─庄内藩の女性たち(7)─ 第四章 正室鳥居姫(二))

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 ─庄内藩の女性たち(7)─ 第四章 正室鳥居姫(二)
 忠勝公と鳥居姫の婚儀の時期について、少しでも絞り込むべく史料を当たっていたら、興味深い記事があった。「大泉紀年」の元和八年の末尾に、「今年、御入国に際して松代から庄内に移ってきた寺院」として、大督寺、総穏寺、安国寺、蓮昌寺など七つの寺院があった。その中の蓮昌寺の書付に鳥居姫と二の丸様の名が出てくる。内容をかいつまんで書く。
 「松代に居りましたとき、高力但馬妻の御姉上が亡くなられました。元和六年九月二十六日です。住持が引導をお渡しし、御本丸様、二の丸様が施主となられました。その後も度々お二人は参詣されました」
 御本丸様は鳥居姫、二の丸様は忠勝公の御生母の庄内での呼称である。家老高力但馬の妻は、田舎といい、忠勝公の妹だから、その姉というと二の丸様の娘であり、忠勝公の姉か妹に当たる。この記事には後世の史家の注釈がついていて、田舎には姉が二人おり、蓮昌寺の書付ではその二人の名が取り違えて書かれていることと、死亡時期が一説には元和四年ではないかとある。ここではそこに深入りはせず、元和六年の秋頃には鳥居姫と二の丸様が松代で連れ立って寺院に参詣していた、という点が押さえられれば良しとしたい。ちなみに、高力但馬と田舎の間に生まれた長男が高力喜兵衛。長門守一件で終始忠当公に味方し,ついには「永御暇」の処分を受ける事になる人物である。

 忠勝公が元和五年に福島正則の安芸広島城の受け取りに赴いたことは先回述べたが、その間に縁談が進んでいたとすれば、広島から松代に帰還し、一息ついた元和六年の婚儀は自然であるので、ここでは元和六年の春に輿入れしたと仮定して先に進もう。

 さて、いよいよ実際の婚儀が行われるわけだが、これが分からないことが多い。「酒井家世紀一」忠勝公の項に、三行ほどの記述があるだけだ。
 「夫人鳥居姫君(御名詳らかならず)鳥居左京亮忠政が女(むすめ)なり 公(忠勝公)松代城に在りし時姫君入輿有り 家老石原主馬重秋貝桶を受け取る」
 「貝桶」を受け取る役目が家老の石原主馬重秋だったことしか分からない。さてさて。仕方がないので、この当時の藩主クラスの婚儀を叙している小説などを参考にしよう。骭c一郎著「捨て童子 松平忠輝」(講談社文庫)によれば、徳川家康の六男の忠輝公と伊達家の五郎八姫(いろはひめ)の場合はこんな具合である。
 「慶長十一年十二月二十四日、五郎八姫を乗せた輿は江戸桜田の伊達藩上屋敷を出て、竜の口の川中島藩上屋敷に入った。御輿は政宗の片腕と言われた伊達安房成実が宰領し、御貝桶を捧げるのは伊達家の宿老原田甲斐宗資、御太刀目録は○○、御輿副えは○○、」と続く。
 「貝桶とはこの頃の嫁入り道具の一つで、左右の貝がぴったり合うことから和合の象徴とされ、豪華な蒔絵がほどこされた六角形のもの二つだったようだ。三百六十個の貝が左貝と右貝に分けておさめられ、貝の一つ一つの内側に絵が描かれていたという。」
 忠輝公の場合は江戸での婚礼だったので、両家の中間の細川家の辺りで花嫁側から花婿側に引き渡されたようだ。この時代、婚姻に人質の意味も含まれていたのである。
 さて、酒井家の場合はどうだったのだろう。もはや世は平和で、幕府の意向の下に、忠勝公は領国経営に専念している時だった。鳥居家という同じ徳川家の譜代大名家同士の結婚ということであれば、「公 松代城に在りし時」という記述に敬意を表し、ここは鳥居姫側から松代に直接来て頂くことにしよう。以下、「有職故実図典」(吉川弘文堂)、「お江戸の結婚」(菊地ひと美 三省堂)、などを参照しつつ、想像をたくましくして、こうでもあったろうか、というスケッチを試みることにしよう。

 元和六年春。鳥居姫一行は江戸を出てから六日ほどかけて、信濃善光寺に着いた。信濃にも遅い春が訪れていて、そこかしこに山桜が満開である。ここまでくれば松代は軽く一日行程だった。一行はすぐには松代に入らず、善光寺の高級旅籠(後の本陣宿)に落ち着き、旅の疲れを癒した。姫は行く末の幸を神仏に祈るため、善光寺に参詣したことだろう。その間、酒井家から用人が来て、当日の手筈の最終打合せなどがあり、するべきことはいくらでもあった。
 婚礼当日、鳥居姫は全身白装束に身を固めた。練り絹の白小袖を着て、その上に白綾錦の小袖を着、地紋入りの白の織地の帯を締め、その上に白の打掛を着用した。頭上には白の被衣(かづき)を被る。これはかぶり物専用の着物で,仕立ても異なるらしい。後に綿帽子などに変わっていく。なお、髪は結い上げず,古風な「すべらかし」だったと思われる。
 出立の朝、まだ仄暗さの残る頃、宿では門火を焚いて送り出してくれた。花嫁は輿に乗り、籠かき人夫の装いは烏帽子に十徳・白帯である。輿の中には雌雄一対の犬張子の箱が二つ置かれている。犬の多産と安産にあやかるためである。行列はゆるゆると進んだ。夕暮れまでに松代城に着けばいいのだし、輿が揺れて花嫁の気分が悪くなったら大変である。
 昼頃、武田信玄と上杉謙信の闘った千曲川河畔の川中島に着く。一同、ここで大休止をとり、宿で手配した弁当を遣う。鳥居姫は山国の空の深い青の下で、風に散り始めた桜を眺め、甲高く鳴き交わす小鳥の囀りに耳を傾けたりしたろうか。それともこれから先の新しい生活を思って、あれこれ胸を弾ませたり、不安がったりしていたのだろうか。 午後、千曲川にかかる橋の袂まで酒井家の重臣達が出迎えていた。そのまま松代城下を通り、城に入る。多分、住民達もお殿様の花嫁に敬意を表しに、沿道に居並んでいたことだろう。日も暮れ始め、高張り提灯を捧げて進む一行の行く手に、大手門に赤々と篝火が焚かれている松代城が見えてくる。
 輿が門内に入るときに、ここで古式に則り「請取渡しの儀」がある。鳥居姫側の貝桶渡役人が二人貝桶一対を持ち、口上と共に、酒井家側の請取役の石原主馬重秋に渡した。それから「輿寄せの儀」があり、輿ごと本丸内の然るべき部屋へ通される。ここで花嫁は化粧を直し,つかの間の休憩を取る。
 いよいよ祝言の席となる。現代と違って両家が居並んだりしない。媒酌の「待上臈」と花婿、花嫁、控えの女房が二人ほど居るだけである。三三九度の盃が交わされ、「饗の膳」が出る。これも新夫婦だけの祝宴で、父母、兄弟、親族は立ち会わない。忠勝公の装いはどのようなものだったのか。公は慶長十四年正月将軍秀忠公に召されて元服し、諱一字を拝領して忠勝を名乗り、従五位下宮内大輔に任ぜられている。着るものについては階級制があるので、この時は侍烏帽子に直垂(ひたたれ)であったろうか。袖も大きく,裾が長い。
 「水入らず」の祝言の翌日は親族との式がある。花婿も花嫁も「色直し」する。鳥居姫は赤い着物を着、忠勝公も直垂よりくだけた裃を着たことだろう。いわゆる披露の祝宴である。さて、この時の親族の引き合わせに際して、花ノ丸殿とその子忠当公(幼名小五郎)は出席していたのだろうか。気になる。小五郎は忠勝公の子だし、花ノ丸はその母なのだから。当時、こういう状況は特に珍しい事でも何でもなかった。事実、鳥居姫も異母兄弟姉妹は何人も居たのである。この席でさらりと鳥居姫に紹介されたのではないかと筆者は考える。その際、鳥居姫とその側近の人々の反応は、どうだったのだろう。なかなか余裕があったのではなかろうか。鳥居姫はまだいたいけな十代半ば。これから何人でも子を産める。実家も大名鳥居家である。なにも気にかけることなどなかろう、と。
 数日して、婚儀のすべてが果てると、姫の乳母や、付き添いの女達、侍医、事務方を勤める数名の鳥居家家臣などを残して、鳥居家の人々は去る。娘の結婚ではあるが、鳥居姫の父親の鳥居忠政公は来ていない。忠勝公が岳父鳥居公に会うのは、元和九年,既に庄内藩主になり初めての江戸参勤の途次のことだったようだ(大泉紀年上)。
 鳥居姫の松代での生活が始まる。彼女が結婚生活にどれほどの夢を持っていたか,或いはいなかったか。それは分からないが、実人生というのはなかなか一筋縄では行かない。
 元和六年も半ばを過ぎた頃、花ノ丸殿御懐妊の報が松代城中を駆け巡る。翌元和七年、花ノ丸殿は忠勝公の第二子を産む。男子だった。後に余目五千石を分知される忠俊公である。一方、鳥居姫には半年経ち,一年が過ぎても懐妊の兆しは訪れなかった。
 
2014年11月13日