加藤清正公と丸岡地区及び鶴岡市大鳥地区の落人伝説

66回(昭和34年卒) 加賀山隆士
 
加藤清正公
 鶴岡市丸岡地区は、庄内と山形県内陸部を結ぶ旧六十里越街道に対する要地。鎌倉時代より、当地方を支配する武藤氏の支城がおかれていました。
 最上氏改易の後、元和8年(1622年)に酒井氏領となりました。
 寛永9年(1633年)加藤清正公の嫡子・肥後54万石の領主加藤忠廣公が幕府に領地を没収され、庄内藩酒井氏に預けられました。酒井氏は、この城跡に忠廣公と生母正応院様の居館、女中の長つぼね、家臣の長屋などを新築し、承応2年(1653年)忠廣公逝去まで居住させました。忠廣公没後、領地は幕府御領となりました。
丸岡城址は、昭和24年の発掘調査によって推断された天澤寺の「加藤清正墓碑」と共に、昭和38年に山形県指定史跡となりました。天澤寺境内には世界的巨匠で、ニューヨーク国連本部の「阿弥陀如来曼荼羅中尊」の作者の遠藤虚籟氏の虚籟綴織曼荼羅糸塚が設けられています。
鶴岡市大鳥地区の落人伝説
 建久4年5月28日(1193年6月28日)源 頼朝が行った富士の巻狩りの際、曽我裕成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件、赤穂浪士の討ち入りと伊賀越えの仇討ちと並んで日本の三大仇討ちと言われています。
 源頼朝の配下ににあった工藤 祐経が曽我兄弟に討たれた後、身の危険を感じた弟の祐茂は伊東を離れ6年間の流浪の末大鳥地区にたどり着いたと伝えられています。
 その際「相模の国田中の森」に鎮座していた大日如来像を持参したと伝えられていた。現在鶴岡市龍雲院に保存されていると伝えられている。
 一時大鳥鉱山が栄え、2,000人もの住民が居た時代もありましたが、現在では81人程で20歳以下の住民はいない状態の様です。工藤姓の住民に話を聞いて見たいものです。
2016年05月18日