖父(星川清民)については、2013年5月25日に投稿した『温海では、なぜ、遊女のことを「粟蒔女(あわまきおんな)」と呼んだのか(2〜2)』において詳述しておりますので、こちらを参照していただきたく本稿では省略します。
2014年8月9日