終戦後の混乱期に存在した中小一貫教育校・「関谷学園」

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
終戦後の混乱期に存在した中小一貫教育校・「関谷学園」
1 新教育制度の発祥の地・新潟県関谷村の「関谷学園」
 さる2月、本会特別会員である新潟市在住の青柳明子さん(75回・昭和43年卒)から、「にいがた戦後70年」の特集記事の一つとして元旦から8回にわたって連載された「県北に咲いた自由」と題する新潟日報の記事コピーが送られてきました。非常に興味深い特集記事で、小学校6年、中学校3年の6・3制を柱とする義務教育制度が全国的に導入される以前の昭和21年(1946)7月2日、終戦後の混乱期でありながら日本でいち早く6・3制教育を取り入れたところが新潟県の片隅の村にあったのです。そこで、今回はこの「新潟日報」の記事を私なりに纏めて皆さん方に紹介してみようと思います。
 昭和20年(1945)の暮れ、本県小国町の隣、新潟県岩船郡関谷村(現関川村)出身で栃木師範学校教授であった佐藤仙一郎と文部省教育研修所の城戸幡太郎とが埼玉県で開催された関東地区の師範学校教員会議で出会いました。会合の座が温まった頃、城戸が佐藤に対して「国を復興するには一郷一村を有力なものにせねばならない。都市、農山村。海浜それぞれに6・3制の実験校を設けたい。」とこれからの教育制度の構想を切り出したのです。これを聞いた佐藤は故郷の関谷にこれを誘致すべく早速私案を作成し城戸宛送付しました。それを受けた城戸は実験校運営に必要な予算の確保が最重要課題と考え、これまた早速関谷村へ急ぎました。
 一方、新潟県南魚沼郡出身で東京帝国大学教授の阿部重孝は、戦前から各国の教育制度を比較し、アメリカでその理念が広まった6・3制が子供の心や体の発達に合わせた理にかなう区切りであることを確信し、戦前の昭和11年(1936)にすでに私案としての6・3制という新しい教育制度構想を発表していましたが、志半ばにして急病により終戦を待たず亡くなりました。しかし、この考え方は、城戸によって引き継がれていたのです。そして、城戸はこの構想を実現するために佐藤の故郷である関谷村に向かうことにしたのです。
 関谷村についた城戸が面談したのは、大地主渡邉家の当主・渡邉萬寿太郎でした。萬寿太郎は東京帝国大学を出た学者でもあり当時村長でした。奇縁なことに、城戸が学生時代にかつて東京の貧民街を調査したのですが、その相手であった社会学者「渡邉」、彼こそが萬寿太郎だったのです。
 関谷村は、この戦後の混乱期に戦前の国民学校、青年学校を改編し、いち早く6・3制を導入し、校長職を一人が兼ねる小中一貫の学園を創り出す構想を持っていたのです。このような状況であったため、渡邉萬寿太郎村長は、6・3制の実験校創設に意欲を燃やし、城戸の構想の実現に協力する条件として同郷の佐藤仙一郎が帰郷して実験校を率いることを要求したのです。
 当時軍国主義思想を広めた日本の教育者は猛省を促されており、「連合国軍総司令部(GHQ)」は、諸悪の根源として文部省をたびたび批判し、文部省は危うくすると解体される危機に瀕していましたが、城戸の所属する傘下の教育研修所は本省よりより不安定な立場にありましたので、GHQの意向を組んだ実験校の成功は組織延命に結びつくものでした。
 このようなことで関谷村は、新制度の教育実験校第1号に選定され、職員をあらゆる方面に人材を求めた結果、東京帝国大学、広島文理大学などの大学卒業者が多く集まり、授業は英語、科学実験、美術、創作劇などなどユニークなものばかりで、しかも、児童生徒一人一人を尊重し、個性を育てる教育の展開を目指したのです。昭和21年(1946)7月、小中一貫校の実験校「関谷学園」がここに開校し、入学した生徒は500人余でした。
 かつて学園の教師であった人は、「教育の成果は子供が自ら求める道を悟ったとき、はじめて実るのです」と語っていますが、学園は国語や算数と言った一般教科を午前中で終わらせ、午後は選択科目やクラブ活動に充てました。具体的には、討議、体育、英語などのクラブの中から子供たちが自由に選択するもので、そのほかには農村工学という科目では漬物加工などが教えられ、また、夜空を見上げて天文学の面白さを語リ合う授業もありました。従前の強制や統制と言ったものを払拭するかのように、学園は自主性に固執したのです。事実、学園の存在意義を証明するかのように卒業生は羽ばたき、高等学校に進学した園生は、英語や古文や数学などの教科でその実力を存分に発揮しました。ここに「関谷学園」の真骨頂が見て取れるような気がするのです。
 ところで、「関谷学園」が開校する頃、そのきっかけを作った城戸幡太郎は、国の教育制度を決定しうる中枢に居り、アメリカの教育使節団を迎え、彼が戦前から思い描いていた、6・3制の導入、その9か年の義務教育、男女共学など、戦後教育の在り方の報告書をまとめました。そして、12月には新学制を政府に建議し、6年の国民学校初等科に続く段階を整理し、3年の新制中学に一本化することに決定されました。このようにして、昭和22年(1947)4月、小学校6年、中学校3年の6・3制を柱とする義務教育制度が全国で導入されることになったのです。
 一方、6・3制の実験校であった「関谷学園」は、県教育委員会の方針に従わず、いまだ豊富な教師陣を有して前述のような独特な個性を保っていましたが、国の6・3制導入によって、遂には創立から2年7か月後の昭和24年(1949)1月にその看板を下ろしたのです。これには、今まで学園の維持に必要な人件費の工面や教員住宅の整備などで財政的に支えてきた関谷村長渡邉萬寿太郎にも時代の波が押し寄せ、学園の土台を揺さぶる出来事が起きたことも大きく影響しました。
 渡邉家は全盛期には1千ヘクタールの山林経営と7百ヘクタールの水田を有する新潟県内屈指の大地主でしたが、農地改革によってわずか5年のうちに田畑の99パーセントを失い、加えて公職追放の波は、戦前に村長に就任していたという理由で萬寿太郎を村長職から追放してしまいました。
   加えて、このような状況下、後ろ盾を失った「関谷学園」は、園長である佐藤仙一郎が心労から結核を患い入院のやむなきに至ったのです。
 「関谷学園」が新制の小学校と中学校に分かれ、関谷村が関川村となった後、学園創設に力を合わせた渡邉萬寿太郎は再度村長になり、初代園長の佐藤仙一郎は村の公民館長に、村と文部省とを結びつけた城戸幡太郎は北海道学芸大学学長などを歴任しました。
 当初予定されていた、6・3制の実験校は3校でしたが、結局「関谷学園」のみの創設に終わりました。新潟日報の記事によると、帝京大学の土持ゲーリ法一(土持ゲーリーほういち)教授は、「当時アメリカでも6・3制はシカゴやカリフォルニアなどの西海岸の進歩的な都市でしか実施されておらず、日本での導入は、背伸びしすぎの懸念があった」と述べており、関谷村での試みは当時の日本においてそれほど先進的な出来事だったのです。
2 新庄市における小中一貫校の創設
 前述の通り、第2次世界大戦後、日本の教育の面でも民主的な改革が行われ、「連合国軍総司令部(GHQ)」により、昭和22年(1947)4月、小学校6年、中学校3年の6・3制を柱とする義務教育制度が全国で導入され、今日まで長きにわたって続いてきたことは周知の事実ですが、今この制度に一部メスが入ろうとしています。
 小学校高学年における身体的な発達の速まり、中学初年度における学習内容における理解度の問題、いじめや不登校、校内暴力などの危惧する点が多々あるところから、従来通りの小学校的な指導では限界があると言われており、このような現状を踏まえて、義務教育の9年間を現行の6年・3年にとらわれることなく、4・3・2や5・4などのように弾力的に扱う「小中一貫校」の試みが実施されようとしているのです。
 文部科学省は平成28年(2016)度からの正式導入を目指しており、全国で1,100校余りの学校が、学習指導要領によらない「独自教科」の設置や指導内容を小中学校内で「入れ替え・移行」することなどを国の特別措置で実践に踏み出すのです。
 小中一貫校の形態には、@同一校舎内に小学校及び中学校の全学年があり、組織・運営とも一体的に小中一貫教育を行う「施設一体型」、A隣接する小学校及び中学校で、教育課程及び教育目標に一貫性を持たせ、学校行事を小学校及び中学校において合同で実施するなど一体感のある教育活動を行う「施設隣接型」、B離れた場所にある小学校と中学校が教育課程及び教育目標に一貫性を持たせ、互いに連絡を保ちながら教育活動を実施する「施設分離型」があります。
 新庄市ではこのうちの「施設一体型」を採用し、教育課程及び教育目標に一貫性を持たせ、既存の「萩野小学校」、「泉田小学校」、「昭和小学校」の3小学校を統合して「荻野小学校」とし、これと「荻野中学校」とを統合させた、総称「萩野学園」を平成27年(2015)4月に本県初の「小中一貫校」として開校する運びとなりました(但し、制度上、別々の学校のため校長は学校ごとに置かれるようです。)。  ここまでに至る新庄市の基本計画では「小中一貫校」の狙いを次のように定めています。
@ 学ぶ意欲を高め、夢や希望に向かって努力する子供の育成
 小中学校教員が9年後を見据え共通理解に立って指導を継続することで、「生きる力」の中核をなす将来につながる確かな学力の育成をします。
A 「ふるさと新庄」を愛し、誇りに思う子供の育成
 地域の人、もの、ことを学ぶ学習を通して郷土への愛着を深め、地域を支えようとする人材の育成を図ります。
B よりきめ細かな支援の充実
 小中学校教員の連携・交流に予知、個性豊かな児童生徒一人ひとりの教育的なニーズに応じた指導を共通理解に立って継続的に行います。
 更に、学習指導要領の範囲内で小中学校9年間の連続したカリキュラムを軸に、地域の特色を生かした教育課程を編成し、義務教育9年間を指導上前期4年、中期3年、後期2年の区分とし、発達段階に応じた適時な指導と「緩やかな接続」の実現を目指しています。また、児童生徒の異学年交流を授業、行事、児童生徒会活動等で計画的に位置づけ、推進し、小中学校の教職員の壁を取り払い、小中の複数教員による協力指導や小学校高学年への教化複数制を計画的に推進するようにし、更には、地域との交流により、多くの人との関わりの場を設定し、「心の教育」の充実を図るとしています。
3 小中一貫校の利点と懸念される点
 この「小中一貫校」の利点の一つとして考えられていることは、中学進学時、数学において負の数やXやY などの文字が現れるように教育環境と内容の急変に生徒が対応できず、これが不登校やいじめの原因になりやすいという「中学ギャップ」の解消であると言われています。
 学力の面では、教員が小中段階にまたがって授業に工夫することで、円滑に学習指導しやすくなるのではないかと言われており、特に国際性の涵養上英語の科目の効果が期待されています。また、幅広い異なる年齢層の集団は、社会性を豊かにし、責任感や思いやりを育むともいわれています。
 一方、懸念される点としては、9年間固定的な人間関係が続く硬直性、転校が生じた場合の転校先のカリキュラムが整合せず、混乱する可能性、高校との接続、教員の負担増などがあげられており、そのほかとしては、教員免許制度の検討、教科書の問題をどうするか、施設整備、財政措置の負担増、従来の制度との格差の問題なども指摘されています。
 新しい制度によるこの制度が一体何がどう変化していくのか、先が見えないのですが、ともかく「荻野学園」は山形県の先駆けとして新制度に挑戦することになります。
4 おわりに
 関川村に隣接する小国町では、平成13年度から平成21年度までの6年間、町内の全小中学校が児童生徒に特長のある新しい教育的取り組みを試験的に行い研究する「研究開発学校」の指定を文部科学省から受けて「小中高一貫教育」の実践に取り組んできましたが、平成23年度からは同様に文部科学省より全国一律の規制によらず、つまり、具体的には英語以外の教化の英語による授業や小学校に「農業科」を新設したりして特色ある教育を実施する「教育課程特例校」の指定を受け、「国際・情報」の学習を教科として実施しています。その他、戸沢村でも「小中一貫校」の実現を村長が選挙後の抱負として述べています。また、詳述は避けますが、生徒やその保護者が6年間の一貫した教育課程や学習環境の下で学ぶ機会を選択できるようにすることにより、中等教育の一層の多様化を推進し、生徒一人一人の個性をより重視した教育の実現を目指すものとして、「中高一貫校・東桜学館中学校、高等学校」が来春東根市に開学します。
 このように山形県においても、文部科学省の打ち出した新教育制度に応じた展開が始動することになっていますが、昨今の教育制度の変革の動きには驚かされる次第です。
 山形県における新しい制度がこれからどのように展開していくのかの予測は私には出来かねますが、「関谷学園」のように強制や統制と言ったものを取り払い、個性と自主性を尊重し未来を担う児童生徒が心豊かで創造性に富み、社会の変化に柔軟に対応できるよう育っていってくれればと切に願うものです。
追 記
 拙稿の筆を起こす動機を与えてくれた青柳明子さんのご主人は、かねてより新庄市出身と聞き及んでおりましたが、拙稿の脱稿後に奇しくも本稿で取り上げた新庄市の泉田小学校、荻野中学校の卒業生であることを知り、ある種の不思議な因縁を感じた次第です。  
2015年3月11