─庄内藩の女性たち(8)─ 第四章 正室鳥居姫(三)
信州松代で鳥居姫と花ノ丸殿は、同じ屋根の下の暮らしていたのだろうか。そもそも「花ノ丸」の命名の由来は、「是、高田のお城の郭の名なりと言ひ伝ふ」(酒井家旧記九 政運公御世記六)とある。筆者は高田(現上越市)に行き調べてみたが、酒井家の在藩が二年に満たなかったことに加え、後の高田大地震(寛文五年 1665)で城が壊滅的被害を受け、その後の藩主の造営した城の見取図しか見ることができなかった。そして、そこには「花の丸」という箇所はなかった。北側に「お花畑」があり、北方面は藩主の私的領域に使用されることが多いから、この辺かな、と想像するしかなかった。
一方、信州松代の或る小学校に「花の丸文庫」という名前が残っていて、長野市立図書館で調べたところ、松代城には「花の丸」と称された地名・建物があったのである。複数の史料からまとめてみる。
酒井家の後に松代に移封された真田家では、しばらくの間、藩政の中心は城内の本丸であったが、享保二年(1717)の大火により、本丸が全焼した。そのため本丸の西隣にあった藩主の遊園の地に仮住まいすることになった。この頃すでにこの地が花の丸と呼ばれており、何らかの建物が存在していたという。その後、本丸は手狭な上、千曲川の洪水の被害も受けやすかったので、花の丸御殿の建物を立派に増築し,本丸の行政機能も移し、藩主家族も住むようになったという。この花の丸御殿は嘉永六年(1853)に全焼した。
筆者は,この「花の丸」にこそ、花ノ丸殿の館があったと思うのである。本丸には鳥居姫が住むとすれば、「手狭」な本丸に側室とその御子が住むのは何かと不都合もあるかも知れない。実際、庄内に来てからも正室と側室は別々の場所に住んだ。鶴岡に移封されてすぐの混乱期を除き、花ノ丸(後花ノ丸も)は現在NHK鶴岡局のある辺りの「高畑御殿」に住んだことは、諸般の史料に見ることができる。
さて、元和八年(1622)に酒井家は庄内に移封される。この時の移動の苦難(初冬だった)、移ったばかりの鶴岡の寂れた様子、侍も足軽も町人も一体となっての新都市建設の槌音、そういった庄内藩創生期のエネルギーに満ちた様子を叙述したいが、まだ調べるべき事も多く、いずれの章かに譲ることにしたい。
鳥居姫と花ノ丸殿の衝突を伺わせる出来事があったのは、庄内に入部して五年後、寛永四年のことだった。まず藩の正史とも言うべき「大泉紀年」を見てみよう。
寛永四年(1627)九月
政運公(忠当)、初めて江戸にお登りになる。越後通をお通り遊ばされる。
十一月十三日
政運公、江戸において初めて徳川秀忠公、家光公へ御目通り。このとき、御家臣高力但馬一成・酒井民部政時・高力喜兵衛一方・石原源内重則の四人が両公方様へ拝謁を賜る。
十二月二十九日
政運公、江戸に於いて従五位下摂津守に任ぜられる。
同月 西田九郎右衛門が庄内に於いて,御知行五百石を賜る。源院殿(花ノ丸殿)の御父なり。
これは、忠当公(十歳)が江戸に登り、徳川家の大御所と将軍に拝謁し、位を授かり、生母花ノ丸殿の実父も禄を得た、という事柄である。ここで九月の項にさらりと書かれている「越後通」に注目したい。
当時、庄内から江戸に登るルートは、清川から羽州街道に出て山形、米沢を通過し、会津に入り奥州道を南下して江戸に入るものだった。新潟を通るルートは、新発田から会津道へ抜ける、長岡から三国街道を行く、直江津・高田を通って善光寺に続く北国街道を行く、という三通りが考えられる。いずれも山形を通るよりは距離が長いし、庄内から越後に抜ける山道は峠が多く、不便であったと思われる。なぜこうしたルートをとったのだろうか。
「酒井家旧記八 達三公付録三」にこういう記述がある。
「明法院殿(或いは妙法院 鳥居姫)、御家(酒井家)に御入輿の時は,既に政運公(忠当)御誕生の後にて、寛永四年御同所御参府のせつも、鳥居家の御孫にはあらせられざる由仰せられ御不通につき、山形御城下御通り遊ばさるる儀如何との御ことにて、越後路御通行遊ばされし事もあり。」
これによれば、忠当公は鳥居姫の子ではないから、彼女の実家の山形城下を通行してはならないと言われたので、越後経由に替えた、ということらしい。しかし、本当に鳥居姫がそのような事を言ったのだろうか。疑問である。確かに「御家へ入らせられ候て、御子一柱もあらせられずなるべし」(同上)というように、鳥居姫には生涯、御子は生まれなかった。
だからといって酒井家の嗣子の慶事に水を差すように、山形城下を通行してはならないなどと言うだろうか。夫忠勝公の面目をつぶすようなものではないか。強いて考えられることは、鳥居姫が
「目出度いことだが、これが私の子であったらのう」
くらいのことをつぶやき、それが口伝てに花ノ丸殿の耳に入り、重臣達も考慮の末「ご遠慮」して、越後路を通ることにしたのではないか。その際、越後から江戸に抜ける三ルートのうち、新発田、長岡経由は道も未整備で,山岳の隘路があったりしたが、もし高田・善光寺を通るルートを取ったとしたら、距離が一番長いということはあっても、最も整備された街道で宿場も多く、安全な旅ができる道であった。それに越後高田は忠当公の生地であり、善光寺の近くの松代は酒井家が一度は支配した土地である。若き嗣子の「修学の旅」としては、まことに結構なルートでもあった。
しかし、この一連の叙述からは、御子がなくても実家鳥居家を後ろ盾に鳥居姫は一定の存在感を示していること、同時に夫忠勝公との間に隙間風が吹いていたとの憶測を誘う空気があったことが読み取れる。
寛永九年(1632)、前年から病床にあった徳川秀忠公が逝去された。忠勝公は江戸城西の丸の警護を仰せつかって江戸に居た。おそらく大御所の葬儀、既に将軍になっていた家光公の実質的政権交代に伴う諸般のことで、二,三年は江戸を離れられなかったと推察する。この年、六月。加藤忠広公が改易になり、庄内藩お預けとなった。翌、寛永十年十月、白岩の百姓が酒井長門守の虐政を訴えた。同年十二月、忠当公が従四位下に昇進、父子共に翌年の大々的な家光公御上洛に備えて江戸に居たと思われる。鳥居姫はどうしていたのか、筆者が思うに、やはり江戸藩邸に居たのではないだろうか。
寛永十一年六月、忠当公は上洛する将軍に供奉する栄誉を得た。父、忠勝公は留守居役で江戸に残った(大泉紀年)。
「この時の将軍上洛は,壮大な軍事パレードで、すでに伊達政宗をはじめとする諸侯が続々と京へ向かっていた。総勢で三十万七千人にも上り、(中略)関ヶ原の東西両軍の倍の人数なので、如何に大規模なものだったかが分かる」(日本近世の歴史2 杣田義雄)
庄内藩でも十四万石の軍役規定に則り,「半役」としても馬上百騎、鉄砲二百挺、弓五十張、槍百本、足軽・中間数百人等を繰り出したことだろう。実子ではなくても、馬上豊かに装いも美々しい十七歳の忠当公とその供揃えの出立を、鳥居姫は誇りに満ちて見送ったに違いない。この頃が彼女の生涯で最も華やかな日々だったと思われる。
忠当公が上洛の途にある七月、庄内では花ノ丸殿がひっそりと息を引き取っていた。三十歳を少し出たばかりの、まだ若い遠行であった。京都から戻った忠当公は、十二月に松平伊豆守の息女千万と江戸で結婚した。貝桶を受け取る役目は、信州松代の時と同じ石原主馬重秋であった。彼は酒井家藩主二代の婚礼に重要な役目を務めた。
二年後の寛永十三年七月、鳥居姫の兄で山形二十二万石の藩主鳥居忠恒が病没した。父、鳥居忠政が逝去したのは寛永五年のことだったが、以後、藩主として八年、三十三歳。問題は嗣子を定めず死去したため、本来は御家断絶となるべきところ、幕府は祖父鳥居元忠の功績(関ヶ原前夜の伏見城攻防戦で善戦し討死)を重んじて、異母弟忠春に信州高遠三万石を継がせた。ここに於いて、鳥居姫は大きな後ろ盾を失ったのである。それは同時に酒井家にも或る決断を迫るものだった。 (続く)
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