大先輩、根上富治画伯の《ネックレスを持つ少女》と《飼鷹》 |
64回(昭和32年卒) 庄司英樹 | ||
大先輩、根上富治画伯の《ネックレスを持つ少女》と《飼鷹》 最近、同窓会大先輩の根上富治画伯(21回大正2年卒)の作品に相次ぎ出会う機会があった。「商工月報」(山形商工会議所発行)2015(平成27)年5月号の表紙絵になっている《ネックレスを持つ少女》(山形美術館)と最上義光歴史館の特別展「山形大学附属博物館の掛軸展〜幸せを願う絵画〜〈〜9月13日(日)入館料 無料〉で展示されている「飼鷹」の2作品 《ネックレスを持つ少女》(絹本着色 縦110a、横87a)」(山形美術館) (山形美術館 白幡菜穂子学芸員の解説) 根上富治は1895(明治28年)、酒田市生まれ、荘内中学を経て東京美術学校(現・東京藝術大学)へ入学、結城素明に師事しました。当時、荘内中学では東京出身の小貫博堂が図画指導にあたっており、多数の生徒を東京美術学校へ進学させていました。その中でも特に大きな功績を残したのが富治です。4年生のとき、帝展に入選、翌年には「飼鷹」(山形大学付属博物館蔵)で特選を受け、一躍その名を知られるようになります。写実を基本とした手堅い技巧が評価される一方で、「ねあがり・とみじ」という名が縁起良いと注文が殺到したという逸話も残っています。 その後、日本画院の創立同人となり、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)で教鞭をとるなど日展・日本画院等で活躍を続け、昭和56年に亡くなりました。 本作品は1949(昭和24)年、第5回の日展委嘱作です。美術評論家河北倫明(かわきたみちあき)より「色のコントラストと細部の美しさ」「引きしまった佳作」と高く評価されました。カーテンや人物の質感まで描いた写実的画面は、西洋画を想起させ、60年以上経った今日においても、その魅力は一層の輝きを放っています。(商工月報Vol .711) 《飼鷹》」(山形大学附属博物館) 最上義光歴史館の特別展「山形大学附属博物館の掛軸展「幸せを願う絵画」 『解説パネル』 花鳥画を主に得意とした根上富治が、第4回帝展に出品し特選を受賞した作品です。描かれた二羽の鷹は足を繋がれており、恐らく鷹狩りに使用されるオオタカであると思われます。鷹は富と力の象徴とされ、日本画の画題として好まれました。鷹を描いた日本画は数多く存在しますが、鷹と猫を対で描いた作品は他に類を見ないため、富治は実際にこの光景を見たのかもしれません。猫の方は、鷹の大きさから成長期後半の幼猫とも判断できますが、自分を冷静に観察する二羽の鷹に気づき、悠然と睨み返しています。動物たちの視線の交差により緊迫感溢れるこの作品は、まさしく富治の卓越した写実力と優美さが織りなす逸品であると言えるでしょう。 2020年東京オリンピックの新国立競技場をめぐり今一番に注目の明治神宮外苑。その外苑入り口から銀杏並木越しに見る景観の中心にある「絵画館」。明治維新の大改革の歴史的光景を史実に基づいて描かれた日本画40点、洋画40点の80点が常設展示されている。 前田青邨の「大嘗祭」堂本印象の「侍候進講」根上富治の師、結城素明は「江戸開城談判」と「内国勧業博覧会行幸啓」の2点、それに山口蓬春の「岩倉大使欧米派遣」など日本史の教科書にも載っている壁画。35番には根上富治の「奥羽巡幸馬匹御覧」が展示されてある。(http://meiji.sakanouenokumo.jp/seitoku/index4.html) 根上富治画伯を父に持つ、幸夫君とは鶴岡第4小学校で同じクラスだった。戦時中に家族で鶴岡に疎開。私は4年の時に西郷小に転校している。3年の担任だった八幡加治雄先生が、教え子の退職期にクラス会を呼びかけ、転校生の私にも連絡があった。 疎開児童の出入りが多かった当時の教え子達。先生が自ら追跡調査して名簿を作成。地元鶴岡の幹事役は、日向常浩君(64回)、先日鬼籍に入った加藤義彦君(同)、首都圏は中村愃(ひろし)君(東京 東松山市 同)。昭和22年に担任の八幡先生を囲む同級会が実現した。 幸夫君(神奈川県茅ヶ崎市)は「自分を覚えている人がいるだろうか。"異邦人"では…」と不安を抱えていたが、杞憂だった。中村君によると先生の名簿には、一人ひとりの就職先、進学先までメモしてあったという。先生を囲む同級会は鶴岡市周辺、先生が神奈川県に転居されてからは町田市や東京上野で開かれた。小野寺征夫・佐藤文一・板垣(阿部)武雄の3君も同級生で鶴翔同窓会の64回卒だったが死去。 幸夫君は「鶴岡時代の記憶はなにしろ70年近く以前の話なので記憶が薄れています。 住まいは たしか 上肴町という地名だったようです。子供心にもあまり大きい家だったとは思えませんが? 裏に稲荷神社があったように記憶しています」という。 隣に住んでいた小池良二君(千葉県白井市 64回)によると、幸夫君は加茂の尾形家が所有していた2階建ての空き家に両親、お姉さんと住まいしていた。根上画伯が玄関前で毎日のように屈伸運動する姿を記憶している。威厳があって眼光が鋭く、幸夫君とは毎日遊んだが、家に入って遊んだことはなかった。 上肴町は本町3丁目に町名変更になり、尾形家の建物も今はないが、遊び場の神社は豊饒稲荷神社として現存している。また近くの「百間堀」は小魚、ザリガニ、腹の赤いイモリ、イナゴの宝庫。気が付くと、足にはヒルが張り付き血を吸っていた。後に市営野球場になり、今は慶応大学先端生命科学研究所を中心にタウンキャンパスとして鶴岡の新しいランドマークになっている。(http://townphoto.net/yamagata/tsuruoka5.html) 鶴岡公園は冬には池が凍結しスキー、手作りのソリで湖面に滑り降りられる絶好の遊び場だった。 幸夫君によると《ネックレスを持つ少女》のモデルになったお姉さんを描いたもう一つの作品があるという。「姉の琴を弾く姿を題材にした作品がどういう経緯か知れませんが、恐らく昭和17〜8年ころに当時のナチスドイツ駐日大使otto氏に贈呈されていたようで、その絵は戦火で燃えてしまったのでしょうか?どうやらotto氏は戦後も生き延びたようで今度ドイツに行く機会があったら調べてみようかと思っています」 担任の八幡加治雄先生は第4回山形県美展に出品して入選、白甕社展には毎回出展する終生絵筆を持ち続けた人。後に当時の山形新聞のコピーを差し上げたところ、苦笑していた。今回、県立図書館でマイクロフィルム化された山形新聞で記事を探してみた。昭和23(1948)年 11月4日付に第4回県美展「洋画」の入選結果が掲載されていた。 県知事賞「山の湯」菅野矢一、市長賞「U氏の家」近岡善次郎、同「雪景」真下慶治、山新賞「塩鮭」三井惣一と続き、最後に美協賞「鉄道のある風景」八幡加治雄。審査員の硲伊之助の評は「幼稚な絵だが、誠意が出ていて気持ちがいい」とあり、先生の苦笑がわかった。 昭和22年12月、教室で開かれたクリスマスの集い、父母を交えた当時の集合写真が手元ある。教室の正面中央に先生が描いた「野口英世」のスケッチ画を額装して掲げ、その脇には児童の絵も貼ってある。先生の授業は金峯山が見える校舎裏でのスケッチ、夏休み冬休みには絵の宿題が多かった。 小池良二君は母親に手伝ってもらい絵の宿題を提出したことがあるが、見学した母親から「親の才能を引き継いだ幸夫君の絵は大人の雰囲気があった」という話を聞いていた。 また、小池君は母親から、近くの老舗料亭「新茶屋」で根上画伯が個展を開いた話も記憶していた。 「新茶屋」の創業は安永年間の頃(1772〜1780)と言われ明治24年には逗留した書聖と言われた副島種臣が「余、慈の楼に寓するは数日。主人の慇懃を謝す。すなわち、此の語を残して、ここに為す」と書き添えられた書幅「鹿鳴」が現在も広間に飾られている。そして大広間に面した庭園は、樹齢数百年を経た老松が中心をなしている。 (http://sinchaya.com/) 自民党の加藤紘一元幹事長の尊父、故精三代議士が鶴岡市長の頃、この大広間の宴席で「蝉のションベン」と言ってこの老松に登ってへばりつき放尿の特技を披露した逸話もある。 小池君の母親が「新茶屋で買っておけば安く買えたのに」と語っていた。根上富治はあの大広間で頒布会を兼ねた個展を開いたのだろう。鶴岡市の高山樗牛賞受賞、故日向文吾氏の尊父はこの新茶屋の出自、同級の常浩君は文吾氏の長男。 今回、山形大学附属博物館にお願いして《飼鷹》の写真を幸夫君に送ってもらった。彼から届いたメールには「《飼鷹図》の実物は見たことがないので写真を大変興味深く見ました。花鳥が専門だったので、その後も鷹はよく描いていたようですが、若い時の動物を主題にした作品は、対象に向けた愛情が伝わってくるようで独特のみずみずしさを感じます。 私には戦後のどちらかと言えば失意と諦念の時代しか記憶にないので、父の違った一面を見たようでした」とあった。 明治外苑の絵画館に大家と肩を並べて作品が常設展示され、帝展特選作家であり「ねあがり・とみじ」という名が縁起良いと先を争っての注文があったが、戦後は人気に翳りを落としたのだろうか。 幸夫君によると《ネックレスを持つ少女》は彼のお姉さんがモデルという。「私の記憶では 紙を額用に張った(紙を枠に張った?)もので、日展に出品した作品なのでサイズももう一回りくらい大きかったような記憶がありますがあまり定かではありません」との疑問に、白幡菜穂子学芸員は、「収蔵庫で作品を確認してまいりましたが、絹本で間違いございませんでした。また、サイズも絵の部分の大きさを測定したものを表記しているのですが、実物は、額寸で縦横プラス2〜30センチくらいのボリュームがございます。委嘱出品作に相応しい重厚感かと思います」と調査結果を報告している。 幸夫君は「《ネックレスを持つ少女》を出品した翌年、作品があまり好意的に迎えられず、このころ華々しくカムバックしてきた杉山寧氏や橋本明治氏に比べ技法的に古臭い・・おそらくマチエール…画面の質感の処理が・・と思われたためと思います。その後、数回日展に委嘱作品を出品しましたが注目を浴びることはありませんでした」という。 白幡菜穂子学芸員は「戦後は伝統的な様式を糾弾し、日本画滅亡論が取り沙汰されるなど動乱の時期にあって、既に評価を得ておられた先生方は大いにご苦労があった」と推測している。この印象が幸夫君には強烈だったのだろう。 根上富治画伯一家は疎開先の鶴岡を離れ、東京渋谷の家は、戦時中にやはり東置賜郡赤湯町(現・南陽市)に疎開した日本画家山口蓬春の家を大正か昭和初期に買い求めていた家。 幸夫君が父親の形見として所蔵していた唯一の作品、日本画院出品作《幼梟》は、故郷に末永く残しておきたいという願望から、2007(平成19)年に山形美術館に寄贈された。 鶴翔同窓会名簿を幸夫君に送ったところ「独文学者で文化勲章受章の相良守峯氏とは同級と父から聞いた覚えがあるが、名簿で父の話を確認した」とメールがあった。 故八幡加治雄先生を慕い、喜寿を迎えたわれら"老童"が疎開児童も交えて交流し、山形の馬見ヶ崎川原で秋を味わう「芋煮会」は20年を数える。今年は最上義光歴史館の特別展開催期間中に根上富治画伯の作品《飼鷹》を鑑賞、その後に芋煮会で舌鼓を打ち、「美術の秋」と「食欲の秋」をあわせて楽しむことにしよう。 ※ 山形美術館の白幡菜穂子学芸員の夫君の尊父は白甕社前委員長、白幡 進氏(60回28年卒)、母校で美術を担当された教諭。 |
2015年8月21日 |