山形県立博物館企画展「やまがたの凧」を鑑賞して」

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
山形県立博物館企画展「やまがたの凧」を鑑賞して
1 はじめに
 平成27年2月28日から5月10日まで、山形県立博物館で企画展「やまがたの凧」が開催され、6月28日にその総括として須田真由美学芸員による学芸員講座が実施されました。
 子供の頃には竹などを骨組みとし、絵を描いた紙を貼ったものを校庭や郊外の広場などで糸を引いて遊んだものです。しかし、最近では送電線への被害や感電事故防止の観点等から、凧揚げに制限が加わるなどして伝統行事以外はこのような光景を見ることができず、今回の企画展での解説や講座は、昔を思い出させてくれる懐かしいものがあったのと同時に凧という名の由来、凧と庶民との関わり、凧に関する逸話等について種々得るところがありましたので、展示や講座から得た事項と独自に調べたことをもとに凧について纏めてみました。
2 「凧(たこ)」は中国から伝来した
 凧は中国から平安時代の中期頃に日本に伝わったものとされ、中国名の「紙鳶(しえん)」とか「紙老鴟(しろうし)」などと呼ばれていました。「紙鳶」や「紙老鴟」は、紙で出来た「鳶(トンビ)」を指すもので、もともとは足の無い形でしたが、後にこれを安定させて、それこそ鳶のように空高く揚げるために足が付け加えられ、「烏賊(いか)」の姿になったというもので、室町時代になると「いかのぼり」とか「いか」などと呼ばれるようになり、江戸時代になっても江戸時代の寛永年間(1624〜1643)の『書信字考節用集』などに「紙鳶」や「紙老鴟」に全て「いかのぼり」とふりがながつけられていたそうです(『たこ、凧、カイトで町おこし』(日本の凧の会会長/凧の博物館館長 茂出木雅章)。
 中国では、凧揚げは天上界の先祖の霊を慰めるための行事に用いられ、また,戦争時には狼煙の代わりに揚げられたところから、日本でも京都や奈良を中心とする地域で貴族や武士と言った一部の人々が信仰や戦争に盛んに用いていたようです。
 新潟県三条市には「いか揚げ山」と言う地名があるそうですが、ここは戦国時代、この山の奥の城に連絡用の凧を揚げた場所とされ、また、農作業がひと段落した端午(菖蒲)の節句(旧暦では6月20日頃となります。)に部落民総出で物見遊山に行き、凧を揚げた所であるとされています。そして、三条市には戦国時代に「六角巻凧」という凧が作られ、現在でもこの凧を「いか」と呼び、地域で「三条いか合戦(新潟県指定無形民俗文化財)」と言う伝統行事が実施されているようです。
 3 「いか」が「たこ」になり、たこ揚げ禁止令が出た
 前述の『たこ、凧、カイトで町おこし』には、元禄年間(1688〜1703)の『特優細屋』の凧図は半月形に7,8本の長い足が付いており,「いか」か「たこ」かが判別しにくいものとなっていたとあります。
 今年の5月31日に滋賀県の近江八日市で、畳100畳ほどの大凧の落下事故によって死者が出たことが報道されましたが、江戸時代には、大凧を揚げることが日本各地で流行し、その結果、武家屋敷では凧揚げで損傷した屋根の修理に毎年大金を費やす事態が頻繁に起き、また、正保3年(1646)3月、江戸城御切手門(おきってもん;通用門の一つで、大奥の女中が出入りする専用の門で、大奥に用事のある尋ね人や商人たちがここで通行手形を改められました。)の門内に火のついたままの凧が落ちると言う事件が発生し、このため幕府は「いかのぼり禁止令」を出しています。しかし、「いかのぼり」は庶民に人気の娯楽であったため、これは「いか」ではなく、「たこ」であると変な理屈で言い訳をしながら大衆は「いかのぼり」をやめようとはしませんでした。
 ところが、大凧の落下は農作物などにも被害を及ぼしたので、明暦2年(1656)にまたもや「市中たこのぼりあげ禁止」が出され、江戸で初めて「たこ」と呼ぶようになったとあります(『たこ、凧、カイトで町おこし』)。ただ、この時の理由は、なんと参勤交代の邪魔になるからとの理由でしたが、それでも庶民は凧揚げをやめようとはしませんでした。また、同じく『たこ、凧、カイトで町おこし』には、正徳年間(1711〜1715)の随筆『六樹園』の「ねざみのすさび」に『都人は「いかのぼり」、関東人は「たこ」と呼べり』と書かれていたとあります。当時の江戸の魚市場には沢山の蛸が水揚げされており、江戸の庶民にとって「いか」より「たこ」が身近な存在であり、関西が「いか」なら「江戸では「たこ」だとする説もあるようですが、定かでありません。いずれにしても徳川家康が江戸に幕府を開くと上方文化が次第に江戸へ移入され、「いかのぼり」がいつしか江戸民衆の独特の民芸として「凧(たこ)」として定着することになり、江戸では、庶民の台頭と相まって人間らしい遊戯の心が発揮されるようになり、もともと凧が信仰的な意味合いを持っていたことから、庶民は神々のいる天への祈りを一本の糸に託して凧を盛んに揚げるようになったとのことです。
 なお、凧という字は風の省略形と布きれからなるもので、日本で生まれた字、つまり国字と言うことになります。
 4 山形城下での「凧揚げ」とその被害調査には町方が当った
 学芸員講座の資料によれば、山形での凧揚げは3月下旬から6月の下旬ごろまでに行われていたようで、揚げる場所も多かったようです。山形の庶民も大凧を好み、七日町連と横町連(現在の山形郵便局の付近)との凧合戦が行われた際、両方の凧糸が切れて、三の丸園外と旅籠町裏まで飛んで行って大騒ぎになったことが山瀬遊園選『山形雑記』に書いてあります。また、幕末の専称寺の日記には、三の丸においての大凧揚げの際、これが現在の寺町一帯に切れ落ちた場合でも捜査は寺社方ではなく、町民が起こした事件として町方役人が担当する旨の記述があります(山形市史資料編2・『事林日記(専称寺日記)』)。
『山形雑記』
山形ハ、彼岸草リ道と申習ハし居候得共、年ニ寄其通りニも無れ共、必ず道ハ乾き、飛々ニハ草履ニて歩行出来る場所は、必出来る也、夫より二月ニ至り若草青み、場広キ場内に而障る竹木も無故、大凧を好ミ、西ノ内三十枚継之凧、岡村民・蟻川ニも有て、横町連ニ七日町連と分れ、凧戦始り、糸の摺合ニ成たる時、両方切れて三ノ丸園外ト旅籠町裏迄飛行、大騒ニ成たる事有り、外十五枚・十三枚位之凧ハ、家並の様に有之、何レも大凧故、子供の手際ニ不叶故、随分御役人ニ成りし人も、雪坊子を冠り、軍師ニ成り、畑中駆廻りタル方も有り、是も古代の寛成風俗なるべし。
『事林日記』
此節三ノ丸ニおゐて折々大凧上ケ候ニ付、若斬落候砌手を附申間敷旨、町方江申付置候之間、各境内近辺江落候共、右同様相心得、手を附申間敷旨、地中門前之者共兼而被申付置候様存候、此段拙者共より得御意置候 以上
  正月廿二日   藤江作太夫
             近藤保助
光明・専称・地蔵・寺院例之通

此節三ノ丸ニおゐて、折々大凧上ケ候ニ付、若切レ落候、手を附申間敷旨町方江申付置候間、各境内近辺江落候共、右同様相心得、手を附申間敷旨、地中門前之者とも江兼而申付置候之様存候、此段従拙者共得御意置候 以上
  二月十六日   田中雄作
             古屋甚蔵
             近藤穂助
右此廻状光明寺より相達シ,当寺より地蔵院ヘ相送ル。石泉寺留り
5 凧の絵柄には庶民の願いが込められた
 山形県内にも「山形花泉凧」(現在4代目阿部太彦氏が天童市乱川を背にした古民家でその伝統を受け継いでいます。),「隠明寺凧」(新庄、保存会有)、「酒田凧」(酒田、保存会有)「鶴岡凧」、「庄内すみ凧」、「米沢凧」、「高畠凧」、「谷地凧」などのように全国的にも有名な凧があることを知りましたが、その絵柄には、昔物語、歌舞伎、浮世絵などを題材として、「子宝に恵まれるように」、「子供に幸せが来るように」、「幸運、金運が舞い込むように」、「武運長久を祈って」、「病が寄り付かないように」等諸々の願いを込めて、「お多福」、「般若」、「鍾馗」、「達磨」、「恵比壽」、「大黒天」、「桃太郎」、「金太郎」、「義経」、「加藤清正」、「曽我兄弟」、「自来也」、「神功皇后と武内宿祢」などが好んで用いられました。ただし、浦島太郎は竜宮城から帰ってから玉手箱を開けたことにより、一瞬のうちに老人になったことから凧の図柄としては用いられませんでした。驚いたことに歌人斎藤茂吉は凧絵が非常に上手で、子沢山を意味する犬や、桃太郎の武者絵などを描いた絵柄が多く残っており、「犬乗り桃太郎」ほかたくさんの凧を作成していることを知りました。
 「奴凧」と言う凧は、江戸庶民のささやかな願いを乗せたもので、「奴のような身分の低いものでも高く揚がれば上級の物を見下せる」ということで盛んに揚げられていたようです。
6 昨今凧揚げ風景を見なくなった
 最近では伝統的な凧揚げ行事以外にほとんど凧揚げ風景を見ることはできません。凧揚げでは凧糸を500メートルとすると見通しで半径500メートルの余裕が必要で、このような広場は郊外の大公園や河原以外には確保することができません。たとえ町内にこのような広場があったとしても、近くに電線があれば電線への引っ掛かりが、住宅があれば建物や庭木への落下などの問題点があって、自宅近くでの凧揚げは事実上不可能になります。また、これ以外にも情報化社会による平準化により電子機器ゲーム機の普及があり、一方では、核家族化、少子化などにより伝統的な行事や昔遊びが衰退してきたことも凧揚げ風景を見ない原因の一つとして挙げられます。
 昨今、子供たちは、自室に引きこもり、携帯ゲーム機の液晶画面凝視で視力障碍を起こすことが多いのですが、凧やぶんぶん独楽のように自分で材料を加工してものを作ると言う昔遊びの良さを再考し、たまには川原などで思い切り凧揚げに興じることは、心身の健康にとっていいことではないかと思うのです。。
7 おわりに
 今回の展示は、明治期から現代までの県内各地方に伝わる17種類、約130点の凧を民俗学の見地から展示したものでしたが、「やまがたの凧の魅力」は、加藤清正、義経、渡邊綱、金太郎などの英雄、お多福、恵比壽その他の縁起物などを昔話や歌舞伎の名場面などに求めて描いた図柄が多く、これら豊富な題材は人々の深い教養をうかがわせるものがあります。また、隠明寺凧や山形花泉凧はじめ各地の版木を彫る技術の巧みさ、山形花泉凧、酒田、鶴岡、米沢などの凧の鮮やかで繊細な色遣い、絵柄の巧みさは、美術的に優れた芸術品であると感じました。そして、このような凧造りが盛んに行われていたのは、材料的に風に撓る竹と丈夫な和紙の生産に恵まれていた事も一因だと思います。重ねて、山形県のホームページで隠明寺凧、酒田凧、花泉凧を「山形県ふるさと工芸品」として取り上げているように、また、「荘内日報」や「民報藤島」が鶴岡の凧研究者・鈴木隆さんを紹介しているように、凧つくりがそれぞれの地域に深く根ざして伝統的な民俗芸術として今日まで継承されていることに深い感銘を受けた次第です。
2015年8月2