山形県民の歌「最上川」制定までの流れ 〜県民歌「最上川」から新県民の歌「朝ぐもの」へ、そして再度県民の歌「最上川」へ〜 |
64回(昭和32年卒) 渡部 功 | |||||||
山形県民の歌「最上川」制定までの流れ
〜県民歌「最上川」から新県民の歌「朝ぐもの」へ、そして再度県民の歌「最上川」へ〜 ≪はじめに≫ 昨年12月12日に山形市にある「山形謄写印刷資料館」の後藤卓也館長から「謄写印刷」についての講演を聞く機会がありました。現在では完全に姿を消してしまった「ガリ版印刷」ですが、これがガリ版印刷によって作られたものかと疑うような美しい書籍やポスター、あるいは油絵と見紛うばかりの風景画や多色刷りの浮世絵など数多くの資料を見ることができて本当に驚いた次第ですが、後藤さんは古いSPレコード盤(1分間78回転)の蒐集もされており、休憩時に3曲ほど披露してくださいました。最初のものは県民歌「最上川」でしたが、このジャケットには次のような記述がありました(カッコ内は筆者が記入し、また、旧字体は現字体で表記しました。)。
まずは県立図書館に調査相談をして紹介を頂いた資料のうち、@『山形県史 資料編21』(2000年3月、山形県)、A『続山形県地域開発史 上巻』(山形県地域開発史作成事務局、1998年3月)、?『山形新聞ネガフイルム』(昭和22年5月3日付け2面)に加えC山形新聞社編纂の『鶴駕帖』(かくがちょう:大正14年11月)(注3)、更には「山形県ホームページ」や『Wikipedia』等を参照して、「昭和57年制定の県民の歌」に至るまでの経緯を整理してみることにしました。 ≪摂政殿下(後の昭和天皇)行啓、御製と御製の県民歌として制定≫ 大正14年10月2日に宮内省から次のような告示がなされました
なお、現在の「歌会始」は、従来「歌御会始(うたごかいはじめ)」と呼ばれていましたが、大正15年に「皇室儀制令」が定められ、「歌会始」となります。しかし、大正15年12月大正天皇崩御のため、昭和2年の「歌会始」は実施されず、実質昭和3年から「歌会始」と呼ばれました。 また、「行啓」は、太皇太后・皇太后・皇后・皇太子・皇太子妃などが外出すること、「行幸」は、天皇が外出すること、「巡幸」は、天皇が各地を見回って歩かれることを意味します。 さて、昭和4年10月、(財)山形県教育会(注5)総集会において、御製「もがみ川」に曲譜を付して山形県民歌とすることを満場一致で議決し、これを受けて窪田治輔第21代県知事は、宮内省今村侍従武官を通じ、その了解を得ました。そして、昭和5年御製の曲譜を島崎赤太郎東京音楽学校教授に依頼し、その完成を待って、10月には県学務部長が県内各市町村長宛に、各種行事などにおいて県民歌「最上川」を歌うよう通達し、(財)山形県教育会でも各郡市教育会の奉唱指導者講習を開催すると共に歌詞を県内各学校や青年団等に配布し、また、教育会主催の奉唱音楽会を継続的に実施しました。 このような当時の様子を『山形百年』(毎日新聞社)では、次のように述べています。
≪太平洋戦争終戦後の県民歌≫ 占領下の日本では、昭和20年10月のGHQ(連合軍総司令部)の指令により、「日の丸掲揚が全面禁止」となります。しかし、翌年4月には、宮中行事に基づく祝祭日(4月3日の神武天皇祭、9月23日頃の秋季皇霊祭、11月3日の明治節)の日の丸掲揚を例外として認めるとともに、国民祝祭日(年間12日(注7))には日の丸掲揚を認め、昭和23年の第3回国民体育大会(福岡市)開催の朝には、戦後の公式行事としては初めて「君が代演奏裡に日の丸を掲揚すること」の許可がなされ、昭和24年1月に至っては、日の丸掲揚が全面解禁となりました。 一方、「君が代」の斉唱、演奏については、GHQは全く関与しなかったのですが、日本政府は音楽教科書から「君が代」を自主的に削除しています。これは、「君が代」が明治13年に「天皇礼式典」用に作曲されたものであるからであろうと考えられます。本県の県民歌「最上川」も御製という歴史的背景があるため、同様にその斉唱や演奏が不当に憚れてきました。 なお、「君が代」斉唱・演奏に関する上記の記述は、『続山形県地域開発史 上巻』に依りましたが、『wikipedia』では、「GHQ が君が代演奏を全面的に禁止した」と記述しています。そこで、戦後、公式行事で初めて「日の丸」掲揚と「君と代」の演奏が行われた「第3回国民体育大会」のときの事情をインターネット検索により「福岡市スポーツ協会」の『加盟団体史〜福岡陸上競技協会〜』で見てみると、
≪「君が代」の代用としての「われらの日本」制定、県民歌「最上川」に代わる新県民の歌「朝ぐもの」の制定≫ 日本政府は昭和21年11月3日の憲法公布記念式典」では、「君が代」を斉唱しましたが、翌22年の5月3日の「憲法施行記念式典」では憲法普及会が選定した、土岐善麿作詞、信時 潔作曲の『われらの日本』が「君が代」の代用として演奏されました。本県でも昭和23年5月3日に「日本国憲法」施行の日の記念式典が県庁前広場に於いて開催され、式典終了後、憲法普及会県支部(注8)がこの日のために公募して作った県民の歌「朝ぐもの」の発表会が行われました。その時の様子を昭和22年5月3日の山形新聞は2面トップで次のように伝えています。
作曲の「橋本国彦」は、昭和8年に母校(東京音楽学校)の教授に就任し、戦前は軍国歌謡などや皇紀2600年奉祝歌の『交響曲第1番ニ調』を作曲した人ですが、戦後は戦時下の行動の責任を取って母校を辞し、「朝はどこから」などの歌謡曲や戦禍に倒れた人々を追悼するために独唱と管弦楽のための「三つの和讃」や日本国憲法の公布を祝う「交響曲第2番」などを発表しましたが、胃癌のために昭和24年に44歳で亡くなりました。 なお、歌詞と楽譜は、『山形県史 資料編21』に掲載されているのですが、印刷物から楽譜をコピーすることは著作権の関係で許されず、楽譜の全部コピーはかないませんでしたが、『山形新聞ネガフイルム』(昭和22年5月3日付け2面)に掲載のものから楽譜を複写することは可能でした。 。 ≪新県民の歌制定後の情勢≫ しかし、この新県民の歌「朝ぐもの」は、憲法普及会県支部が譜面を各学校に配布したものの、結果は一過性のものとなってしまいました。 その理由として考えられるのは次のようなことです。 「朝ぐもの」制定披露が行われた3か月後、昭和天皇は、前年の神奈川県下行幸に続き東北地方を行幸されたのですが、山形県は、8月15日から17日にかけて置賜、村山、最上、飽海、東西田川の各郡下を巡幸されました。この際、飽海郡上田村(現酒田市)では、女子青年団員350名が「最上川」を斉唱して天皇を熱烈に歓迎したことが記録されており、このことから、戦前から存在した県民歌「最上川」の人気を「朝ぐもの」が覆すことが出来ず、「朝ぐもの」を一過性のものにしてしまったのではないかとの見解があるようです。結局、新県民歌「朝ぐもの」は、昭和23年刊行の「県勢要覧」にその歌詞と楽譜が掲載されたものの、以降の「県勢要覧」からは姿を消してしまいます。二つ目の理由は、同年8月の「第32回全日本陸上選手権大会」の山形開催が決定された際、県の依頼により、西條八十作詞、古関裕而作曲による「県スポーツ県民歌」が日本コロンビアからSP盤レコードとしてリリースされ、これが絶大なる人気を得たことです。以上のようなことで新県民歌「朝ぐもの」は、以後、県の諸行事でも一切演奏されなくなってしまったのです。一方、「県スポーツ県民歌」の方は、昭和27年の福島・宮城・山形三県合同での「第7回国民体育大会」においても本県の会場で使用されましたので、一部の人々の間では『県民の歌は「スポーツ県民歌」である』と理解している人が少なからず存在したようです。 なお、この「県スポーツ県民歌」は、昭和53年になって同じく日本コロンビアからEP 盤(1分間に45回転)として復刻され、B面には芳野靖男(注9)が歌う「最上川』が収録されました。 「サンフランシスコ講話条約」発効後は、本県でもあくまで「慣例上」との断りを入れながら再度「最上川」を以前と同様「県民の歌」として認識するようになったのですが、依然として演奏や歌うことを憚る雰囲気があって、公式行事での「最上川」の使用は、昭和47年8月、「全国高等学校総合体育大会」(インターハイ)の夏季大会が山形県を中心にして開催された際の開会式で、小学生がパレードで「最上川」を演奏するまで待つことになります(サンフランシスコ講和条約は、全権委員による署名が昭和26年9月8日、翌昭和27年4月8日からが発効となります)。 ≪再び「最上川」を県民の歌にとの動き≫ 以上述べてきたような経緯がありましたが、公的施設や民間において「最上川」復活の動きがあり、次のような事例を挙げることができます。 (その1) 県立博物館民俗部門専門嘱託をされている野口一雄先生から頂戴した資料によりますと、昭和31年2月15日、「天童緑鳳会」の前身である「俊謡会」(岩渕栄治会長)が、宮内庁長官に御製「最上川」を謡曲に作曲する旨の誓願を行い、許可を受けたうえで宗家・梅若六郎先生に作曲を依頼し、昭和31年3月21日に発表会が実施されました。爾来、「最上川」は素謡(すうたい:囃子や舞を伴わない謡のことです。)会の時などに当日の演目の最期を締めくくる祝言として謡われているとのことです。 (その2) 昭和34年、「山形県総合職業訓練校」が開校します。校長代行として初代訓練課長(校長代行)となった野々村政利さんは、朝礼における日の丸掲揚、君が代斉唱が人間形成の場としては必要と考え、更に、節目節目の特別行事の際には、「最上川」の斉唱をこれに加えました。 (その3) 昭和45年4月12日の「大阪万国博覧会"山形県の日"」の開幕式の際、県旗掲揚と県歌「最上川」の演奏を行なったところ、「県民歌」のテープ音が出ず、藤陰竹枝師匠のとっさの掛け声で役員や花笠舞踊団一行が斉唱し、事なきを得たことがありました。 (その4) 舞踊家藤陰竹枝さんは、日舞会への寄与と自らの還暦の節目を見据え、創作舞踊として「最上川」の日舞化を念願し、3年の歳月を費やし、昭和45年の「県芸術文化祭」において創作舞踊「最上川」を発表しました。 (その5) 昭和52年、第7回県青少年海外派遣事業は、県愛の青年20名で16日間のアメリカ、カナダ研修を実施しました。この時団長を務めた佐藤精一県企画調整部長は、アメリカ大リーグの開会式の際の国歌斉唱に感銘を覚え、「最上川」を県歌として正式に制定したいとの思いに駆られることになります。一方、県では、昭和52年4月、「第6次県総合開発計画」の「活力ある地域づくり」を進めるにあたり、市町村への情報提供と相談窓口として「地域振興課」を新設しました。そして、その一環として市町村職員を対象とする「地域振興研究集会」開設し、10月に開催された「地域振興研究集会」では、国旗と県旗を掲げ、開会行事として「最上川」を研修参加者全員で斉唱したのです。これを契機に「最上川」議論が起こることになります。 昭和52年11月、山形新聞は「えっ県民歌でなかったの!陛下のお歌「最上川」高まる認知議論」と解説を入れた報道記事を掲載しました。また、同新聞のコラム「気炎」に「・・・国土庁がこの度打ち出した「三全総」(「第3次全国総合開発計画」のことです。)は、このような「地域主義」の成長を明らかに計算に入れている。本県でも「定住構想」を「地方振興重視」の施策と積極的に受け止めようとしている。重要なのは、そのような施策が誰のためにどのように行われるかということであろう。それは、今後十分に検討されるべきである。しかし、それとの関連で、「最上川」の歌を、県民意識高揚のために県民歌に正式に制定したいという動きが出ているのは、どうも本末転倒の気がしてならない。・・・・・県企画調整部長が最初に思いつくのがこの程度というのは正直言って侘びしい。三十一文字など、だれの作であれ、しょせん言語遊戯、作者を巡っての不生産的な賛否の議論をやるよりも、もっと緊急の課題があるはずである。・・・・・県民歌など制定しても結局は民謡を抜くことはできまい。」との指摘投稿がありました(宇佐晴志)。 これに対し県の企画調整部長(佐藤精一さん)は、山形新聞夕刊の「私の主張」へ異例の反論を行なっています。「・・・・・ご指摘の「最上川」は県では当面、この歌を正式な「県民歌」とすることは特に考えておりません。ただ、現実には多くの県民がこれを県民歌に準じるものと感じ、会合や集会等でも頻繁に歌われ、県民の間で親しまれているという事実は当然尊重すべきことであると考えているところであります。歌に限らず大切にし、親しんできたものを大事にすることが地域の連帯感や自治意識に通じるものであろうと思いますので、この点につきましてはご理解を頂きたいと思います。」 (その6) 昭和54年度新設の「地域づくり人材養成講座」では、開校式や閉校式では、「日の丸」、「県旗」の掲示と共に、「最上川」斉唱を行ない、毎日の朝礼行事として「君が代」演奏裡に「日の丸」を掲揚し、「最上川」斉唱、ラジオ体操を実施しています。県庁の講堂正面に日章旗と県旗が常時掲示となったのはこれ以降ということです。 (その7) すでに鬼籍の人となった同窓の佐藤正光さん(64回(昭和32年卒))は、県議会議員として機会があるごとに「青少年の心に日の丸を」と提唱するとともに「県民歌」の必要性を述べるなど、県民歌「最上川」の制定へ情熱を注いだ人でした。 ≪県が県民の歌として「最上川」を制定≫ 県は、県議会で「県民歌」に関する質問がなされたことを契機に、昭和56年12月、県民の和と協調による県政発展に寄与するため、県を象徴する「花、木、鳥獣及び県民が広く愛唱出来る県民の歌」の制定を目的に「山形県シンボル等選定委員会」を設置します。委員は木田 清(委員長)、岡崎恭一、須藤克三、佐藤三郎、千歳 栄、井上昌平、児玉秀雄、金沢忠雄、荘司 醇、田中ひろの、石川清秀、五十嵐恒夫、黒沢 洋、高山 孝、庄子NHK 山形放送局長の総員15名の構成でした。 明けて昭和57年1月、審議結果が判明します。@県の花「ベニバナ」(昭和29年にNHK が全国的に郷土の花として選定されました。)、A県の木「さくらんぼ」(昭和45年、大阪での「万国博覧会」開催を記念して県の木を定めることとなり、昭和41年に3種類の中から県民の応募により県が選定しました。)、B県の鳥「オシドリ」(昭和41年に、県民の鳥及び獣の制定運動がおこり、翌42年以県民投票により6種類の中から県が選定しました。)、C県の獣「カモシカ」(同上と同じ時期に3種類の中から県が選定しました。)については委員全員が賛成でしたが、「県民の歌」については県原案の「最上川」に対して、賛成9、反対1、意思表示保留3ということになり、結局、「県民の歌」については、県知事に一任ということになったのです。 昭和57年2月、県議会2月定例会において、「県民歌最上川の制定について」の誓願が採択され、先の「山形県シンボル等選定委員会」の採択の結果で「県民の歌」だけは、県案に対して満場一致の賛意を得られなかったのですが、最終的には時の板垣清一郎知事の判断により、県の花として@「ベニバナ」、?県の木として「サクランボ」、B県の鳥として「オシドリ」、C県の獣として「カモシカ」、D県民の歌として「最上川」をそれぞれ制定することにし、昭和57年3月31日付け山形県告示第518号をもって広く県民に対して告知が行われたのです。 なお、平成4年3月9日には県民投票により「サクラマス」を県の魚として定めています。 以上のような次第で、県告示という正式な行政手続きにより、「最上川」は晴れて県民の歌として復活し、以降、県民手帳に最上川の流れる風景をバックに譜面と共に歌詞が掲載されるようになり、山形放送でも毎朝のテレビ放送開始時に県民の歌「最上川」を放映しています。 ちなみに、県内の17市町村では市町村民歌を制定していますが、そのほとんどが最上川を象徴として謡いこんでおり、小中高校のうち、校歌に最上川を歌いこんでいる学校は、小学校72校、中学校37校、高等学校46校、合計155校に及んでいます(平成10年3月現在)。 (告示内容)
昭和時代前期の富山県で愛唱されていた歌に「立山の歌」があります。この歌は、摂政殿下が大正13年11月13日、富山県を行啓された折、西礪波郡石動町(にしとなみぐんいするぎちょう:現在の小矢部市)にあった御野立所から立山を眺めた際の印象を詠まれた「立山の空にそびゆる雄々しさにならえぞと思う御代の姿も」の和歌が、翌大正14年の歌御会始の勅題「山色連天(さんしょくてんにつらなる)」に基づいて披露されたものです。 富山県民は皇太子がこの歌を詠まれたことにいたく感激し、天皇として即位した翌昭和2年、東京音楽学校教授の岡野貞一に依頼して曲を付けるとともに、立山の頂上直下の三の越の巨岩にこの和歌を刻んで歌碑とする計画を立てました。歌碑の工事は、難工事の末に完成し、除幕式は5月12日に挙行され、富山県内務部長が白上佑吉知事の祝辞を代読した後、参会者全員で「御歌」を斉唱しました。その後富山市役所では、「御歌」を印刷して市内の学校に配布し、式典に際しては「御歌」が歌われるのが慣例となるなど、事実上「県民歌」に等しい扱いを受けていましたが、山形県の例のように富山県が「御歌」を正式な県民歌とした記録は無いようです。富山県では、この歌を「立山の歌」あるいは「立山の御歌」もしくは略して「御歌」と呼んでいます。 なお、現在の富山県民の歌は昭和33年の第13回富山国体に合わせて歌詞の公募が行われ、歌詞の入選作決定後に作曲も公募となり、同年4月1日に県章と共に制定されています(作詞:辻本俊夫、作曲:牧野良二)。 (注1)戦前から戦中に活躍した東京音楽学校卒業の声楽家(バリトン)で、武蔵野音楽学校の教師になりましたが、流行歌手として日本で初めて大スターとなった天童出身の佐藤千夜子のピアノ伴奏をした縁で、昭和5年、ビクターから『叩け太鼓』で流行歌手としてデビューしました。俳優としても活躍しましたが、昭和17年、敗血症のため38歳の若さで亡くなりました。 (注2) 島崎赤太郎は、東京音楽学校を卒業後、明治34年にドイツへ留学、6年間オルガンと作曲を研修して39年帰国しました。そして東京音楽学校教授となり、音楽理論を教授すると共にオルガンの普及に努めました。昭和5年教授を退官し、文部省視学委員、同唱歌編纂委員を務め「尋常小学唱歌」、「中学唱歌」などの選曲編集に尽力しました。著書に『オルガン教則本』(全2巻)、『詳解楽語辞典』などがあります(『20世紀日本人名事典)。 (注3) 「鶴駕」とは、周の霊王の太子晋が仙人となり、白い鶴に乗って去ったという「列仙伝」の古事から「皇太子の乗る車」を意味します。「鶴駕帖」は摂政殿下の山形県下行啓の記録を山形新聞社が纏めて発行したものです。 (注4) 御製の表記は、山形県のホームページ『未来に伝える山形の宝 ポータルサイト』(山形県教育庁文化財・生涯学習課文化財担当)の「わたしたちの最上川を未来へ」より引用しました。なお、昭和3年10月、侍従長入江為守の書になる御製歌碑が最上川河口右岸の日和山公園に建立されました。 (注5) 戦前の「地方教育会」は、行政担当者、師範学校スタッフ、教員、地方名望家が一体となった組織で、実に多様な事業を繰り広げ、恒常的運動体として、教育情報を収集し、配給し、戦前の教員、教育関係者の価値観と行動様式を強力に水路づけたものです。更には、地域住民の教育意識形成に大きな作用を及ぼしました(『都道府県・旧植民地教育会雑誌 所蔵一覧』(梶山雅史・須田将司))。なお、「水路付けた」とは、心理学用語で、ある種の行動パターンが狭い範囲に限定されていく過程のことを言います。 (注6) 「信濃の国」は、そもそもは「信濃教育会」の依頼により長野県師範学校教諭であった浅井 冽が明治32年に作詞し、翌年に同僚の北村季晴が作曲したもので、県内の地理教材として使用しようとしたのですが、あまり普及せず、明治33年10月に行われた師範学校の女子部運動会で披露されて以降、師範学校の行事などで使用されていました。その後、師範学校を巣立った教員たちが長野県下の学校でこの歌を教え伝えたことから県内に定着し、実質的な県民歌として歌われてきました。昭和22年には、日本国憲法公布を記念して新しい「長野県民歌」が公募により決定したのですが、「信濃の国」があまりにも浸透していたため、これは受容されず、昭和41年に県章やシンボルを決定した際、「信濃の国」を県民歌にとの機運が盛り上がり、県は昭和43年5月20日に「信濃の国」を県歌として制定したのです。この辺の事情は本件と同様です。秋田県の場合は、教育勅語渙発(かんぱつ:詔勅を広く天下に発布することです。)40周年を記念して県が歌詞を公募した結果、倉田正嗣のものが「秋田県民歌」として採用され(補作詞;高野辰之)、同県出身の成田為三が作曲しました(昭和5年)。作詞の倉田と成田は秋田師範学校の同級生であったそうです。更に、昭和34年には、「秋田県民の歌」を県旗・県章と共に歌詞と曲を公募した結果、作詞・大久保笑子、作曲・菅原良昭のものが採用されました(補作・県民の歌選定委員会)。従って、秋田県には、昭和5年制定の「県民歌」と昭和34年制定の「秋田県民の歌」の2曲があります。 (注7) 年間12日の祝祭日とは、@1月1日の四方拝、A1月3日の元始祭、B1月5日の新年宴会、C2月11日の紀元節、D3月21日頃の春季皇霊祭、E4月3日の神武天皇祭、F?29日の天長節、G9月23日頃の秋季皇霊祭、H10月17日の神嘗祭、I11月3日の明治節、J11月23日の新嘗祭、K12月25日の大正天皇祭ですが、昭和23年7月20日法律第78号「国民の祝日に関する法律」によって新しい国民の祝日が定まった際、@は「元日」、Cは「建国記念日」、Dは「春分の日」、Gは「秋分の日」、Iは「文化の日」となり、A・B・E・F・H・J・Kはいずれも廃止になりました。 (注8) 昭和21年12月1日、GHQの指導により、貴族院・衆議院の両院と政府が、帝国議会内に創設した日本国憲法を普及するための団体で、各都道府県に支部を置いたものです。通常は県知 事が会長となり、事務局も県庁が所管しました。 (注9) 広島大学卒業後東京芸術大学大学院を修了し、西ドイツ・デトモルト音楽大学に留学しました。武蔵野音楽大学、フェリス女学院大学音楽学部では学部長を勤めて後進の指導に当たり、昭和64年、フェリス女学院大学音楽学部名誉教授となりました。オペラ、オラトリオ、リサイタルと幅広い分野で活躍し、平成25年には教え子による「傘寿演奏会」が開催されました。 (注10) 従来「今上天皇」と表記していたものを「昭和天皇」の表記に改めたものです。 | |||||||
2016年3月10日 |