| 陸軍第八師団第五連隊の八甲田山雪中行軍遭難事件 ～山口 鋠少佐の最後と中原貞衛一等軍医～ |
| 64回（昭和32年卒） 渡部 功 | ||
| 陸軍第八師団第五連隊の八甲田山雪中行軍遭難事件 ～山口 鋠少佐の最後と中原貞衛一等軍医～ １ 新田次郎著『八甲田死の彷徨』と映画『八甲田山』 1902年（明治35）1月の陸軍第八師団第五連隊の「八甲田山雪中行軍遭難事件」は、新田次郎により小説『八甲田山死の彷徨』として昭和46年（1971）に新潮社から発刊され、さらに1977年（昭和52）にはこの小説を原作にした映画『八甲田山』（橋本プロダクション・東宝映画・シナノ企画の製作）が上映されたことによって世に広く知れ渡りました。 当時の中国大陸の情勢を振り返ってみると、東アジアへの進出に力点を置いていたロシアは、1891年（明治２４）にシベリア鉄道の建設を開始し、更に1896年（明治29）には満州を横断する東清鉄道の敷設権を清に認めさせ、その上1900年（明治33）に発生した「義和団事件」に際して出兵し、事実上満州を占領下に置き、事件解決後も撤兵しませんでした。 このようなロシアの東アジアへの進出は、日清戦争（1894年（明治27）７月～1895年（明治28）３月）に勝利し、同じく大陸への進出を強めていた日本にとっては、重大な事案であり、もはや大陸での日本とロシアの衝突は不可避と見られていたのですが、日本軍は、寒冷地装備と寒冷地訓練の不足を危惧しており、このために八甲田山を舞台にした厳冬期の軍事訓練が計画されたのです。 1902年（明治35）１月23日、陸軍第八師団第五連隊は、雪中行軍演習のため一泊二日の予定で青森を出発しました。第二大隊長山口鋠少佐以下210名の将兵は、青森から八甲田山腹を経て三本木（現十和田市）に至る予定でしたが、その日の午後からは史上最悪とも言える過酷な気象状況となり、一行は猛烈な吹雪の中に突入してしまい、八甲田山中で遭難、結果、生還者17名（内6名が入院中に死亡）、最終的には死者199名という日本山岳史上最大の山岳遭難事件を起こしてしまったのです。将兵達はあてどない彷徨の果てに体力気力をなくし、結果多くの人々が凍死したのですが、的確な判断が出来ず、無謀な強行突破に活路を求める選択を下したとされる山口第二大隊長は、救出されて病院に収容されたものの遭難事件の責任を取り自決したとされました。 事件の粗筋は以上のようなことで、私も新田次郎が、当該事件について仔細に調査して作品を発表したものと信じ、小説やこれを基にしての映画の内容は、関係する人物の名前の表記が一部実名とは異なるもののすべて真実を述べているものと疑わずに今日まで過ごしてきました。 ２ 松木明知著『八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか』 ところが、その後この小説や映画の内容に異論を唱えている人物がいることを知ったのです。 その人の名は松木明知という人で、長らく弘前大学医学部で麻酔学を担当し、現在は同大学の名誉教授であることがわかりました。そして、博士は現職の時から今日まで医師という立場から当該事件の真相解明に努めているほか、華岡青洲についての論考や日本における「牛痘種痘史」や「ねぶたの起源と呼称」などについても研究され、その成果を数多く発表されている方でもあります。 博士の生まれは、弘前で、実家の一部が暫くの間、第八師団長の官舎代わりになっていた関係上、小さい時からこの遭難事件のことを父親から聞き及んでいたこと、弘前大学医学部を卒業後、同大学医学部麻酔学教室に入局してから雪中行軍遭難事件生存者の治療に関する論文を見出したことなどが当該遭難事件を医学的見地から調査研究する切っ掛けとなり、以来軍部の報告書や小説の記述内容の誤りを指摘した論文を数多く発表しています。 博士が2007年（平成19年）に著した『八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか』（津軽書房）が、2012年（平成24）10月1日に再版されたことを知り、早速作品を読んでみることにしました。その結果、山口少佐の自決は、事実に反していること、また、少佐の死には、山形市出身で当時山形衛戍（えいじゅ）病院の軍医であった中原貞衛という人物が深く関わっていたことなどを知ったのです。 ３ 山口少佐の最後（弘前大学名誉教授松木明知博士の見解） 山口少佐の死因に関する松木博士の結論を要約すると次のようになります。
『自分の判断ミスで２００名に近い将兵の命を失った山口少佐の心中は想像に難くないが、少佐は責任を取って自決したいと当然考えたと思う。然し凍傷のため四肢の自由が効かず、自決することは不可能であった。』と結んでいます。 また、『事実、明治３５年の『凍傷患者治療景況』（陸軍軍医学会雑誌）の末尾に山口少佐は「心臓麻痺」で突然死亡したことが記載されており、このことは陸軍が山口少佐の死因を心臓麻痺として正式に発表したことを物語っている。そして、この報告は、1992年（平成4）1月末、青森市の村上正一医学博士宅で発見された『明治35年凍傷患者治療報告』の後半であることが確認された』とも述べています。 ４ 山口 鋠少佐という人 山口鋠少佐は、旧姓を成澤鋠と言い、安政3年（1856）幕臣の子として生まれました。 幕末から明治にかけての英学者・翻訳家・教育家で、『イッソップ物語』の翻訳家としても有名な人に渡部温（わたなべ おん）という人物がおりました。この渡部温が沼津兵学校教授を務めていた折、温は妻・貞の実父、成澤良作、良作の長男で貞の弟である知行（後の陸軍砲兵大佐）、その弟の鋠の一家を呼び寄せて同居し、鋠には自らの長男・朔と併せて学問の手ほどきをしました。つまり、鋠にとって温は義兄に当たることになります。このような関係で鋠は幼児期を沼津で過ごしたのです。その後、鋠は山口家に養子に入ったため山口姓を名乗ることになるのですが、妻れいとの間に子が恵まれなかったため、実兄成澤知行の長女・鶴代を養女としました。 義兄・温は、長崎その他で洋学を学び、幕府の「洋書調所（後に開成所）」で英語を教え、大政奉還（慶応３年（1867）10月14日（11月９日）の後は、幕臣を対象とする西周を頭取（校長）とする「沼津兵学校」の教授となっていましたが、廃藩置県（1871年（明治４）７月14日）後東京に戻り、新政府に出仕、大蔵省などを経て東京外国語学校の校長を務めました。このような経緯があって、鋠は東京外国語学校に進み、ここでフランス語を専攻し、その後陸軍士官学校、陸軍戸山学校で学び職業軍人となるのです。軍人となってからは日清戦争に従軍するなどした後に、山形の歩兵三十二連隊に勤務し、1901年（明治34）２月７日、山形三十二連隊から第５連隊第二大隊長として発令され、翌年には当該遭難事件のために45歳で他界することになってしまったのです。 墓碑は青森市幸畑の旧陸軍墓地にあるほか、東京谷中霊園に「雪難」と刻まれた墓碑が山口家代々之墓とは別に建立されています。 なお、東京外国語学校は、1873年（明治６）の設立ですが、1885年（明治18）までに英語、フランス語、ドイツ語は東京帝国大学予備門（第一高等学校）に吸収合併され、中国語・ロシア語・朝鮮語の各学科は東京商業学校（のちの東京商科大学）に吸収合併され、再度東京外国語学校になるのは、1899年（明治32）に前述の東京商業学校から分離独立してからです。 山口少佐の場合は、東京帝国大学予備門に移らず、軍人養成の士官学校に進路を変更したことになりますが、後述するように中原軍医は、東京外国語学校から第一高等学校に進学し、東京帝国大学医学部に入学するのですが、家庭の事情により軍医の道に進み、奇しくも山形では山口少佐と部隊を同じくしたのです。 ５ 中原貞衛一等軍医という人 中原貞衛一等軍医は、元治元年（1864）9月、山形藩水野氏の藩士平林氏の次男に生まれ、12歳で藩校立誠堂の助教師に登用され神童と呼ばれました。15歳で医学を志し、山形県立病院済生館医学寮に学び、19歳の時、山形藩医で、明治維新後六日町で開業していた中原葦州雄の養子になりました。 中原家は天明年間から水野家の藩医として仕え、それより四代を経て中原太仲が弘化2年（1845）、水野氏が遠州浜松より山形五万石に移封の際、随従して山形に入り、太仲に男子がいなかったため娘ミエに婿養子として蘭方医の葦州雄を迎えました。葦州雄は医業の傍ら西洋医学教授の私塾を開き、居宅を旅籠町三島通り（筆写注記：現在の遊学館前界隈）に移して多くの塾生を養いました。この葦州雄夫妻にも男児が無く、三姉妹の長女キエに貞衛を迎えたのです。キエは1891年（明治24）に東京大学医学部産科学教室内産婆養成所の第一期卒業の才媛で貞衛との間に四男四女をもうけています。 貞衛は、結婚後上京して東京外国語学校から第一高等学校を経て1887年（明治20）東京帝国大学医学部に入学したのですが養父が病に斃れて学資の道が途絶えたため、陸軍委託生となって1891年（明治24）東京帝国大学医学部を卒業、翌年3月、陸軍三等軍医に任じられ、日清戦争時に大阪第四師団衛生隊として出征、1896年（明治29）4月凱旋して軍の命令により、大学院に入学し、1896年（明治31）4月まで外科を専攻し、近衛師団野砲隊付きとなり、次いで東京衛戍病院に転じ、陸軍一等軍医に昇進、翌年9月に山形衛戍病院付になって郷里に戻りました。 「衛戍」とは、軍隊が一つの土地に長く駐屯して警備・防衛の任に当たることを言い、「衛戍病院」というのは、陸軍病院の旧称のことを言います。 陸軍歩兵三十二連隊は、1897年（明治30）8月に山形城址に駐屯し、同時に同所に山形衛戍病院も開院しました。そして、1899年（明治32）10月、旧山形県立中央病院、現「県民ふれあい広場」の場所に新営され、1936年（昭和11）年に至って山形陸軍病院と改称になっています。 郷里に戻ってからの中原は、山形衛戍病院に勤務する傍ら、済生館の嘱託として外科の主任を務めていました。当時、済生館は、県営から私立病院になっていましたが、経営に行き詰まり、後継者を探していましたので、中原は希望を出し、所有者である山形県に病院施設の払い下げを申請しました。しかし、病院の公共性に鑑み、山形市議会も立ち上がり、競願の形となったため、両者折衝の結果、済生館は山形市が経営することになりました。 ただし、山形市は、旧山形城二の丸大手前、香澄町桜小路の旧水野藩主邸の一部（注）を病院敷地として買収することを斡旋し、中原は1903年（明治36）12月に現在の「至誠堂病院」を開業しました。 ところが、翌年勃発した日露戦争のために中原は陸軍軍医として召集され、広島の野戦病院に勤務することになり山形を離れます。幸い翌年9月に召集解除となり、山形に帰ることになったのですが、残念なことに途中福島駅で腸捻転を急発し手当ての甲斐もなく同月23日不帰の客となりました。享年42歳でした。その亡骸は山形市六日町の浄土宗の天然寺に葬られたのですが、拙稿をまとめるにあたって天然寺に伺ったところ、その後末裔の方が山形を離れられたため、天然寺にあった立派な墓碑など一式は墓仕舞となり、先祖累代の遺骨等は関西方面に移されたとのことでしたので、現地での墓碑の確認は叶いませんでした。 （注） 明治維新後、旧水野藩庁は政府に接収され、その後、現山形県誕生以前は山形県庁が置かれていたが、統一山形県誕生後は、現文翔館の位置に県庁が移転したため、跡地は民間に払い下げられていた。 ６ 中原貞衛一等軍医が青森に召喚された理由 以上、山口鋠少佐と中原貞衛一等軍医との略歴を見てきましたが、二人が繋がるのは、フランス語とドイツ語というように専攻した言語は異なりましたが、東京外国語学校の先輩後輩の仲であり、山形歩兵三十二連隊では所属部隊を同じくしたということです。このような因縁でしょうか、八甲田雪中行軍遭難事件の際は、軍命により山形を2月1日に出発し、2月2日朝9時に青森に到着した後は山口少佐の主治医となり、更に当該遭難の際の生存者の治療に尽力し、また、必要な手術の大半を担当するなどして40日ほど青森に滞在しました。このようなことで中原は第八師団の軍医の中でも抜群の腕前を持っていた優秀な外科医であったことは間違いないのですが、松木明知博士は前掲の『中原貞衛と「第五連隊惨事の吹雪』（二） 山口少佐の死因をめぐって」』において『別の見方をすれば、中原が治療して山口少佐を救命できなくとも少佐の家族を含めた誰をも納得させることが可能であり、第三者からも患者の治療に対する疑念や不信感を持たれなかったであろうと思う。このように考えなければ、地元に衛戍病院がありながら中原が急遽山形から呼ばれた理由が説明できない。』と結んでいます。 ７ おわりに 1902年（明治35）の事件発生以来1世紀以上経過したこの事件については、今まで各種の著作が世に出、松木博士の著作も出版社に在庫がなくなる状況です。このような事情から見て、今もって多くの人々がこの事件について大きな関心を持っていることがわかりました。 『八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか』では、当時の陸軍が早急に事の処理を急いだこと、救出された山口少佐ら８名のカルテが存在しないこと、東奥日報社に保存されている過去の紙面が事件直後の９日分だけ欠落していること、第五連隊と八甲田山中で遭遇した弘前三十一連隊が、事件について緘黙（かんもく：口をつぐんで話さないこと。）し続けたこと、第五連隊から発行された『遭難始末』が唯一の公式報告書としてあまりにも過信され過大評価されていること、ほとんどの著作がノンフィクションではなくフィクションとなっていることなどについても、博士の考え方が資料を基に仔細に述べられており、改めて事件の隠れた部分を知るとともに、事件当時の国内外情勢、つまり、日露大戦を頭に描いた雪中行軍であったため、軍は事件の真相究明よりも国家や軍の組織防衛を優先させたものであって、権力というものの絶対性、非情さと言ったものを今更ながら強く感じた次第です。 （参考文献等） 『八甲田山死の彷徨』（新田次郎、新潮社）、『八甲田雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか』（松木明知、津軽書房）、『中原貞衛と第五連隊惨事 奥の吹雪（二）－山口少佐の死因をめぐって』（松木明知、日本医事新報）、『随想山形至誠堂病院の歴史と思い出』（菊池三通男、山形県医師会報第１９４号）、『山形医師会史 前篇』（山形市医師会史編纂委員会）、『済生館史』（後藤嘉一、山形市立病院済生館）、Wikipedia | ||
| 2015年9月3 | ||
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