森敦文学 再評価の機運

64回(昭和32年卒) 庄司英樹
 
 森敦文学 再評価の機運
 森家所蔵森敦自筆資料による基礎的研究「森敦資料目録」が3月1日に國學院大學文学部の井上明芳准教授によってまとめられました。
 「森敦資料目録」の表紙を開くと森敦を象徴する色紙が扉を飾っています。
 「われ浮雲の如く放浪すれど
            こころざし常に望洋にあり  森敦」
 この目録つくりに協力した森敦の養女の富子さんは「森敦資料目録」序文で『森敦全集』はあっても、書誌学的目録はなかった。目録の作り方で意外な発見がある。『森敦資料目録』によって森敦文学の全体像が見えてきて、森敦文学の探究が深まっていくものと信じている」と述べています。
 40年にわたる放浪生活をしていた森敦の生活ぶりから想像すると、放浪中も書いては捨てていたと思われていたものが、茶褐色に古ぼけた汚い二つのダンボールの中に入っていたというのです。「酩酊船」の新聞の切り抜きなど初期の作品、昭和3年(16歳)から昭和43年(56歳)までに発表した詩、小説、評論、エッセイなどです。
 富子さんは「その初出誌の切り抜きを手にしたときの驚きは忘れられない。放浪時代は、ほとんど書いていなかったと思い込んでいたので、汚い段ボールが光り輝くお宝箱に見えた。やはり、こころざしを持ち続けていたのだと思うと感慨深かった」と記しています。
 文部科学省の科学研究費補助金に採択され平成25年度から3カ年度にわたって研究してまとめられた「森敦資料目録」は370ページにもおよぶ内容です。
 井上准教授は企画意図として「日本近現代文学の研究領域には、文学作品の生成過程について解明するという方法がある。なぜこの作家はこの作品を書いたのか、この作品がどのような書き換えを経て完成に至ったのか、(略)作家の意識や意図を知る上で見逃すことのできない問題として浮上している。(略)自筆原稿をはじめ、メモ紙片に至るまで保管されている。これほどまでの量が現存している作家は他に類を見ないと言ってよいであろう。これらを調査、分類して、見渡すことができるようになれば、森敦研究の基礎的な基盤が生成面からも堅固となり、さらなる発展が望めるであろう」と述べています。

 岩波書店の刊行物を扱っている書店のレジで希望者に無料で配布されている「図書」があります。いま店頭にある2016年5月号には井上明芳准教授が早くも「森敦文学の境界的思考」と題する一文を掲載しています。その内容は生涯にわたって思索した文学理論「意味の変容」(1984年)の定義「任意の一点を中心とし、任意の半径を以て円周を描く」という数学的な語りをもとに、芥川賞を受賞した小説「月山」と晩年の大作「われ逝くもののごとく」の2作品で円内の空間と円外の空間、境界に属する領域を克明に分析しながら実証している論考です。

 また、2016年4月発行の「クラルテ」7号(フランス語で「光」を意味する。日本民主主義文学会発行)には松田繁郎氏(1964年大阪生まれ)のエッセイ「森敦と空海」が載っています。
 「森敦が空海について造詣が深かったのは、なぜか。どこで空海の思想を知り、どんなところに魅了され、生涯をかけて深めていくきっかけとなったのか。森敦の文学と思想に接近する者にとって、一度は考えておきたいことである」という書き出しでこのエッセイは始まります。湯殿山注連寺のホームページ、森敦資料館ホームページの略年譜をもとに「森敦対談集 一即一切、一切即一」「マンダラ紀行」の作品から「月山」「われ逝くもののごとく」の背後論理として置かれたのは、曼荼羅の世界である。とくに「われ逝くもののごとく」の主題となっているのが空海の「秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)序」の「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥し」であったとしています。
 そして「森敦と空海の関係に決定的な影響を与えたのは森敦の母、静野であったであろう」と結論づけています。その根拠として「森敦対談集 一即一切、一切即一」の瀬戸内晴美(当時)との対談で、
 森    ぼくの母は讃岐の女なんです。それで名は佐伯というんですよ。
 瀬戸内 あ、空海は佐伯家ですね。父は佐伯田公。すごい名門なんですよ。
 森    それで「お前、弘法大師に負けるな」っていうんですよ。負けるなっていったって、弘法大師に勝てるはずがない。できなかったら、弘法大師のお灸をすえるっていうんです。
  この会話を示して森敦の文学と思想は、常に、母親の森静野に回帰すると松田繁郎氏は結んでいます。
 松田繁郎氏は、これより前の「クラルテ」2号には「森敦への手紙」というエッセイを載せています。 「『月山』『われ逝くもののごとく』の凄みは、わかる人にはわかる。山形、庄内平野、月山、鳥海山を舞台にした二つの作品は、森敦でないと書けないものがある。二つの離れた乳房のように、かたちのいい月山と鳥海山に抱かれて、あなたは、人間の、いわば「法則」的なもの、もう少し、狭くいえば、「日本人」の生き方の「法則」のようなものを抉り出そうとしたのではないですか?(略) あなたに手紙を書きたくなったのは『われ逝くもののごとく』の最後の結びの文章がとてつもなく難解なものだと気づいたからです。気づいた理由は、今年の夏、あなたの小説の重要な位置を占める「月山」の麓を、ようやく訪れることができ、文字どおり「月山を拝むことができたからだと思います。(略)あなたが、『月山』に惚れ込んだ理由、小島信夫が『別れる理由』を書いたような「理由」は、そのなかにあるとしかいいようがないものだと得心しました。ところが、それを説明するのが難しいのです」松田氏は作品の舞台になった注連寺、湯ノ田温泉、十二滝などを巡り森敦の文学の世界に心を馳せています。そして締めくくりは「ほんとの姿を見るために、あなたの小説を読みつづけることにします。」 松田氏のエッセイは、森敦オタクとでも言えるファンの強烈な“恋文”です。

   森敦が放浪を繰り返し、自在な生き方は謎とされていましたが、その謎を解く手がかりになるエッセイ集「わが青春 わが放浪」(小学館)が今年1月に出版されました 69編のエッセイは、文学の出発点となった青春の思い出、放浪生活を淡々とした調子でつづっています。
 「青春時代」では師と仰ぐ横光利一への思慕、親友の檀一雄、太宰治らとの交流ぶりを描いています。「私にとって文学とは何か」では十年毎にくり返された放浪生活の果てに文学に戻った経緯を述べています。弱冠二十歳にして、毎日新聞に『酩酊船(よいどれぶね)』という小説を、横光利一の推ばんで連載した気鋭の作家が、その後文壇から消えました。そして四十年後に突如、芥川賞作家として再登場したミステリアスな著者はどこで何をしていたのか、その空白部分をこのエッセイ集は埋めてくれます。

 井上明芳准教授の「森敦資料目録」の扉は森敦の最期の言葉(前掲)で飾っています。「われ浮雲の如く放浪すれど
          こころざし常に望洋にあり 森敦」
 書斎に残してあったハガキ大の紙に鉛筆で書いてあったのを色紙に複製したものです。森敦の精神が凝縮した内容です。私はこの最期の言葉を見て、芥川賞受賞後にテレビ・ラジオ番組出演で注連寺を再訪した森敦を思い起こしました。祈祷簿でつくった蚊帳の中で天の夢をみて一冬を過ごしたあの部屋です。じさま、ばさまがイトコ煮などを持ち寄って酒を酌み交わした夜、「何か歌ってくれちゃ」と手拍子が打たれると朗々とした声で歌ったのが「富士の山」でした。
  あたまを雲の上に出し 四方の山を見おろして
       かみなりさまを下に聞く 富士は日本一の山
 「こころざし常に望洋にあり」に通底していたのです。
 最期の言葉は東京神楽坂の光照寺にある森敦の墓石にも刻んでありました。森富子さんによると、森敦は生前「僕の墓はどこの寺でも喜んでつくらせてもらえるよ」と言っていました。注連寺にお願いしたら修行僧以外に墓地はつくれないとのこと。森敦が勤務したことのある近代印刷の社長さんの娘さんが心配して、父親の墓地がある光照寺に口添えをしてこの地を菩提寺にしたそうです。墓地の建立にあたって当時、小島信夫、古山高麗雄、三好徹の三氏と話し合いました。
 小島さんは「墓碑の文字はどうするのか」、三好さんは「墓地は新地でないと駄目です」等々。結局墓碑は「われもまたおくのほそ道」の生原稿の中から該当の文字を拡大し、富子さんが筆でなぞりましたが、森敦の勢いのある文字を下敷きにしても、その力強さは出せませんでした。
 三好さんの新地にとの条件は光照寺が協力、「こぶし」の老木を移動して墓地を建立したエピソードを、数年前に光照寺で富子さんとお会いしてお参りした時にお聞きしました。「こぶし」は移動先で生き生きと花を咲かせていました。

 2012年に行われた森敦生誕百年祭が注連寺で開かれた際に富子さんが、森敦が残した直筆原稿など約9400枚と創作ノート70冊を鶴岡市に寄贈を打診して翌年に合意しました。寄贈資料には「月山」の自筆原稿164枚の他、山手線の電車の中でざら紙に書いた「月山」の草稿、絶筆「キミ笑フコト莫カレ」の直筆原稿35枚、200枚以上の未発表書簡と遺品などがあります。森敦の創作過程を研究する宝庫です。今春上梓された「森敦資料目録」を加えて「森敦文学」の再評価、文学理論のさらなる研究の台頭が楽しみです。                          
2016年5月21日