朝顔の種

62回(昭和30年卒) 石垣 藤子
 
朝顔の種
 三年前、2012年の夏、私は北海道への旅をした。鶴岡南高校時代の気の合う仲間十数名のグループの旅である。折しも、その時私は年甲斐もなく、所謂五十肩に苦しんでいた。行こうか行くまいかと悩んだのだが皆の熱い誘いを受けて参加したのであった。函館の湯の川温泉集合だった。函館、札幌そして富良野のラベンダーまで。楽しい旅行だった。北海道に在住している仲間も参加してくれて、何処へ行くにも楽しく高校生時代に戻ったような気分で歩いたのだった。
 その道中のホテルで同室に泊まった友人がいた。彼女は北海道の森町に住んでいた。小学校の教員を長くして、今は子供達も独立し一人暮らしとのことだった。彼女も在職中に五十肩で辛かった経験があると言うことなど、これまでの人生を振り返りいろいろと話したものだった。こんなにも楽しい会なのと翌年の同期学年の新年会には是非出席したいと言っていた。その年の新年会は熱海温泉だった。その時まで何度か手紙のやりとりや電話での話あいもしたが、結局熱海のホテルで会うことに決めたのである。所が翌年の1月末、熱海のホテルのフロントでいくら待っていても遂に彼女は現れなかったのである。彼女にとっては初めての首都圏グループ主催の新年会であったので、途中で迷ってしまったのだろうかと心配した。ところが何ということだろう。同じ加茂中出身の男性が一人出席していて、一週間程前に既に亡くなったと言うではないか。皆愕然とした。一晩中焚いている薪ストーブ辺りが火元だったのか、自宅が全焼、焼死したのだという事実が判明した。大きな衝撃を受けた。熱海での新年会の翌日は都内のホテルで一緒にもう一泊しようと決めていたのである。北海道旅行の後、その年の秋には喜寿の同期会が湯の浜温泉であり大勢集まった。その時も翌日湯田川温泉一泊で女子会も行い楽しい時間を過ごした。数少ない女子生徒だったが仲のいい学年である。台風の影響があり北海道からの彼女は一日遅れで女子会にだけに出席してくれたのだった。皆で枕を並べ、夜遅くまで積る話は続いた。

 彼女の不幸のショックと自分の肩の痛みもあり、医者通いを続けているうちに、彼女からもらった手紙は何処か奥の方へしまい込まれてしまっていた。ところが今年の春、その手紙が出てきたのである。その中の大きな茶封筒の中に小さな花の種の小袋が二つ入っていた。3年も経っているわけでおそらくは無理だろうと思ったが、プランターに蒔いてみた。するとどうだろう小さな芽が2本出てきたのである。それは朝顔の芽であった。改めて種が入っていた小袋を見てみると彼女の達筆な文字で一つには「むらさきはなな」もう一つには「撫順の朝顔」と書いてあったのである。その朝顔の芽だったのである。「撫順?」おや?これは?と不思議だった。遥か昔私はその撫順に住んでいたことがある。露天掘り炭鉱のある、大きな街だったと思う。国民学校1年生の時に当時その街の旧制女学校の教師だった父に連れられて露天掘りを見に行った事を覚えている。中国東北部旧満州と言われていた所である。

 「撫順」に関してすぐネットで検索してみた。「撫順の奇蹟」、「撫順の朝顔」等々沢山の事が出てきた。これまで全く知らないことだったが驚くような史実がわかったのである。

 70年前の終戦の後、捕虜となってシベリアに抑留されて過酷な労働や生活を強いられた何千もの人々が遠い国の土の下で眠っているであろうことは想像に難くない。所がその中の約千人近くの日本人捕虜がシベリアから撫順に移動されたそうだ。戦犯として軍事裁判にかけられるためだったらしい。大きな収容所が撫順にあり、旧満州国の溥儀関係の中国人と共に、数年そこで過ごしたらしい。時の首相周恩来の人道主義の思想のもと日々三度の食事も与えられ人間としての生活を送ることが出来たのだ。「罪を憎んで人を憎まず」と一人も処刑することなく日本人の捕虜全員を母国に帰したのである。昭和30年代に入ってからの帰国のようである。死刑を覚悟していた軍人も大勢いたらしい。大変驚いた。そんなことがあったとは全く知らなかった。

 どんな色の朝顔が咲くのだろうと大事に育てた朝顔は毎朝七つ八つと咲いてくれた。少し小ぶりの深い青紫の花である。葉はきれいなハート型をしている。天国に逝ってしまった友達にありがとう、今日も咲いたよ。見えるかなと心で呼びかけた。

 千人近くもの捕虜の人達が帰国するときには、「もう二度と武器を持って大陸に来ないで下さい。帰ったらきれいな花を咲かせて幸せな生活を築いて下さい。」と数粒の朝顔の種をくれたのだという。当時の状況を考えれば、あり得ないような奇蹟的な話である。 「赦しの花 あさがおのはな」。「むらさきはなな」と共に平和のシンボルとして知られているとのこと。

 無事に帰国した人達はその優しさに感動し毎年その朝顔を大事に咲かせたという。「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」というものが全国にあったそうだが殆どの人々が高齢化したために2002年に解散したとの記録がある。

 3年ぶりに芽を出し、花を咲かせてくれただけでも感激であったのに、撫順の朝顔にはそんな意味があったのかと深く感動した。この種は大切にしなければと心に決めたのである。

 今年の8月15日終戦記念日に昔の教え子たちの還暦の同窓会が天童温泉であった。6クラスも有る大きい中学校であったので、還暦ということもあり120人もの生徒が集まり盛会だった。しかし残念ながら担任教師は次々に他界してしまい僅か3人だけの出席だった。

 昔の教え子の同窓会では古い教師のスピーチは短いに限ると心している。さてどうしようかと思ったが、多分もう会えることもなかろうかと思い多少の躊躇感はあったのだが、「撫順の朝顔」の話を極く短くかいつまんで3分ぐらいで話した。

 「今日は終戦記念日。70年前のこの日を体験している人間として、戦争を知らない皆さんに是非伝えたい。決して子供や孫を戦場に送ってはならない。日本のいや世界の平和を目指してほしい。」と結んだ。

 するとどうだろう、宴会が始まるとすぐ一人の生徒が近寄ってきた。「先生、さっきの話、とてもよかった。僕は撫順に行ったことがある。あの話は知っています。」またまた驚いた。彼は酒田市に住んでいて、高校の英語の教師をしてきたのである。以前北海道で研修会があった時に小柄な女の先生と知り合った。そして年賀状のやり取りをしていたがある時期から途絶えたという。もしや先生の友達は(八木田さん)ですか。また奇蹟が繋がったのである。英語教師の彼も自分が谷地出身とは言ってないし、まさかあの人も山形出身の人だったとは知らなかった。そう彼が話してくれたのである。本当に驚きの再会だった。

 3年ぶりに種をまき、きれいに咲いてくれた撫順の朝顔がこんなにも人と人を繋いでくれたのである。奇蹟とも思える出来ごとである。

 つい先日、鶴岡の友人や教え子から届いただだちゃ豆で豆ご飯を炊き、昔お世話になった大先輩が暮らす老人施設に持って行った。車いすにはなったが頭脳は明晰、90歳になる元音楽の女教師、歌人でもあり、歌集を上梓された人である。美味しい美味しいと食べてくれた。「撫順の朝顔」の話も聞いて下さり、こんな話を聞かせてくれた。アララギ派の歌人島木赤彦の生家のある諏訪湖の畔に行った際、松本城のある街のどこかで大変きれいに見事に咲き揃っていた朝顔が印象的だった。聞けば同じ青紫の朝顔である。種を貰って来て植えた事があるとのこと。もしかすると・・・・と思いを巡らした。 ネットで検索してみると、甲府盆地にさいた撫順の朝顔という文言が確かにあった。逝ってしまった友達からもらった朝顔の種はこうして繋がっていったのである。


 自分の人生の残り時間もあとどれほどか知るよしもないが、人を思う人の心だけは忘れないで生きて行きたいと願うばかりである。 「赦しの花 あさがおのはな」を忘れずに、来年も大切に咲かせてみたいと考えている。
2015年9月01日