国の登録有形文化財・山形市の明善寺本堂を拝観して

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
国の登録有形文化財・山形市の明善寺本堂を拝観して

   先月の9日、本同窓会の平成27年度総会前の時間を利用して、遠路はるばる新潟市から参加の青柳明子さん(75回、(昭和43年卒))を案内して会場近くにある「明善寺(めいぜんじ)本堂」(山形市七日町5丁目9番3号、山形市の都市計画道路・諏訪町七日町線の本町工区の沿線(注1))を拝観してきました。生憎鈴木幹雄御院主さんは不在でしたが、坊守さんに資料など頂いた上に丁寧な応接をしていただきました。

 明善寺は、お寺の資料などによれば、長野県長野市篠ノ井にある「白鳥山康楽寺」の十世の三男、釈 覚玄が、現在の天童市山口地内に寛永7年(1630)に創建したものであり、従って明善寺の山号も「白鳥山(はくちょうざん)」と称します。
 現在の境内約2,100坪(6,942.2平方メートル)は、山形城主の堀田正虎(元禄13年(1700)〜享保16年(1731))が帰依して寄進したもので、それ以来今日まで現在地に16世、約三百十数年を経ており、その宗派は浄土真宗本願寺派で、本尊は阿弥陀如来仏となっています。

 明治27年(1894)、1,200戸を焼失した山形市南の大火により明善寺も被災したのですが、中興の祖と言われる12世覚応の代に再興を果たしています。この時の設計者が米沢市出身の伊東忠太博士(慶応3年(1867)〜昭和29年(1954)、東京帝国大学工科大学造家学科卒業、東京大学名誉教授、昭和18年(1943)文化勲章受章、米沢市名誉市民第1号)で、昭和2年(1927)に設計完了、昭和5年(1930)に工事着手、4か年の歳月を費やして昭和9年(1934)に完工しました。

 明善寺本堂は、建築面積98.92坪(327平方メートル)、平屋建て、銅板葺、真壁造り、白漆喰仕上げ、火頭窓付ですが、同時期に設計したインド様式の鉄筋コンクリート造りの築地本願寺とは異なる木造和風であり、屋根も和小屋が採用されております。そして、本堂の両側に鐘楼・鼓楼を設け、向拝(注2)と入母屋の妻面(注3)(背後は平入(注4))を重ねて見せており、伝統的な寺院建築には見られない伊東忠太博士独特のデザインとなっています。また、楼の屋根頂上部にはインドの仏塔(ストゥパー)の頂上にも似たデザインの相輪を載せているのも珍しいことです。ただし、坊守さんの話では、現在左右の楼は使用していないとのことでした。

 本堂内部は、前半分を外陣(げじん:一般の人が参拝するところ。)の60畳の大広間とし、後半分は中央に内陣(ないじん:本尊を安置するところ。)を設け、両脇は10畳の餘間となっています。内陣と外陣とは金色の欄間付の扉で仕切られ、また、外陣の天井は写真の通り金色の折り上げ格子天井に絵文様が描かれており、荘厳な雰囲気を醸し出しています。
 平成15年(2003)には、我が国にとって歴史上、芸術上、学術上価値の高い建造物と認定され、国の登録有形文化財(建造物)に指定されました。








  (注1)都市計画道路・諏訪町七日町線の道路拡幅に伴い、平成25年(2013)から平成26年(2014)にかけて参道や石垣・白壁塀の移転改修、山門修復、墓地移転、駐車場整備などの工事が実施された。
(注2)仏堂や社殿の屋根の中央が正面に張り出している部分のことをいう。
(注3) 勾配屋根のかけられた建物の棟に直角方向に平行材が渡される両側面のこと、つまり勾配配屋根の三角形の面をいう。
(注4)切妻屋根の流れの方向を「平」といい、平側から建物に入る形式を「平入」という。つまり、棟と平行な面に出入り口がある形式のことをいう。

 明善寺本堂の設計を伊東忠太博士が行ったのは、博士の実弟(伊東家三男、三雄蔵(みおぞう))が、山形の紅花商人であった村井家に養子として入ったのですが、この村井家が明善寺の檀家総代であった縁によるものなのです。なお、三雄蔵も東京帝国大学を卒業し、当初は山形県の林業技師として勤め、後には(株)山形交通自動車商会の代社長となった人です。
 なお、昭和18年(1943)に三山電気鉄道(株)が母体となって、(株)山形交通自動車商会、尾花沢鉄道(株)、高畠鉄道(株)、今村自動車(株)を併合して現在の山形交通(株)となりました。

 伊東忠太博士は、明善寺の属する浄土真宗の東の拠点「築地本願寺」の設計者でもありますが、この設計を依頼したのは、西本願寺第22代門主の大谷光瑞(おおたに こうずい)門主(明治9年(1876)〜昭和23年(1948))で、大谷光瑞門主は仏教の源流を探ろうと、ユーラシア全域へ大谷探検隊を派遣(明治36年(1903)〜大正3年(1914))したことで有名ですが、同様に日本建築のルーツを求め、中国、インド、ビルマ、エジプト、トルコ、欧米を3か年かけて旅行し調査した伊東忠太博士とは中国で偶然に出会い、これが契機となって二人は知り合い、急速に関係が深まったのです。このようなことで、明禅寺の本堂工事着工の1年前の昭和5年(1930)に築地本願寺の設計者に決定していました。

 築地本願寺は大正12年(1923)の関東大震災の際倒壊は免れたものの火事で焼失したもので、再建に当たっては鉄筋コンクリートで建設されることになり、着工は昭和6年(1934)で竣工は明善寺と同じく昭和9年(1934)となっています。西本願寺建設は、伊東忠太博士にとって、ユーラシア現地調査で吸収した多彩な様式を取り入れる絶好の機会であったと言われ、外観はインド風、内部は桃山風に纏められています。政教分離・信教の自由を時の政府に主張した大谷光瑞門主の先進性も伊東忠太博士の設計を大きく後押ししたと言われています。そして、東本願寺の再建を機に寺院の名称も「本願寺築地別院」から「築地本願寺」と変わりました。

 伊東忠太博士は、西洋建築の追従が主流であった当時の建築界では珍しく東洋の建築の形を追求した碩学(せんがく;大学者)で、西洋建築学を基礎にしながら日本建築を本格的に見直した第一人者であり、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、明治26年(1893年)に「法隆寺建築論」を発表し、日本建築史を創始しました。また、それまでの「造家」という言葉を今日の「建築」に改めたことでも有名な人です。

 明善寺といい東本願寺といい、昭和初期にこうしたモダンでかつ個性的な寺院建築を実現させるには、当時の京都市と同額の予算を持ったと言われる浄土真宗本願寺派(大谷光瑞門主)とその門徒というパトロネージ(PATRONAGE;芸術的な活動・事業などに経済的・精神的な援助をするもの)の存在があったためと言われています。工事完成から81年余を経た今日まで、それぞれその建物がその特異な威容を誇り続けているのは、その事実を如実に物語っているものと思うのです。

(参考文献など)
 『明善寺本堂、国の文化財に』(明善寺住職文書)、『東北のお西さん』(浄土真宗本願寺派山形組文書)、『米沢の歴史を見える化』より「伊東忠太」(インターネット)、『異能の建築家、伊東忠太の世界、中』(河北新報2004年(平成16年)6月9日記事)、『伊東忠太の世界O』(山形新聞、2004年(平成16年)9月30日記事)、『日本の近代建築』(藤森照信、岩波新書)、『シリーズ藩物語』(小野 栄、現代書館)、『山形県大百科事典』(山形新聞・山形放送)『伊東忠太』(Wikipedia)、『大谷光瑞』(Wikipedia)
2015年10月1