「あしたでも 百まででも」

64回(昭和32年卒) 庄司英樹
 
 「あしたでも 百まででも」
 3年前に山形市のシベール・アリーナで「永六輔講演会」が開かれた。500席は満席、ステージ上にまで椅子を2列ずつ並べて収容の満員の聴衆に、車椅子で登場の永六輔さんは「山形は4回目ですが、このように大勢集まってもらったのは初めて。私がこんな姿だから今回が最後と思ってやって来たのでしょう。でもまた来ますから!」
 パーキンソン病ながら軽妙な喋りで笑いを誘い、ラジオ番組「誰かとどこかで」「7円の唄」の形式を踏襲し、リスナーからのハガキを見ながら遠藤泰子さんとのトークショウだった。この講演会で印象に残ったのはラジオの「誰かとどこかで」でも紹介された詩。
 



 今年2月放映になった「徹子の部屋」に「ラジオの巨人永六輔VS テレビの巨人大橋巨泉VS黒柳徹子!」に出演していたが、永六輔さんの山形の講演会はもう無理な様子だった。
 昭和30年代の後半、ジャズ評論家の大橋巨泉さんはよく山形に来て、美人姉妹が経営するカウンターだけの小さなバー「美京」に通っていた。上司にお伴した時に、当時全国的に注目の山形の若きプロモーターKを待つ巨泉さんと同席する機会があり、ジャズ歌手マーサ三宅の話を聞いた記憶がある。まもなく「11PM」で大活躍するようになり巨泉さんは山形に来ることはなくなった。

 多湖輝著「楽老のすすめ」(海竜社)に、「年配者に与えられた時間の恩恵は、一つの旅行だけでも、若い時の3倍にして楽しませてくれる。行く前に同行者たちと何回も会って目的地のことを調べ、旅行当日はその準備が活きて精一杯楽しみ、帰ってからも、写真の整理、同行者が集まり、思い出話に花を咲かせる楽しみ」とあった。

 四国に住む同期生の呼びかけで始まった「藤沢周平の原風景をたどる旅」(平成17年)の鶴岡酒田への旅行、そして6回目(平成22年)は、直江兼続のNHK大河ドラマ「天地人」と映画「おくりびと」撮影舞台の米沢・酒田だった。

 12年目の今年は「北海道旅行」案内が届いた。昨年来不調の体調もなんとか回復している。
 「食べたいものは 食べておこ 会いたい人には 会っておこ やりたいことは やっておこ」の精神で参加した。

 旅行の下調べで半世紀前の紀行文、木山捷平著「日本の旅あちこち」(講談社文芸文庫)に出会った。

 「旅吟 北海道」(昭和41年)
「もうとっくに還暦を過ぎた男が 汽車に乗って北海道… 屋根のさびた漁師の家の群落 一軒の裏廂(ひさし)に明治37年生まれに違いない婆さんの赤いものが干してあった。お嫁に来てから40年 赤いものは落ち葉が沼に沈んだような灰色だった」
 この洗濯物は今やどのような色になっていることやら。この洗濯物を見てみたい。しかし、この場所は室蘭の噴火湾を臨みながら経由する鉄道、われわれの旅行では通過しない漁村だ。

 「オホーツク海の味」(昭和42年)
 根室の小料理屋で「北海道ではカニが三種類とれますが、タラバは人妻の味、ケガニは女房の味、ハナサキガニは生娘の味となっております」と文学仲間が教えてくれた。宿に特別に注文してハナサキガニを食べた。ゆでてあるので色はイセエビのように真っ赤。箸でつついて食べると、身が舌先にこりこりするような感じだった。この味が生娘の味なのだろうと思った。
 還暦を過ぎた木山捷平の感激したハナサキガニ、私も味わってみたい。旅行に参加した地元の同期生に質問してみた。「ハナサキガニが生娘の味?う〜ん いやぁ私には分かりません」と困惑の表情。「味は‥あまり美味しくありません。大きなトゲがあります」と場合によっては怪我する危険のあることを教えてくれた。宿泊した函館のホテル脇の朝市でもハナサキガニは見当たらなかった。同期生曰く「ケガニが一番美味しいです!」
 それにしても地元に伝わる「北海道の三種類のカニ」の表現は文学的でなんとも意味深だ。

 昭和57年にイサム・ノグチが設計し、平成17年にオープンした「モエレ沼公園」の雄大な景色には感動した。札幌市がゴミ処理場の公園造成を計画し、イサム・ノグチが、緑とアートが融合した美しい自然景観を開花させた。
 2005年夏に新日曜美術館「イサム・ノグチ幻の原爆慰霊碑」(NHK)を視聴した。「慰霊碑」は丹下健三の推薦で前衛彫刻家イサム・ノグチのデザインが選ばれた。父が日本人、母がアメリカ人ノグチにとって慰霊碑の建設は、2つの祖国を持つ自分だからこそできる。日米の架け橋となるはずだったが、却下された。丹下の恩師が、ノグチは原爆を落としたアメリカの人間であると強硬に難色を示し選考から外された。結局、丹下健三が設計の再デザインをして現在の「原爆慰霊碑」になったという経緯を知った。
 イサム・ノグチの案が実現していたならば、今回のオバマ大統領の広島訪問はもっと早期に実現して、世界平和を巡る展開も進んでいたに違いない。

 七飯町に広がる雄大な大沼国定公園。大沼プリンスホテルに、ミリオンセラーになった新井満作曲「千の風になって」の生誕の地と表示してあった。 駒ヶ岳と湖水と森を吹きわたる風には感慨深いものがあった。新井満さんが、森敦の芥川賞受賞作品「月山」の文章に曲をつけて歌った組曲「月山」はLPレコード化された。「月山」が生まれた旧朝日村注連寺には訪れたが、今回は、名曲「千の風」が誕生した大沼公園、二つの名曲の生誕の地に立つことが出来て嬉しい限りだった。

 ところが、帰宅してから驚くことが相次いだ。五稜郭の展望台でいっしょになって言葉をかわした修学旅行の山形1中の生徒達。新函館北斗駅発の北海道新幹線でも隣の車両がこの山形一中の生徒だった。翌日の報道でわが目を疑った。学校で解散式のあと、迎えに来た母親の車で帰宅の途中に交差点で右折したところに猛スピードで直進してきた乗用車が衝突し、後部座席でシートベルトをしてなかった中学生は亡くなった。将来ある中学生の死はあまりにも悲しい。事故現場は我が家から近い交差点。相次いでやってくる中学生に混じって手を合わせた。

 「千の風」誕生の舞台の大沼国定公園では、躾のために置き去りにされた小学校2年の男子児童が不明になった。大掛かりな捜索活動が繰り広げられ、6日ぶりに無事が確認された。あの雄大な景色が、さ迷い歩く小学生の見ていた景色と重なり、複雑な思いにとらわれた7日間だった。

 原稿の構想を練り、書いては消し、投稿までの日々は、故多湖輝千葉大名誉教授が提唱の「教養 きょう用がある」と「教育 きょう行くところがある」への取り組みのつもり。ただ、HPの画面を汚す恐れが出たならば即刻に擱筆しよう。

 「藤沢周平の原風景をたどる旅」の楽しかった伝説が同期の連中に伝わり、今なお旅行を継続する原動力になっているようだ。参加の顔ぶれも入れ替わったが、東京五輪の年に「山形の旅」を楽しんで同期の旅行をフィナーレにしようとの申し合わせになった。4年後は、みな80歳を超えるが‥。前掲の「あしたでも 百まででも」の最後の二行への取り組みはなかなか難しい。
2016年6月10日