随想「蔵王エコーライン 異聞」

64回(昭和32年卒) 庄司英樹
 
 随想「蔵王エコーライン 異聞」
 日本列島は火山活動が活発化している。蔵王山の火口周辺警報は解除になり、蔵王エコーラインは6月22日から全線通行可能になった。警報の影響で観光客の足が遠のいていた宮城・山形両県民は胸をなでおろした。
 蔵王は昭和25年、毎日新聞社が行った日本の観光百選・山岳部で第一位を占めてから注目を集めた。蔵王観光の基幹をなす"蔵王エコーライン"と"蔵王ロープウェイ"は一人の実業家の提唱が契機になって実現したことを知った。
 当時の山形新聞をめくってみた。昭和29年に蔵王温泉の旅館高見屋で開かれた観光懇談会で、東北電力会長の白洲次郎が"蔵王横断道路"の建設プランを提唱したとある。当時はまだ蔵王にスキーリフトがようやく出来たばかり、"横断道路"は素人の考えとして専門家らの失笑をかった。(昭和37年11月9日)
 白州はスキーをこよなく愛し、蔵王に自ら滞在する場として昭和32年に山小屋「 Hutte Jaren ヒュッテ・ヤレン」を作った。その名は、「ヒュッテ=小屋・山荘」と「スキーはうまくやれん(=ヤレン)を組み合わせた白洲のユーモア。(http://uwanodai.jp/adept/)
 東京都町田市の鶴川にある「旧白州邸 武相荘」(ぶあいそう)は白洲次郎・白州正子夫妻が生涯愛した家。武蔵と相模の境にあるこの地にちなんで「無愛想」をかけて名づけた。
 白洲は吉田茂元首相の右腕として憲法改正、サンフランシスコ平和条約締結で活躍し、昭和26年に東北電力初代会長(〜34年)に就任した。山荘に滞在中は屋根に旗を掲げ地元民を迎え入れた。白州が貿易庁長官時代に部下だった安孫子藤吉知事(当時)らに「蔵王を東洋のサンモリッツにしたらいい」と語り、"登山電車"の整備を勧めた。( 平成25年12月28日「土曜コラム マルチアングル」)
 冬のオリンピック史上初の回転・大回転・滑降の金メダル三冠を占めたトニー・ザイラー(オーストリア)主演の映画「黒い稲妻」「白銀は招くよ」が大ヒット、昭和35年には「銀嶺の王者」の撮影で蔵王に一ヶ月滞在して、空前のスキーブームが到来、蔵王は世界に知られるようになった。
 "登山電車"建設構想は東武鉄道社長の根津嘉一郎から山形市長大久保伝蔵らに話があり、昭和36年に建設工事開始、蔵王温泉の山麓駅と樹氷高原駅を結ぶ「山麓線」は翌37年10月3日に開通、38年には山頂線も開通した。
 山形新聞は「山形県の誇る観光資源、蔵王の飛躍的な発展の礎となる"蔵王ロープウエイ"と近く完成の"エコーライン"。蔵王は国際的な飛躍を遂げようとしている」と社会面トップで報じている。 (昭和37年10月4日)
 一方"横断道路"構想は日本道路公団が実現に向けて取り組みを開始、昭和35年7月に着工、昭和37年11月8日に山形県側14km宮城県側11km、全長25km、幅員6mの有料道路として開通した。刈田岳近くの大黒天駐車場までバスとマイカー150台で1,000人が駆けつけ、通り初めパレード。(昭和37年11月9日)
 この年に山形放送に入社した私はこの開通式の取材、開通喜びの模様を3分間の録音構成にして全国にラジオ放送する役割だった。開通式に招待客の中から歌手、高橋元太郎(男性コーラスグループ・スリーファンキーズ 後に俳優 テレビ時代劇「水戸黄門」の「うっかり八兵衞」役)、今村昌平監督の映画「豚と軍艦」のヒロイン役としてスカウトされた女優の吉村実子、大島渚監督の「青春残酷物語」で清純派のイメージから脱皮した桑野みゆきの3人に「蔵王の素晴らしさ」を語ってもらい「蔵王エコーライン」開通を文化放送のニュースパレードで全国ネット放送した。
 "登山電車"と"横断道路"を提唱した白洲次郎の姿は、どちらの開通式にもなかった。ダンディズムを貫いたのだろうか。
 開通時の建設大臣は東京オリンピックに向けて道路・施設の建設整備に辣腕を振るっていた河野一郎。今や歴史上の人物、語る人も少なくなったが、当時は連日新聞紙上を賑わせ、自民党党人派の代表格として飛ぶ鳥をも落とす権勢を誇っていた。早稲田大学時代は長距離選手で草創期の箱根駅伝でも活躍し、朝日新聞社に入社した後に政界入りしている。
 蔵王エコーライン開通して翌々年の39年、大型連休を前に河野は冬季の閉鎖から開通した4月27日、宮城県側から蔵王エコーラインを視察した。山形県側にさしかかると、半分根を出しているトドマツを見て「もったいない。庭にでも植えればいいのに」と笑った。走行中は砂塵が舞い上がり、車の窓を開けられない。「これでは通行料金はもらえない。舗装を早くやれ!」と東北建設局の幹部に指示。追加予算を組み年内に舗装を完成させた。(昭和39年4月28日)
 午後から山形新聞社主催の第3回「県勢懇話会」の講師を務めることになっていた河野は、予定になかった後藤又兵衛旅館で休息との情報に、山形新聞社の編集局長大平禎介(荘内中学27回 大正8年卒)は旅館に駆けつけた。
 大平は慶応義塾大学卒業後に報知新聞、サンフランシスコ新世界新聞、ロサンゼルス日米新聞を経て朝日新聞南京支局長から戦後に山形新聞社に迎えられた経歴の持ち主。
 県勢懇話会の開会を前に、「朝日新聞の後輩です」と講師を受けてもらったお礼を述べようと河野に名刺を差し出した。旅館の着物姿でくつろいでいた河野は、すぐに立ち上がり部屋に引っ込んだ。
 大平は、「数々の伝説をもつ大臣の機嫌を損ねてしまったのか」と唖然とした。まもなくスーツに着替えて「ご丁寧に、ご挨拶いただき恐縮です」と名刺を受けた。砂塵が舞うエコーラインを通り、埃にまみれたので風呂を浴びた直後のことだった。
 ラジオ関東・栃木新聞に勤務経験のある 小枝義人の著書「党人 河野一郎」(春風社)に、「彼は身だしなみや礼儀にうるさかった。記者に対しても夏でも上着、ネクタイ着用は鉄則だった」とある。"番記者"にはスーツの正統な着こなしを求めた。上下が違うスーツは遊び着であり、"河野番は遊びではない"として遠ざけた。
 蔵王エコーライン建設の頃は開発が優先し、自然環境保全の理念は台頭し始めた時代。山形県は河野建設大臣に感謝の印として、エコーライン建設で掘り起こしたゴヨウマツの姿・形とも最高級を選んで平塚市にある河野邸に届けた。河野宅に到着した県職員はその庭を見て言葉を失った。箱根山に近いとあって庭園には素晴らしいゴヨウマツがあって蔵王が誇るゴヨウマツは見劣りして映えなかった。
 河野が建設大臣として、「首都高速道路」工期の短縮を指示、羽田から代々木の国立競技場までつながったのはオリンピック開幕9日前の昭和39年10月1日だった。
 15日間国立競技場の聖火台で燃え続けた聖火が消えた翌日、首相・池田勇人は喉頭がんに冒されているとして退陣表明した。
ポスト池田をめぐる壮絶なドラマが展開され、河野は佐藤栄作に敗れ、以後政権の中枢に返り咲くことなく昭和40年、地元平塚の「七夕祭り」の翌日に泉下に没した。
 余談になるが、戦後まもなく朝日新聞社から早稲田大学に迎えられた安井俊雄教授は「新聞学」「ジャーナリズム研究」を担当。また、水泳部の部長として競泳の山中毅、大崎剛彦らを育てた。ローマオリンピックでは金を逸し、ともに銀メダルだったが、大学の体育局長として、次回の東京オリンピックにも競泳選手を数多く送り出した。
 「新聞学」の講義で「諸君の2年上級に河野一郎の息子がいる。入学合否判定の教授会で『誰か息子を頼まれているか?』と尋ねても誰もいなかった。それで、『息子は、入らなくていいのだな』と電話をさせた。あの河野が国会から黒塗りの車で大学に転がるようにしてやって来て"息子をお願いします"と身体を丸めて頭を下げた。息子は付属の高等学院出身なので、入学は当然だったが、河野の先輩、同期が名を連ねた教授会の遊び心!」とエピソードを披露。河野洋平は自民党総裁にはなったが、父親同様に総理の座につくことなく政界を去った。
 喜寿を迎えた大学同期のメンバーで今年5月に北陸旅行をした際、西日本新聞社で長く美術記者をしていた山本康雄が「安井先生の話は私も覚えている」と即座に反応した。追って、地元福岡県出身の美術評論家、河北倫明から聞き書きした山本の著書「河北倫明聞書 美心游歴」(西日本新聞社)が届いた。「河野一郎の一声」として、東京国立近代美術館建設の予算化で河野に大きな力になってもらったと河北の話が書き込んであった。 やはり同期で読売新聞大阪本社に入社、退職後は舞鶴に住まいしている新治徹、白州次郎の「自ら田畑を耕し、肥桶を担ぎ、野菜を作る田舎暮らし」の生き様にあこがれ今は晴耕雨読の日々を送っている。
 彼の家の近くを流れる由良川がかつて氾濫して大災害を起こした時、河野建設大臣が視察に訪れた。「早く堤防を造ってくれ」と住民の陳情に、河野は「これは河川敷に家を建てて住んでいるようなもので、堤防を造る価値があるのか」と言い放った。当時の建設省の予算では優先順位からすれば最も低い位置だったろうが、その言葉はいまでも地元に伝わっている。平成16年10月の台風10号で由良川が氾濫、観光バスが国道で立ち往生、乗客37人がバスの屋根に避難して一夜を明かし9時間ぶりに救助された報道があった。新治によると、河野に否定された堤防は60有余年を経て、今秋完成しようとしているという。
 蔵王エコーラインの通行閉鎖、閉鎖解除の報道に、オープン間もない頃に見学した「旧白州邸武相荘」を思い起こし、白洲次郎を取り上げた文献で彼のダンディな生き方を知った。そして、豪腕政治家河野一郎の人間性の一面を彷彿とさせたエピソードは空耳ではなかったことを確認した。50数年前の記憶が“蔵王の火山活動”によって、我が心のすき間からマグマとなって微かに吹き出し、程なく終息した一瞬だった。
2015年7月09日