陸軍第八師団第五連隊の八甲田山雪中行軍遭難事件(2)
~山口 鋠少佐の最後と中原貞衛一等軍医~

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
陸軍第八師団第五連隊の八甲田山雪中行軍遭難事件(2)
~山口 鋠少佐の最後と中原貞衛一等軍医~

 平成27年9月4日付で投稿をした表記拙稿の、「4 山口 鋠少佐という人」の本文中上から4行目、「・・・知行(後の陸軍砲兵大佐)、・・・」としたところについては、「・・・知行(後の陸軍工兵中佐)、・・・」と訂正いたしますが、ここに至った事の次第は次の通りです。

 平成27年10月6日の夕刻、鶴翔同窓会本部の森 俊直事務局長から自宅に突然の電話がありました。森さんとは現役のころに仕事を通じて知り合う仲となったのですが、久しぶりの電話であり、何事かと思いながら用件を聴くと、それは次のようなことでした。
 「貴兄の投稿文を読まれた千葉県市川市八幡在住の成澤良一という方から次のようなメールが本部の方に届いたが、仔細を承知しないので、ファクシミリで転送するから対応方宜しく。」というものでした。
 そこで、私は、山形の同窓会ではホームページを立ち上げており、ここに成澤さんが眼にされた当該拙稿を去る9月4日付で投稿をしたものであること、ホームページには同窓諸氏も投稿をしているので是非このホームページを開いてみてくれるよう話しをして電話を切ったのです。
 で、成澤さんからの最初のメールを要約してみると次のようなことになります。

◆ 私は貴校とは無縁の江戸っ子であるが、偶然にも標記の投稿文を読む機会があった。
◆ 山口 鋠少佐の兄、成澤知行の曾孫に当たり、標記事件に関するいくつかの資料を所有している。
◆ 投稿文では成澤知行が「陸軍砲兵大佐」となっているが、実際は「工兵」であり、「大佐」には昇進していない。これらのことについて直接話をしてみたい。
◆ 自分は昭和23年生まれで、サラリーマン卒業後は、主に音楽(クラシック)関係の執筆や 講演をしており、2006年(平成18)に長井市で上演のオペラ「ゼッキンゲンのトランペット吹き」のプログラムにも執筆したことがある。
◆ 家内(私が幕臣に対して長州)の祖父が昭和初期に山形県知事であったことがあり、文翔館にその写真が掲出してある(筆者注記:第21代の山形県知事窪田治助(くぼたじすけ))。
◆ 八甲田関連としては、松木明知先生とも連絡があり、未市販の著作も贈呈を受けているので、何かの際には役立てるのではないかと思う。
◆ 直接話をする機会があればと考えている。
 以上ですが、私も拙稿を読んでいただき、その上で私のミスを指摘して頂いたことに対する謝辞と、ご当人の曽祖父が成澤知行陸軍工兵中佐に当たること、奥様の祖父に当たられる方が、本県第21代知事であったことに驚きを覚えたことを述べ、拙稿を纏めた経緯、成澤知行陸軍工兵中佐に関する経歴を参考にした文献などを説明し、改めて連絡したい旨を記して取り急ぎ7日付けで返事をファクシミリ送信しました。

 その後私のファクシミリ送信に対して成澤さんからは8日付けのメールが届きましたが、その概要は次の通りです(一部追加メールの情報を記入。)。

◆ 本人の履歴書から成澤知行は、陸軍の兵科としては「工兵」であり、最終階級は「中佐」であること。
◆ 当時の工兵は、建築・築城を主な分野としていたため、「砲台」の建設にも関係していたようで、ために成澤知行を「砲兵」とする記述もいくつか出回っているのも事実である。(加えて20日のメールにおいて)青森聯隊遭難雪中行軍』(百足 登著)では、「其令兄知行氏現に豫備砲兵中佐たり」という誤った個所があり、この部分が何重にも引用されて後世に伝わったのではないかと推測している(筆者注記:『八甲田山雪中行軍遭難事件の謎は解明されたか』(松木知明著)の著者は、「成沢退役砲兵中佐」と記述している。)。
◆ 幕臣(小十人格の工兵指図)の長男として生まれた成澤知行は、早くから建築や英語を学んでおり、明治維新直前には、柳河春三(やながわ しゅんさん)の「中外新聞」に、「パークス公使の船に大砲がいくつあるか」等のイギリス人居留区の新聞記事を翻訳して書いていた。
◆ 幕府陸軍では中尉相当の地位にあり、維新後は沼津兵学校で学び直すが、廃藩置県後は、「教導団」(筆者注記:陸軍の下士(官)に任ずべき者を養成した組織のこと。)に入れられ、「軍曹」から出発という寄り道もした。
◆ メールに添付の資料  2012年(平成24年)4月3日付け朝日新聞記事(「代戯館まつり」における成澤さん講演に関するもので、Youtubeの「成澤良一 記念講演」でも検索できる。)、「第9回代戯館まつりのチラシ」
 電話での連絡がつかなかったため、大学の教養課程の学寮が習志野であったことや市川周辺で お歳暮配達のアルバイトをしたことなど千葉での思い出、拙稿執筆の経緯、参考にした文献などについて9日付けでメール送信したところ、その返信メールで長井市におけるオペラ公演の際のプログラムのうち、成澤さん執筆部分『明治の空に響いた「別離の歌」 早すぎた喇叭手・渡部康三と青春』の送付を受け、その後にようやく電話での連絡も叶いました。

 長井市で上演されたオペラ「ゼッキンゲンのトランペット吹き」については、私にとっては初耳でしたので、長井市役所の広報のページを検索したところ、なんと長井市は、ドイツのシュヴァルツヴァルト(黒い森)地方の南端に位置する、ライン川を挟んでスイスに接するバーデン・ヴュルテンベルク州バート・ゼッキンゲン市と姉妹都市の盟約を結んでいる事実がありました。
 その経緯は、昭和52年(1977)に第4回日独スポーツ少年団交流事業の際に9人が長井市内にホームステイしたことに始まって、昭和58年(1983)に至って長井市側がバート・ゼッキンゲン市を訪問して姉妹都市盟約の締結を行っていたのです。
 以来今日まで相互に訪問し合うなどして交流を深めていることがわかり、そして、このオペラは、明治17年(1884)、森鴎外がドイツのライプチィヒに留学した際、同市立劇場で初演され大変人気を博した作品で、オペラの舞台となったバート・ゼッキンゲン市と姉妹都市となっている長井市での公演が日本では最初の公演だったこともわかったのです(筆者注記:2006年(平成18)10月8~9日上演、バート・ゼッキンゲン市副市長等来長井市。)。
 このオペラ「ゼッキンゲンのトランペット吹き」についてですが、「オペラ彩第27回定期公演」の案内などを見ると『トランペット吹きのヴェルナーが領主の男爵令嬢マリアと恋仲になるも、当時、平民と貴族の結婚は許されませんでした。しかし、出会いから紆余曲折を経て二人が結婚することになるのですが、それまでを「ヴェルナーの別離の歌」などの音楽と共に描く、いわゆる身分違いの恋の物語なのです。』と言うように紹介していました。

 山形県内で長井市と同様にドイツの都市と姉妹都市締結をしているのが上山市ですが、その経緯は次の通りです。
 上山市出身の斎藤茂吉は、1921年(大正10)から1924年(大正13)までヨーロッパ留学をしていますが、最初に留学したオーストリアのウイーンで見たドナウ川に、故郷の母なる川「最上川」に通じる強い深い印象を受けました。その後、ドイツのミュンヘン大学に移った茂吉は、1924年4月、休暇を利用してドナウ川源流部を旅してバーデン・ヴュルテンベルク州のドナウエッシンゲン市にたどり着いたとき、同地に滞在して"大き河 ドナウの遠きみなもとを 尋(と)めつつぞ来て 谷のゆうぐれ"との和歌を詠み、後日『ドナウ源流行』を著したのです。この茂吉の紀行を縁として、1995年(平成7)3月21日、上山市とドナウエッシンゲン市とは友好都市の盟約を締結し、以後1年ごとに交互に学生訪問団の派遣を行っています。また、2000年(平成12)10月6日には、ドナウエッシンゲン市内にある「ドナウの泉」(ドナウの源泉)と呼ばれる小さな泉に茂吉の歌碑が建立されました。

 当初のファクシミリや頂戴した資料によれば、成澤さんは、昭和46年(1971)に慶應義塾大学経済学部を卒業され、会社勤めの後現在はアマチュアのオーボエ奏者として活動され、日本オーボエ協会常任理事・アマチュア担当局長を務められ、また、国際ダブルリード協会(IDRS)会員でもあり、更に、講演や執筆も盛んになされています。電話でお話ししたところ、山形と長井を訪問したことがあるとのことですから本会員諸兄におかれても、音楽に造詣の深い方ならご存知の方が大勢おられることと思います。
 ところで、上記「代戯館まつ」と言うのは、インターネットで検索した「かみほんニュース」によると、2004年(平成16)から沼津市上本町通り商店街などの有志が、「沼津兵学校」とその付属小学校・「代戯館(だいぎかん)」の実績を市民に紹介するために始めたもので、西周や田邉朔朗ら近代日本に大きく足跡を残した両校関係者をテーマに取り上げ、写真展や講演会などを毎年実施しているものでした。
 それから、リードと言うのは『大辞泉』などを参考にすると、楽器の発音源となる葦・竹・金属などでできた薄片のことで、空気を吹き付けることで振動させ音を出す重要な部分で、このリードが2枚のものをダブルリードと言い、オーボエ、ファゴット、バグパイプなどではこれを用いるとありました。なお、20日の成澤さんからのメールによれば、ダブルリードは調整が難しく、奏者がリードを自作、あるいは少なくとも自ら仕上げをしないと音にならないそうで、奏者はいつも専用のナイフを持ち歩くのだそうです。故に空港でのチェックに引っかかることがままあると言うことでした。また、オーボエは特に主要メロディー担当が多いので奏者が神経質になり、ギネスブックで「最も難しい木管楽器」として認定されているそうです。
 国際ダブルリード協会(IDRS)」のホームページによると、当該協会では、世界中のダブルリード楽器関係者が一堂に集まる祭典を年に一度開催しており、44回目となるフェスティバルは、今年の8月15日から19日まで、アジア圏で初めて東京で開催されたことがわかりました。その理念は、プロの奏者や研究者だけのものではなく、全ての人々がダブルリード楽器の魅力を共有すると言うもので、共にアンサンブルを楽しみ、また、一流奏者の技術を間近で聴く機会などがある祭典だそうです。
 成澤知行は、江戸の「工兵指図役」を務めた幕臣、成澤良作の長男であり、その姉・貞は、同じく幕臣の出で沼津兵学校教授の英学者、渡部 温の妻でした。私も温がイソップ物語を翻訳した人であることは知っていましたが、成澤さんから頂いた資料によれば、温はイギリスの軍事理論の紹介でも知られ、後には実業界に転じて東京製綱の設立にも関係した人であることがわかりました。さらに、この夫妻の次男である康三(やすぞう・1880~1952)は、東京音楽学校に入学してトランペットやコルネットを演奏した人物であることを知ったのです。オペラ「ゼッキンゲンのトランペット吹き」第2幕の最後に歌われる「別離の歌」の旋律は、その題材故にトランペット(またはコルネット)で演奏されることも多いのだそうですが、日本でも実は早くも1903年(明治36)7月10日に、東京音楽学校の卒業演奏会に於いて演奏がなされており、その奏者が渡部康三だったのです。その後、同年7月23日に実施されたグルック作曲オペラ「オルフェウス」の上演などに尽力しましたが、当時の管楽器の活躍の場は、軍楽以外では活動写真の伴奏やいわゆる「ジンタ」の世界に限られており、現在のような交響楽団のトランペット奏者と言った道は皆無であったこと、山田耕筰らの交響楽運動の黎明まで時代が10年ほど早すぎたということもあって、東京音楽学校を卒業してからの彼はやがて音楽から離れて造船所の経営者としての道を選ぶことになります。しかし、その後、木造船から鉄鋼船への時代の流れに遭遇し、順調とはいえない人生を歩んだ後に、比較的若くして隠居の生活に入ったということです。

 成澤さんの奥さんの祖父に当たる窪田治輔と言う人は、文翔館の歴代知事のコーナーにおいて写真付きで次のように紹介しています。
 知事21代/昭和4年10月9日~昭和6年10月24日山口県出身。文部省普通学術局長から転入。昭和不況の深刻化・小作争議頻発、政党の県支部発足が相次ぎ、農民運動が激しさを増す。昭和6年、臨時県会で不況対策を検討。山形県産業調査書(初の県産業計画)を作成。鹿児島県知事へ転職。最終職は同県知事。
 また、『Wikipedia』には、官選知事として1929年(昭和4)年10月から1931年(昭和6)10月までの間第21代山形県知事を勤め、在職中の1931年3月に「小田島事件」が発生し、その対策に尽力したなどとあります。この「小田島事件」というのは、北村山郡小田島村(現在の東根市小田島)で起きた地主襲撃事件のことで、『山形県の百年』や『山形県大百科事典』を参照すると次のようなことです。
 「全国農民組合山形県連合会(全農県連)」小田島支部では、1930年(昭和5)から、田小作料5割減、畑全免の要求を地主に対して出していたのですが、地主の本間吉五郎は、1931年2月に当該小田島支部に属する奥山竹蔵・竹作の両名に貸し付けていた田畑の取り上げを通告し、3月6日、人夫を動員して奥山の小作地に消雪のための土撒き作業を行いました。これに対して翌朝当該連合会小田島支部は近隣各支部の支援を受けて150人ほどで、赤旗を先頭に、奥山の畑に土撒きの共同作業を行うと共に本間家に押しかけ乱闘事件を引き起こしました。これが事件の発端ですが、折から「全農県連」による借金棒引き闘争の手入れの機会を狙っていた県警察部は、「全農県連」の徹底的弾圧を企て大阪へ出張中の幹部をはじめ事件に直接手を下さなかった傘下組合員等を一網打尽にしたのです。これにより、「全農県連」は大打撃を受け、のちに中央での組織の分裂も加わって組織は壊滅的打撃を受けることになるのですが、一方、地主と小作人との関係悪化を危惧した県小作官(筆者注記:1924年(大正13)、政府は「小作調停法」を施行し、各府県に地主、小作関係に通じた「小作官」を置いて法外調停を行わせた。)は、地主たちと話し合い、「田小作料軽減なし、畑小作料3割軽減」の条件でこの問題を調停しました。

 以上ですが、成澤さんには拙稿の記述の一部誤りを指摘していただくと共に当事者しか知りえぬ新たな情報を数多く提供していただきました。ここに衷心から御礼申し上げる次第です。
2015年10月25