真言宗智山派正福院新山寺大日堂前の「なかたち石」について

      
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
真言宗智山派正福院新山寺大日堂前の「なかたち石」について
 平成27(2015)年10月2日に「山形市の明善寺本堂」についての投稿をしましたが、今回は、明善寺前の歩道(山形市の都市計画道路・諏訪町七日町線)を南に約150メートル進んだ歩道の中に建っている「なかたち石」を紹介します。
 この石柱は、高さ157センチメートル、幅、厚さそれぞれ34センチメートルあり、蔵王山系から産出される灰黒色系の安山岩で、油のような光沢があるところから通称「油石」といわれる石を加工したものです。写真で見るとおり、石柱は長径196センチメートル、短径143センチメートルの楕円形の台座石に埋め込まれていますが、もともとは現在地よりやや北側の宗教法人真言宗智山派大日山正福院新山寺の大日堂の敷地内の井戸前に位置していたものを都市計画道路工事の際、現在地に移設したということです。 江戸時代末期の大日堂前は、羽州街道の脇道として、笹谷街道を抜けてきた仙台の商人らで賑わい、交通量は多かったといい、また、石柱を建立した妹尾氏は、この界隈の豪商であったといいます。
 石柱の正面には「なかたち石」とあり、向かって右側には「をしへる方」と、左側には「たつぬる方」と刻まれており、裏面には、山形県立博物館の民俗部門専門嘱託の野口一雄先生らの調査によれば、
 夫物を得ると喪ふとは憂歓に関係て然も人力の及ふ処に非すといへとも
 凡迷児狂人或は乳母をたつね或は雑佩書券を遺せし類喪ふて索捜
 處なく得て返與ふる人あきもの共に人情の息んせさる所にして誰か憂歎かさ
 らんや仍て碑を建て訪教るに便ならしむもの往々国々に見ゆ今茲に
 是を計りて郷里の為にせんとす    文久元(1861)年辛酉五月 新山寺現住是光誌
                                        施主妹尾嘉兵衛
 とあって、この石碑を建てた目的は、「迷子」、「狂人」、「乳母」を尋ねる者の便を図るもののためであり、また、「雑佩(身につける飾り物で、いくつか組合わせたもの)」、「書券(重要書類)」などの失せものを探す者の便を図るためであることが理解できます。また、先生によると同様の石柱は、全国で確認されているものが24基あり、県内では上山市のものと合わせて2基のみということですが、一方、村山民俗学会の安孫子博幸さんによれば、「なかたち石」と同様、伝言板の役割を果たした「知らせ石」は全国に28基が現存するが、東北では仙台、山形、上山3市でしか確認されていないとしています。さらに、迷子が出ると年齢や身体的特徴などを書いた紙を「たつぬる方」に貼り、子どもを見かけた人が情報を「をしへる方」に貼って教えたといいます。また、「乳母求む」、「女中求む」,「嫁求む」などの人探し情報にも活用され、更には、不要な鍋釜の交換など物品交換などの情報を「仲立ち」する石として、終戦直後まで利用されていたということです(2015年5月18日付け河北新報参照)。
 この「知らせ石」の一例を東京都教育委員会は、『江戸の後期になると、盛り場といわれる場所では迷子も多く、迷子が出た場合は、町内が責任を持って保護することになっていたため、付近の有力者が世話人となって安政4(1857)年に、八重洲の「一石橋迷子知らせ石標」を建立したものである。』と説明しており、「一石橋迷子知らせ石標」は、1942(昭和17)年9月30日に東京都有形文化財(歴史資料)の指定を受けています。これと同様のものは、浅草寺や湯島天神にもあるそうですが、浅草寺のものは太平洋戦争で破壊されたものを復元したものだそうです。
 なお、山形市観光協会公式ウェブサイト『Web山形十二花月』の「小姓町」には、この石柱(「なかたち石」)は建立当時のものではなく、"風化したため、郷土史家の故武田好吉さんの努力で昭和56年ごろに当時のものと同様に再建立されたものである"と説明していますが、このことについて先述の野口一雄先生にお尋ねしたところ、山形市教育委員会担当者が石材加工業者の意見を徴した結果では、昭和の年代であれば、文字は機械彫りとなるはずであるが、石柱の文字・加工は手作業であり、また、石柱の風化の度合いなどから見ると江戸期の作業であるとの判断がなされたとのことでした。
 以上のようなことですが、「なかたち石」のような石柱は全国的にも珍しく、また、幕末期から終戦直後までの山形の庶民の暮らしを伝える民俗資料としても貴重であるところから、山形市でも、2015(平成27)年2月6日に「山形市指定有形民俗文化財」としての指定を行っていますが、これに関して山形市在住の開沼光子さん(86歳)という方が、同年2月27日付け山形新聞に『思い出深い「なかたち石」』と題する投書を次のように寄せられています。この方はそのお歳から昭和3(1928)年ごろの生まれと推察できますが、この「なかたち石」を、終戦直後まで山形の庶民が大いに活用いていたことが、投書の文面からも裏付けられます。
 山形市小姓町の「なかたち石」が、市の有形民俗文化財に指定されるとの記事を見て驚きました。全国でも珍しく、県内には2基だけ。貴重な安山岩でできているそうです。昭和25年まで小姓町に住んでいました。「なつかしいなあー」と思いました。「なかたち石」のある大日堂は、通称「大日様(だいにっつぁん)」と呼んでいました。井戸もあったと記憶しています。子供のころ、手と手をつなぎ、「なかたち石」を真ん中にくるくる回る「カゴメカゴメ」「通りゃんせ」など、わらべ歌を大きな声で歌ったものです。当時、車はめったに通ることはありません。人力車だったので、子どもが道路出でても危なくなかったのです。近所の方からは「元気でいいね」と褒められ、あめ玉を一つもらい、うれしかったし、うまかったです。何もなかった時代でしたが、現代より人と人との「和」が本当に良かったと思います。
 「なかたち石」は、「たつぬる方」側に▼迷子▼お乳をください▼子どもの靴や靴下、手袋のサイズなどが書いてありました。尋ね人の住所、氏名も書いてあり、今では考えられないことです。「をしへる方」にも親切な人の答えがありました。
 幕末期の伝言板が山形市の有形文化財になることなど知るよしもなく、汗や鼻水を「なかたち石」にこすりつけたりしたのを、今は反省しています。チャンスがあれば、一度頭を下げにゆきたいと思っています。私にとっては、懐かしい思い出の「なかたち石」です。文化財指定、ばんざーい。

 新山寺については、堂の前に鳥居があること、火災後再建されなかったこと、また、大日堂には、大正5(1916)年に和算「最上流」の「算額」が奉納されたということなど、いろいろ調べてみたいことがありますが、これらについては、追って機会を見て調査してみたいと思っています。
2016年6月1日