―庄内藩の女性たち(10)―第四章 桜の墓標・鳥居姫(五)

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 ―庄内藩の女性たち(10)―第四章 桜の墓標・鳥居姫(五)
 「酒井家旧記 八」に、鳥居姫の逝去に関してこう述べられている
 「庄内にての御逝去にて大督寺へ入らせられずして総穏寺に御葬理ありしは、鳥居家の菩提寺は禅宗の寺なれば、その御縁を以て総穏寺へは入らせられしなるべし」
 そして
 「お墓印には桜の一樹を植えられたり。その柵の中に粗末なる御石碑これあり。これは総穏寺にて自分に建立せしならんかもしれず。」
 ともあるのだが、筆者にとってこれは難題であった。何度か総穏寺を訪れ、御住職からもお話を伺ったが、筆者の目から見ると、その石碑が「粗末」には見えないのである。
 鳥居姫の御墓は総穏寺の墓地のまん中辺り、満天星(ドウダンツツジ)の生け垣に囲まれて、一段高い作りになっている。そしてその柵の中には、石柱様の背の高い墓碑(板碑)と、背の低い「祠」と称すべき碑が、直角に置かれている。
 齋藤裕道御住職にお尋ねしてみると、
 「実はあの祠に関しては、当方もよく分からないのです」
 というお返事だった。総穏寺は弘化元年(1844)、全焼し貴重な文書類が灰燼に帰した。惜しいことである。ちなみにこの火災のあと、寺を自力再建した卍凱(まんがい)和尚という人は「土屋虎松復讐記」を刊行した人でもある。藤沢周平の小説「又蔵の火」の原本である。

 「鳥居姫様のお墓の脇には、桜の木があったそうですが」
 「ああ、ありましたよ。懐かしいですのう。私が子供のころはまだ老木でしたが、桜の木だと分かったのですから、花も咲いていたのです。ところが私が住職になりました昭和四十九年には、もう花もつけず、中が空洞になっておりましたので、切りまして、満天星の生け垣にしました。」
 桜の木は本当にあったのである。史料の上だけのことかと思っていた桜の木が、つい近年まで実在していた事を知り、不意に、時を一挙に溯行しているかのような不思議な感覚に見舞われた。年々歳々、咲いては散ることを繰り返し、時を超えて存在し続けた、鳥居姫の桜の墓標。 

 庄内で逝去するまでの二年ほどの日々を,彼女はどう過ごしていたのか。「鳥居家の御紋付にて蒔絵の御長持これあり」(達三公付録三)という鳥居姫の長持には、仏具のたぐいが多く入っていたと言うから、祖父、父、兄の菩提を弔いながらの静かな明け暮れだったかも知れない。傍らに侍るのは、松代時代からの古参の数人、乳母、乳姉妹、その縁者たち。
 床から起き上がれなくなったある日、鳥居姫は乳母に問う。私が死んだら、奥津城はどうなる。酒井家の大督寺へ入ることになるのか。されば、世間には「半檀家」ともうしまして、夫と妻が別々の寺に葬られる例もございますれば。そうか、それなら私は鳥居の家のお宗旨の寺に眠るとしよう。そうだ、奥津城の側には桜の木を植えよ。実を求めて鳥も来よう、枝は夏に日陰を作り、冬には雪を受けてくれるだろう。
 三十歳前後だった鳥居姫は、その年の桜を眺めてから寛永十五年五月に逝った。鳥居姫は御墓に関してはある意味、幸運だった。もう少し時代が下がると、切支丹禁令政策の一環で、必ず家族単位でどこかの寺の檀家になることが求められ、「半檀家」(横田冬彦「日本の歴史16」講談社)は消失していく。
 鳥居姫の総穏寺の板碑には「明法院蘭室誉榮秀大姉」と銘が刻んであるというが、さすがに画数の多い漢字は見えにくいものの、「明法院」という字はきちんと読み取れる。この石柱の頭部は切妻風に両側に斜めになっていて、台座を含めた高さが、約170センチくらいであろうか。五輪塔形式ではなく、装飾の少ないシンプルな板碑を、幕末の史家は「総穏寺が自分で建立せしか」と見た。墓石の形式については今後、精査していくつもりであるが、鳥居姫の「祠」に関しては、「廟墓ラントウと現世浄土の思想」(水谷類 雄山閣 2011年)という研究書が参考になりそうである。「家型 堂型 祠型」の形状、近世初期に見られるという時代的整合性、曹洞宗系の寺院によって普及した可能性など、合致する点が多い。もしかしたら、鳥居姫の祠は「当時、もっとも先進的」なものだった可能性もある。閑話休題。

 現在も、酒井当主家は年に一度、欠かさず墓参りに来られます、と裕道御住職は言われた。そして、
 「ちょっと珍しい写真をお見せしましょう」
二枚の写真を見せてくださった。2001年11月19日付けのもので、一枚には裕道住職と、まだご存命だった酒井忠明氏、奥様が墓所の前に横に居並んでおられるもの、もう一枚は奥様が御墓に礼拝されているものだった。満天星の生け垣は、現在よりもいささか背が低い。
 「この時、(元)慶応義塾大学塾長だった鳥居泰彦氏とその奥様も居られたのですが、その写真がどうしても見つからないのです」
 四百年近くの時を越えて、酒井家と鳥居家の末裔が、墓前に参じている光景を思い浮かべてみた。この2001年という年は、慶応大学の鶴岡タウンキャンパスができた年ではなかったろうか。ここにも時を超えた邂逅があった。
 最後にもうひとつ、鳥居姫の墓所の前の小道の両脇に並んでいるお墓について記しておきたい。もっとも近い墓碑に「舩戸」と読める「居士、大姉」の二基の墓がある。この「舩戸」氏は庄内藩の藩医でした、という裕道御住職のお話だった。
 舩戸家のお墓は、総穏寺の墓所にまとまった一区画があるのだが、そこではなく、鳥居姫のお墓のすぐ近くにこの二基があるのは、鳥居姫と何らかの関係性があるのではないか。
 後に鶴岡市郷土資料館を通じて調べてみると、舩戸姓の御医師は二名居た。庄内藩に召し抱えられた年は、一人が亨保十三年(1728)、もう一人が明和六年(1769)と時代的に後のことであった。史料によれば両家とも同じ舩戸一族であった。そして、鳥居姫のお墓とのある不思議な因縁も浮かび上がることになるのだが、それは内容が多岐にわたりすぎるので、ここでは割愛したい。

 鳥居姫の墓所の、満天星の生け垣は春に美しい緑色、秋は厚みのある赤色の紅葉が素晴らしい。墓石のすぐ後ろにマサキに似た木が青々と枝葉を伸ばし、まるでお墓を後ろから抱き抱えているかのようだった。お寺で植えたものではなく、鳥が運んできた種から育ったものらしかった。お盆の前には余分な枝は綺麗に刈られていた。
 小高い所に鳥居姫のお墓があり、そこに至る短い小道に小さな墓群があるのは、あたかも姫に侍する人達が居流れている様子に見える。短い人生ではあったが、誇り高く生き抜いた女性にふさわしい佇まいである。
 浄福、という言葉が心に浮かんだ。
                                                 (この項 終)
 
2015年6月9日