―庄内藩の女性たち(9)―第四章 正室鳥居姫(四))
鳥居家の山形二十二万石から信州高遠三万石への改易は、もともと家族内の不和に端を発していた。鳥居姫の兄、鳥居忠恒は異母弟忠春の母と不仲であったため、忠春への相続を願わなかった。忠恒は新庄戸沢藩に養子に出した実弟定盛を末期養子に迎えようとしたが、幕府はこれを認めず、忠恒は嗣子を定めず没することになった。このため幕府はいったん領地を没収し、改めて鳥居忠春に高遠三万石を与えた。(新庄市史)
そしてこの一件は庄内酒井家にもあらためて、後継問題を突きつけることになったと思われる。寛永十三年の時点で、酒井家には忠当(十九歳)、忠俊(十五歳)しか子供がいなかった。実に十五年間、酒井当主家には新しい命の誕生がなかったことになる。
「大泉紀年」寛永十三年の項に、「二ノ丸様江戸登」の二行の記載がある。
「今年 月日詳らかならず 二之丸様江戸へ御登りなさる。吉田平太夫御供にて江戸へ罷り登り、御繁昌之内御奉公申上候と云々」
筆者は以前からこの項に関心を寄せてきた。二ノ丸様の江戸行の日時は不詳だが、この時代の六十歳を過ぎた女性がはるばる江戸に登るには、よほどの理由があるはずである。
この前後の状況はというと、二年前に庄内で花ノ丸殿が逝去し、その四年後の寛永十五年、やはり庄内で鳥居姫が没している。そのちょうど中間の「二ノ丸様江戸登」なのである。また鳥居姫の没した同年、江戸では側室久米(清領院)が長女於万を産み、その翌年、庄内では後花ノ丸殿が三男忠恒を産んでいる。「大泉紀年」ではこの「二ノ丸様江戸登」に後の歴史編纂家のコメントは何もないのだが、こうしてみると彼女の果たしたであろう役割が、はっきり浮かび上がってくるような気がする。以下筆者の想像を伴った仮説に基づいて述べていきたい。
寛永十三年秋、忠勝公の御母、通称二ノ丸様は老躯をおして江戸に登った。鳥居姫は江戸藩邸で鬱々としており、食事もすすまぬ有様だという。それもこれも実家鳥居家の改易が原因なのだが、二ノ丸様の胸には、鳥居姫の見舞いということ以上の心積もりがあった。鳥居姫にはまことに気の毒だが、江戸藩邸に新たな側室を置く話を進めなければならない。花ノ丸殿の生んだ忠当公、忠俊公だけでは心許ない。男子のみならず、姻戚関係を増やす女子ももっと欲しい。それにしても、戦で死ぬ世の中でもなくなったのに、昨今の若い者のなんと軟弱なことよ。青年、壮年になっても安心できぬとは。現にあの鳥居公も三十三歳の男盛りだったというではないか。明日死ぬかも知れない世を生き延びてきた自分のような人間、そういえば花ノ丸の母親の西田成羽もそうだが、いまだに結構しゃんとして生きている。まったく近頃の若い者は情けない・・・。
いつの世にも通じる感慨を抱きつつ、今や奥向きの人事の最高責任者である二ノ丸様は、てきぱきと事を進めていった。江戸の側室を選定し、すっかり心身の弱くなった鳥居姫を庄内に連れて戻ったと推測される。
庄内でも、鳥居姫の卒去と入れ替わるように、花ノ丸殿ゆかりの後花ノ丸殿を召し出した。この気丈、かつ情愛深い酒井家の家刀自、二ノ丸様については興味深い史料があるので、あらためて別章をたてることにしたい。
その後の酒井家は、江戸と庄内の側室が競うように懐妊・出産し、あたかもベビーブームの様相を呈することになる。逆にいうと、鳥居家二十二万石の後ろ盾で、鳥居姫がいかに婚家先の酒井家で、それなりの力を持っていたかを物語るものであろう。しかし、ここにいたって鳥居家の重石ははずれ、遠慮することなく後継者を作ることができるようになった。
これを冷淡とか、現実主義に過ぎるという批判は当たらないと思う。家の存続こそ、最優先すべき課題なのであり、酒井家はそれを実行したに過ぎない。
さて、次に鳥居姫の最後を語り、その墓石について述べたい。
(続く)
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