NHKスペシャル「明治神宮・百年封印された神の森」の放映をみて
                             〜大隈重信に係る逸話2題〜

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
NHKスペシャル「明治神宮・百年封印された神の森」の放映をみて
                            〜大隈重信に係る逸話2題〜

1 永遠の森(杜)造り始まる
 平成27年6月14日にNHKスペシャル「明治神宮・百年封印された神の森」(再放送)を見る機会がありました。御承知の通り明治神宮は、明治天皇・昭憲皇太后を祭るために1915年(大正4)造営に着手し、6ケ年の歳月をかけて1920年(大正9)に工事を終えた面積70.2ヘクタールに及ぶ人工の森です。
 神宮建設地に決定した1914年(大正3)当時、代々木御料地の周辺には荒涼とした景観が広がっており、森らしい森があったのは、現在御苑と呼ばれている辺りと、旧社務所周辺の広葉樹ぐらいで、あとは現御社殿が建つ周囲に背の高いアカマツ林があっただけと言います。
 明治天皇を祭る神社を造るには、鎮守の森が必要であり、1915年(大正4)4月、林学博士の川瀬善太郎(森林美学)、日比谷公園の設計で知られる林学博士の本多静六、同じく日比谷公園の設計に関わった造園家の本郷高徳、本多静六博士の弟子で、日本の造園学の祖と言われる上原敬ニ、農学では、庄内の酒井調良の栽培した「調良柿」を「平核無(ひらたねなし);(庄内柿)」と名付け、さらに「酒樽脱渋法」を伝授したことで有名な原煕(はら ひろし)東京帝国大学農科大学教授、父親が旧新庄藩の執事であった折下吉延(おりしも よしのぶ)奈良女子高等師範学校講師(園芸学担当)と言った錚々たる顔ぶれを内務省の外局である「明治神宮造営局」に集め、神宮の森の造成が本格的に始動し、工事には主として上原敬二技手(注1)がその任に当たりました。
 「森」は「杜」とも書きます。「杜」は中国古来の意味では、「山野に自生する落葉広葉樹」を指しますが、日本では神社に付随して参道や拝所を囲むように設定・維持されている森林、すなわち「鎮守の杜」あるいは「御神木」を意味し、更には「広く人の手によって造成された森」をさすこともあるようです。古代の神社には神殿のような建造物はなく、動物や植物を神霊とし、山や森そのものを神社と考えていたようです。
 また、万葉集では「神社」を「モリ」と読ませ(注2)、社(もり)と杜(もり)とは同義語であったと言いますから万葉集の時代には、「神社」は即ち「森(杜)」でした。
 造成計画の中心を担った本多、本郷、上原等の技術陣の基本方針は、日本の神社の伝統に沿い「神苑に相応しく世間の騒々しさがまったく感じられない、荘厳な風致をつくる」ことにあり、それは、常に大木が鬱蒼とし、主として天然の力によって次の世代の樹木を生育させる「天然更新」により、「永久に繁茂する森(杜)」を育て、これにより神宮を荘厳なものにしていこうとするものでした。つまり明治神宮造成の究極の目的は「永遠の森(杜)」を造ることだったのです。
2 植樹法について技術陣と内閣総理大臣とが論争する
 ところが1914年(大正3)4月16日、第2次大隈内閣を組閣した第17代内閣総理大臣大隈重信は、神宮の森(杜)は伊勢の神宮や日光のスギ並木のような雄大で荘厳な針葉樹の景観が望ましいとし、藪のような雑木林は神社らしくないとして、スギやヒノキを主とした植樹とするよう強硬に主張しました。
 時の内閣総理大臣の反対論だけに技術陣は大いに困惑したようですが、この地は関東ローム層の洪積台地にあり、保水力に乏しく、潤沢な水分を必要とするスギの生育には適さないこと、常緑樹林は藪ではないこと、変化を見せる風致木を加えること、常緑樹でないと神宮の森は永久に持続させることはできないこと等を説明したのですが、大隈は加藤清正が自ら掘ったと言い伝えられている「清正井(きよまさのいど)」の近くにはスギの大木が生育しており、この事実を楯にスギの林が出来ないわけがないと主張を曲げなかったようです。しかし、このスギは根元に湧水があり、生育環境としては特異な条件下にありました。
 そこで、技術陣は代々木にあるスギの壮齢木何本かを伐り、樹齢、樹高、直径などの値を求めるとともに「樹幹解析図」(注3)を作成し、日光地方のスギ材の図と比較することで、いかに代々木のスギの生育が悪いかを説明し、やっと大隈を納得させたと言う話です。
 その他、煤煙に弱いスギを望まなかった理由としては次のような事情もあったようです。つまり、この頃新宿西口辺りには工場が立ち並び始めていたようで、また、代々木を通過する蒸気機関車が煙を出すことから、これらからの煤煙がスギの生育によくないとの思惑もあったようです。
 若し明治神宮造営局の技術陣が内閣総理大臣の意見に屈して将来の森(杜)を広葉樹林でなくスギ林などに変更していたならば、今の神宮の森(杜)はなかったことでしょう。当時の森林・造園技術者の科学的な根拠に基づく強い信念が、最終的にはシイ、カシ、クスノキなどの常緑樹を中心とする鬱蒼とした神宮の森(杜)を創造したことになります。
3 四つの段階を経て森(杜)は完成する
 ところで、「100年以上の年月をかけて行う広葉樹の森(杜)造り」とはどのようなものだったのでしょうか。簡単に纏めると次のようなことになります。
 第1段階・・・仮設の森(杜)造りです。アカマツやクロマツなど当時この地に残っていた針葉樹の高木層を主木とし、あるいは全国から献木された10万本の中から大きなものを選んで植えます。その下の中低木層としてマツの間には成長の早いヒノキ、サワラ、スギ、モミなどの針葉樹を植え、更にその下に将来主木となるカシ、シイ、クスノキなどの広葉樹を低木層として植樹するようにし、50年後にはこれらが育ってくれることを目論みました。なお、ちょうど敷地の中心付近にアカマツの林があり,御社の位置はそこに決まりました。
 第2段階・・・林冠の最上部を占めていたアカマツやクロマツが、下から伸びてきた針葉樹に圧倒されて次第に枯れてゆきます。数十年後には台頭してきたヒノキ、サワラ、スギ、モミなどの針葉樹が最上部を支配するようになり、在来あったマツは数か所に点在するようになります。
 100年後の第3段階・・・遂にシイ、カシ、クスノキなどの常緑樹が林相の中心を占め始めます。その間にはヒノキ、サワラ、スギ、モミなどの針葉樹が混生し、まれにアカマツやクロマツ、ケヤキなどがみられるような状態となります。
 150年後の第4段階・・・針葉樹は消滅し、シイ、カシ、クスノキなどの常緑樹が主木として更に成長するとともに、2世代目の木が育ち、常緑広葉樹林が形成されていきます。こうして主木が人手を介さず、自ら世代交代を繰り返す「天然更新」の森(杜)に達した時森(杜)は完成しますが、現在は日陰に耐えられる陰樹を中心とする第3段階の状態となっています。
 このように木々の消長を予想して具体的な樹種を植樹してゆく植樹計画は、当時として驚嘆すべき先見性を持ったものでした。つまり、一定の地域の植物群落が、それ自身の作り出す環境の推移によって他の種類へと交代し(遷移し)、その過程を経てその地域の環境に適合する、長期にわたって安定な構成を持つ群集に到達した状態(極相林)に導くこと念頭に植樹を行ったのです。
 1921年(大正10)、明治神宮造営局の技師であった本郷高徳が以上のような森(杜)づくり計画と管理方法を『明治神宮御境内林苑計画』として著していますが、これの『管理計画』では、「林内に堆積した落葉を除去すると、地力の減退や自生する稚樹を抜き取ることになり、将来森林の荒廃の恐れがある。」としており、この警告は森(杜)の造成後現在に至るまで守られており、参道や境内に落ちた葉も人手を掛けてかき集められ林内に戻されています。こうして戻された落葉は土壌微生物や昆虫たちによって分解され柔らかい栄養豊かな土壌となり、森(杜)を育むのです。
4 早稲田大学農学部林学科創設が夢に終わる
 先に神宮の森(杜)造成時の植樹計画について、時の内閣総理大臣大隈重信と本多、本郷、上原等技術陣とが論争をしたことを紹介しましたが、後に早稲田大学初代総長としての大隈から本多に対して「早稲田大学農学部林学科」開設についての下相談があったようなので、この話を紹介してみようと思います。
 大隈は若いころから豪胆で向う見ずな性格だったそうですが、一方口先だけではなく、結果を恐れない行動家であったとも言います。日本で最初に地方遊説を行った人でもあり、また、お金を表す指のサインを考えた人物としても有名です。
 彼は1898年(明治31)6月、板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣となり、日本初の政党内閣を組閣したのですが、わずか4か月で内閣を総辞職しています。そして1907年(明治40)には、一旦政界を引退し、早稲田大学初代総長や大日本文明協会会長などに就き精力的に文化事業を展開しています(早稲田大学総長の職は彼が亡くなる1922年(大正11)まで務めていました。)。
 先ほどの逸話ですが、これは明治神宮造営局の技手として神宮の森(杜)造りに参画し、後に弱冠34歳で1924年(大正13)に造園専門技術者養成のための「東京高等造園学校」を創設した上原敬ニが著した『談話室の造園学』(1979年(昭和54)5月15日、技報堂)に掲載されていた話です。年代の明記が無いのですが、当該著述の中に「当時、(上原が)東京帝国大学農科大学の演習林嘱託でもあり・・・」とあり、上原の履歴からみると、この時期が1918年(大正8)であることがわかりました。ちょうど神宮の森(杜)造営の終盤の出来事でした。
 ただ、著述の中で大隈を「大隈伯爵」としていますが、大隈は1887年(明治20)に伯爵に叙され、1916年(大正5)7月に侯爵に陞爵(しょうしゃく;功績により爵位が上がること。)され貴族院侯爵議員となっており、この記述は「大隈侯爵」の誤りだと思います。なお、大隈は同年10月に第2次大隈内閣を総辞職して完全に政界から引退しています。 また、本多は1894年(明治27)に早稲田大学の前進東京専門学校の講師に就任したこともあり、上原が本多と師弟関係になったのは、上原が1911年(明治44)に東京帝国大学農科大学に入学したときからです。
 この話は早稲田大学総長の大隈の側近から上原の恩師である本多になされたもので、本多から上原へは学部創設のための立案協力要請のかたちでした。相談の理由は明記されていませんが、「神宮の森(杜)造営に際して大隈内閣総理大臣と本多、本郷、上原等造営局技術陣とがその植樹方法で争論したものの、大隈は後日本多、本郷、上原等の壮大な森(杜)づくり構想に深く感銘を受け、結果大隈が総裁を務める早稲田大学に農学部林学科を創設しようと思ったのではないか」と私は勝手にこのように推測してみました。
 そこで上原は、従来旧式の木材生産だけの林学ではなく、新しく緑化対策としての林学、多分に造園学、風致林学を盛り込んだもっとも新しいと認める林学体系を考案し、同時に大学の経営上、財源として木材資源の価値を強調する分野まで検討したと言います。 すなわち、付属農場を東京市内に求めることは無理と認め、隣接諸県に物色すること、更に、将来林学科以外の学科増設を考慮して相当広い区域を確保すること、林学科の中には風致林に関する分野を広く取り入れること、演習林の新設を大規模に取り入れ、木材生産の面から適性の伐期におけるスギ、アカマツ、ヒノキの生産材積及び予想材価の評定も策定したことなどが述べられています。
 上原は農学部創設のための立案を本多から依頼されたもので、彼は直接大学との交渉には触れておらず、結局学部創設案件は大学の当事者、理事者の賛成することを得ずして流産してしまったと言うことです。なお、この著述において上原は、明治神宮の境内の造成時に参与という最高の地位にあった本多を評して、「根気よく押し通すという政治力が欠けている」としているのですが、時の内閣総理大臣を説得して植樹計画を進めたことを考えると、このような評価を弟子である上原が堂々としていることには正直驚いた次第です。
 最後に本稿に関係する事項の年表を掲げておきます。
西暦年(元号) 特   筆   す   べ   き   事   項
1912年(明治45) ・7月30日明治天皇崩御(昭憲皇太后は大正3年4月9日崩御)
1913年(大正 2) ・神社奉祀調査会発足、神社名、創立候補地、祭神、社格など発表される。
1914年(大正3) ・大隈重信再度政界へ(4月、第2次大隈内閣組閣)
1915年(大正4) ・4月明治神宮造営局設立 ・神宮の森造営開始・・・地形測量、既存林況調査、在来樹木で建築工事・参道工事等に支障となる樹木の移植工事。 ・本多静六治神宮造営局の参与に就任、原?治神宮造営局の参与に就任、 折下吉延明治神宮造営局技師に、本郷高徳明治神宮造営局技師に、上原敬ニ東京帝国大学農科大学林学科卒業大学院退学し、神宮の森造営局の技手にそれぞれ就任
1916年(大正5) ・10月、第2次大隈内閣総辞職(政界から完全に引退) ・1916年から翌年にかけての造営工事・・・社殿の背後に低い丘を造成、境内地全般の土木工事、境内地全てを取り巻く土塁工事、前年に続いて在来樹木の根回しや移植工事、参道工事に着手し、樹木の植栽工事開始。
1918年(大正7) ・1917年から翌年にかけての造営工事・・・苑路工事、池の護岸・流れ込み ・石組工事、樹木植栽工事
1919年(大正8) ・上原敬ニ明治神宮造営局の技手依願免職、東京帝国大学演習林事務を依嘱される、上原造園研究所設立、東京帝国大学農科大学林学科大学院再入学。
1920年(大正9) ・上原敬ニ東京農業大学講師、京帝国大学農科大学林学科卒業大学院退学 ・最終的造営工事・・・境内各所と建築物周辺に修景植栽、南・北・西の各参道工事終了。土塁工事と土塁への植栽工事完了。その後も若干の残工事続行。
1921年(大正10) ・『明治神宮御境内林苑計画』(本郷高徳)
1922年(大正11) ・大隈重信死去
 
(注1) 当時、国の職員を「官吏」と「それ以外の者」とに区分し、更に、「官吏」を「高等官」(任官、勅任官(高等官1等・2等)、奏任官(高等官3等〜9等))と「判任官」に区分していました。「技手」は「技師」の下に属した「判任官」または「判任官待遇」の技術官吏を言います。
(注2) 万葉集第二巻202に桧隈女王(ひのくまのおおきみ)が、43歳で病没した天武天皇の長子、高市皇子(たけちのみこ)を悼んで詠んだ歌があります。
 「哭沢(なきさは)の、神社(もり)に御瓶(みわ:神酒のこと)据え、祈れども我が大君は、高日(たかひ)知らしぬ(高日知る:高貴な人が死去するのを言います。)」(現代語訳;哭沢(なきさは)の神社(やしろ)に神酒(みき)をお供えして無事をお祈りいたしましたが、我が大君は亡くなられてしまいました。)
(注3) 「樹幹解析」というのは、木の根元から先端までの幹を一定の間隔ごとに輪切りにして、その断面の年輪を調べることによって過去の成長経過を推定する方法のことです。
2015年7月2日