ドウゴエの胡麻和え

    
75回(昭和43年卒) 青柳 明子
 
 ドウゴエの胡麻和え
 森敦が小説「月山」で第七十回芥川賞を受賞したのは、昭和四十九年の一月のことだ。舞台となった朝日村大網の七五三掛(しめかけ)にある注連寺に私が行ってみたのは、その少し後のことである。
 それでさえ、既に四十年以上前のことなので、ゴールデンウィークのことか、あるいは七月頃の初夏のことだったかも思い出せない。ただ、珍しいことに父から誘われ、従兄の運転する車で、母も同行したピクニック気分の遠出だった。
 注連寺にはミイラ仏が安置してあるので、その拝観という名目であったが、思うに、父はなじみのある月山が小説になり、それが芥川賞を受けたこと自体が嬉しかったようなのだ。
 当時の注連寺は「本堂は昨年の雪囲いの木組みが解かれもせず、そのままになっていて普請場のようですが、勾欄つきの回廊のある堂々とたるもので、それに続いてこちらにある二階建ての庫裡も、トタン屋根ながら驚くほど大きいのです」という小説の描写そのままだった。
 賞をとった舞台の寺といっても、その時は特に観光客が押し寄せている風もなく、私達は有髪の若い僧侶の案内で、ミイラ仏を拝んだ。ところが、話をしてみると、その若い僧と見えた人は、東京で女性週刊誌の記者をしていたが、俗事に倦んで、今はこの寺に一時置いてもらっているのだという。ついでにお願いして、庫裡の二階の広間を見せてもらった。古い祈祷書をほぐして貼り合わせ、紡いだ繭のようにして、その中に森敦氏が起居していたというのは、実話らしい。小説では百畳とされた広間はもう少し小さく見えた。
 ところで、この小さな旅では、昼食として途中のドライブインで山菜定食を食べたのだが、その中に「ドウゴエ」という山菜の胡麻和えがあり、これが大変に美味しかった。四十年前のことだから、そのマイナーな名前と「美味しかった」という記憶しかないのだが、「ドウゴエ」には父母と注連寺に行ったこと、帰途に見た赤川の流れが、日に青くきらめいていたことが思い出されるのであれば、それで充分に美味の説明になりはしないだろうか。
 その父もすでに遙かな人となり、車を運転してくれた従兄も先日、鳥海山と月山の良く見える日に、不帰の客となった。

 
2016年5月16日