明治維新政府の「諜者(ちょうしゃ)」・大伴千秋の『酒田県事情探偵記』について |
64回(昭和32年卒) 渡部 功 | ||||
明治維新政府の「諜者(ちょうしゃ)」・大伴千秋の『酒田県事情探偵記』について ≪はじめに≫ 2015(平成27)年9月25日、鶴岡市水沢の「大松庵」において「ワッパ騒動義民顕彰会」(本間勝喜代表(第69回(昭和37年卒業))による「ワッパ騒動義民之碑建立6周年記念講演会」が開催されました。講師は河北新報記者で、『庄内ワッパ事件』(歴史春秋社)の著者である佐藤昌明さん、演題は「庄内ワッパ事件を語る」でした。佐藤さんは東北大学の卒業論文に当該事件を取り上げ、幾度となく庄内を訪れて論文をまとめたそうですが、論文の口頭試問の最後に指導教授であった源 了圓(みなもと りょうえん)教授から、『この問題については、これからもライフワークとして継続調査を行い、最後に一冊の本に著してみたらどうか」とのアドバイスを受け、以来30数年後にやっとそれが実現できたと言うことでした。庄内については、調査で何回も訪れた思い出深いところであり、一度は住んでみたい場所の一つであるとも述べておられました。 ご承知の通り、「ワッパ騒動」は、明治の初期、酒田県が旧藩時代と同様に米による税制を維持し、米価の上昇に際して多額の利益を得たことに対して、農民たちが、政府が既に許可していた石代納(貨幣による納税)の実施を求めるとともにそれまでに納めすぎた税の返還を県に対して求めた事件です。そして、この事件のことを庄内地域では「ワッパ騒動」と称していますが、佐藤さんは、「騒動」では、支配者側の見方の感があり、「一揆」の場合は、農民の「蜂起」の意味が強いと言い、「秩父騒動」が『岩波日本歴史辞典』で見るように、今日では「秩父事件」として確立されているので、当該案件も「ワッパ事件」とし、更に地域を明確にするため「庄内」を冠すべきとの考えを示されました。 当該事件は、一般的に以上のような酒田県の対応が事の発端とされているのですが、佐藤さんは、これに対しても"ワッパ事件の大前提は戊辰戦争であり、@庄内藩は他藩のように政府軍には負けてはいなかったこと、A敗者の身とはなったものの移封という政府命令を聞き入れなかったこと、B廃藩置県の際、薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩以外には見られない自藩の者だけで県の要職を固めたこと、C兵を解いても旧藩の如き旧隊と同様の組織で旧藩士を開墾に従事させたこと、D維新政府が定めた石代納を遵守しなかったこと(政府の命令を無視したこと)等の事例を挙げて、庄内藩は戊辰戦争に勝利した。"というのです。そしてこのような事態を生じさせたのは"もとより庄内という土地の豊かさがその背景にあったのではなか"との見解を示されたのです ≪酒田県に関する監部職の報告と政府の対応≫ ところで、この講演の際に配布された資料の中に、大伴千秋という人物が、ワッパ事件勃発当時の酒田県の事情を調査して、松平・菅等の免官と県政の改革を太政官参議の大隈重信宛に上申したものがありました。そこで本稿では、明治初期の政府の「蝶者(ちょうしゃ)」(スパイ)について述べてみたいと思います。その資料の一つは以下に示すようなものですが、ただし、人名の読み方や語句の説明等は筆者が加筆しています。
この上申がなされた結果、政府は三島通庸を酒田県の県令として派遣することになるのですが、三島が酒田県令として赴任した目的は『庄内ワッパ事件』(佐藤昌明著、歴史春秋社)にもある通り三つありました。 一つは、ワッパ事件の最終的鎮圧であり、赴任に際して太政大臣三条実美は、ワッパ事件を取り調べて報告し、処分の伺いを立てるよう指示しているのですが、これについては下に示すような文書が文翔館の「回廊の間」に展示されています。二つ目は、鹿児島の私立学校の士族たちが蜂起した場合、酒田県の旧藩勢力が呼応するのを未然に防ぐことであり、三つめは、酒田県の士族の封建的特権の解体でした。 「1873年(明治6)の政変」により西郷隆盛が下野した今、政府内部の抗争を制して実権を握った大久保利通は、郷里鹿児島に対するのと同様に、庄内に対しても一切の特権温存を許さない方針で臨み、その忠実な執行者として配下の三島を酒田県に送り込んだのでした。
1877(明治10)年2月、鹿児島の私学校の生徒ら約1万3千人が西郷隆盛を担いで決起します。熊本城での政府軍との激しい攻防、乃木希典(のぎ まれすけ)が軍旗を奪われたという田原坂での激戦などがありましたが、結局、9月24日の鹿児島城山での西郷の自決によって「西南の役」は終了します。 このことについて、『庄内ワッパ事件』では、1877(明治10)年4月、既に山形県令となっていた三島通庸が「仙台鎮台2個中隊を鶴岡に招き、要所を固めた。」と述べていますが、三島が庄内士族の蜂起に備え万全の態勢を取っていたことが分かります。更に、全国の耳目を集めた、旧庄内藩士族の決起についても、「「力を量らず犬死するは南洲翁(西郷隆盛)の意に非ざるべしとの実秀の一言に服従したる」こととなった。」とし、すでに引退していた菅の一喝で、庄内士族の西郷の決起に呼応した蜂起はなかったのです。この「西南の役」により「ワッパ事件」の児島惟謙(こじま いけん)判決も先延ばしとなり、翌1878(明治11)年6月3日に至ってなされる次第でした。 参考までにですが、Sites-Googleの『山形年表』(小山松勝一郎、新徴組の年表を改変)の1877(明治10)年と1878(明治10)年の項には、
≪大伴千秋という人物≫ 先に掲げた酒田県の実情を大隈重信宛に上申した大伴千秋と言う人物はいかなる人物だったのでしょうか。『維新政府の密偵たち』(大日方純夫(おひなた すみお)著、吉川廣文館)によると、密偵として太政官正院の職員録にその活動が確認されている人物として大伴千秋の名が記述されており、凡そ次のような経歴を持つ人物であることがわかりました。
≪維新政府の密偵たち≫ さて、江戸幕府が倒れ、新政府が成立したての頃は、新政府の体制も未確立であると同時に国内情勢も極めて不安定でした。つまり、明治初期の社会の中には旧幕府派の残党や政治的な陰謀を企てる者が多数おり、維新政府としては各地において反乱が起きるような事態が一番怖かったのです。一方、政府が各地方に配置した官吏についても、中央政府の意向をしっかり体得して地方の統治を完璧に実施するのか、このことを統制し監理することも必要でした。したがって、政府の方針をしっかり示達し実行するとともに政権の安定を図るためには、謀反を起こしそうな輩の動向を探り、時には摘発して事前にその芽を摘むと同時に地方に派遣した官吏の行状、成果などを監視することも必要でした。まして、酒田県のような状態は、成立間もない維新政府としては放置しておけない問題であり、十分な監視が必要で、先に示した大伴千秋のような政府のスパイたちが全国各地に派遣されるようになったのですが、これについて当時の事情を前述の『維新政府の密偵たち』を参考にして纏めてみると次のようになります。 ◆明治政府の密偵機関 1869(明治2)年5月、旧幕府側の残党や政治的な陰謀を摘発することを目的とする「弾正台」という監察機関が政府内に設置され、ここでは、「巡察属」と「諜者(ちょうしゃ)」と呼ばれるものが探偵活動を行っていました。1870(明治3)年には、「巡察規則」、「諜者規則」が定められ、「巡察規則」では、順番を決めて毎日巡察すること、事の重大性や距離によっては巡察人員を増減すことなどが決められており、実際の業務に当たっては、その都度容貌を変え,つとめて弾正台に属する職員であることを覚られないようにしなければならないとされていました。「諜者規則」では、諜者を四方に派遣して、表に現れない善行や陰謀を探索し、確証を得させるため、費用を定め、後日の身分証明のため「台符」という四角の札を半分にして、一方を諜者に渡し、他方を弾正台に保管すること、他の府藩県に出向いた際は、自分が諜者であることを絶対に覚られないようにすること、もし察知されたら罰を加えることなどが定められていました。そして、太政官参議の大隈重信が後に「我輩が其の長官ということになった。」と述懐しているようにその元締めに当たりました。 その後、「弾正台」の越権行為や「刑部省」の権限と抵触することから批判が出て、1871(明治4)年7月9日になると「弾正台」は「刑部省」と共に廃止となり「司法省」に吸収されましたが、このような密偵機能は司法省には引き継がれませんでした。 一方、岩倉具視、江藤新平、伊藤博文、木戸孝充などは、早くから官吏の監察機関の必要性を説いており、これを受けて官吏に対する監視・監察を目的とする「監部」という職種が創設され、1871年(明治4)7月、太政官正院の中に「監部課」が設置され、「弾正台」の業務はここに引き継がれました。実際に探索活動に従事したのは「諜者」と呼ばれる密偵で、1871(明治4)年10月29日の「諜者規則」では、@親戚・知人たりとも内命は漏らしてはいけないこと、他人に諜者であることを覚られないこと、もしばれた場合には罰せられること、A毎月2回探索状況を書面にして提出すること、B探索書は偽りがないことを証明するため、探索者が署名・押印しなければならないこと、C地方へ出張探索する際は1日につき旅費750文を支給することが定められていました。そして、彼らは1等から3等に区分され、月給はそれぞれ50円、30円、20円と決められ、密偵たちは政府要人の目、耳として世間の噂に耳をすまし、それに基づく通報活動を自らの生活の糧としていました。そして「監部課」というのは太政官正院の参議に次ぐ位置にある「大内史(だいないし)」という部門の課長が当たることになり、土方久元(ひじかた ひさもと)がその任に当たっていました。 1874(明治7)年11月に定められた「監部課員派出心得」によると、これまで重点が置かれていた官吏に対する監視・監察から社会情勢や国内状況の偵察へと、監部が果たす役割が変化していきましたが、先に述べた大伴千秋の報告もこのような情勢のもとになされたものです。 ところが、1875(明治8)年4月、「監部課」が廃止となり、翌1876(明治9)年4月、監部の事務を吸収していた「内史分局」も廃止されたので、政府直属密偵機関として果たしてきた「監部」は公式に消滅してしまい、次に述べる警察機構へとその業務は移っていくことになります。 ◆警視庁の設置と密偵機能 1873年(明治6)9月、西欧の警察制度を視察して帰国した警保助(けいほすけ:現在の警察庁の頭(かみ)、権頭(ごんのかみ)に次ぐ三番目の階級)川路利良(かわじ としよし)は、警察制度の改革に関する建議書を提出し、「正院監部の職掌を警察のもとに移行させ、"隠密警察"を政府直轄にしていくこと」を構想していました。翌1874年(明治7)1月には、「警保寮」が「司法省」から「内務省」に移管されると同時に、東京警視庁が設置されました。そして1875年(明治8)3月の行政警察規則の制定によって、その概念が明確にされました。この時、警察の領域として「権利」、「健康」、「風俗」に加えて「国事」が提示され、そこでは、犯罪の予防・安全の確保という観点から、"経済的・社会的諸関係に介入し、様々な規制を加えていくこと、身体・生命の維持・再生産に関与し、労働力の安定的な再生産を保証していくこと、国家に対する反逆、反体制的動向を事前に察知し、その排除を図っていくこと"などが目的とされました。特に、国事犯を隠密中に探索警防する業務には力点が置かれることになります。このようなことで、川路の構想が実現したことになり、従前の「監部」が担っていた密偵機能を警察が担うことになりました。 ◆監部に所属した人物のその後 探索に当たった人々は、自分が諜者であることを絶対に覚られないようにしていましたので全員を官員録の類からつかむことは困難とされています。従って、「監部」が公式に消滅してしまった以降についてもその消息を把握するのは難しいものとされていますが、『維新政府の密偵たち』の2,3の例からみると、役職上元締めの地位にあった林直庸(はやしなおつね)は、宮内省に入っており、最終的には勲章局二等秘書官、主猟官(狩猟の事務に携わる職)、皇太后宮亮(皇太后の家政職)などを勤めています。また、木下真弘(きのした まさひろ)と言う人物は同じ太政官の修史館(国司編纂機関)の四等書記に任命されていますので、大部分の人々も上司の計らいで他省庁や同じ省庁でも他の部局へ配置転換されたものと考えられます。 本稿で取り上げた大伴千秋は、太政官正院に勤務したのはわずか1年であり、その後は式部寮10等出仕、次いで大蔵省判任心得御用掛に努めました。ところが、大隈重信が、「開拓使官有物払い下げ」をめぐりかつての盟友伊藤博文ら薩長勢と対立し、また、1873(明治6)年から1880(明治13)年まで参議兼大蔵卿を勤めた際、明治政府の財政安定のために近代的な商工業育成を目指し、国債や外債や不換紙幣の大量発行に踏み切った矢先、運悪く佐賀の乱や西南戦争のために想定外の支出が生じ、結果インフレーションを起こしてしまった財政上の失政をしでかし、更に、自由民権運動の流れの中にあって憲法制定論議が高まり、君主大権を残すビスマルク憲法か、イギリス型議院内閣制の憲法とするかで政府内部で争った際、後者を支持した大隈は政争に敗れ、1881(明治14)年10月に政府から追放されてしまったため、その後の大伴は、その後ろ盾を失い、官吏を辞して愛知県一宮市にある「真清田(ますみだ)神社」が国幣小社に昇格後最初の宮司にその後の人生を託したようです。 | ||||
2015年12月23日 |