「七飯町(ななえちょう)」と聞いて思い起こしたこと
               〜ガルトネル事件とガルトネルのブナ林〜

      
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
「七飯町(ななえちょう)」と聞いて思い起こしたこと
                 〜ガルトネル事件とガルトネルのブナ林〜

《はじめに》
 今年の5月、北海道七飯町の林道に、躾のためと称して置き去りにされ、その後行方不明になった北斗市の児童が1週間ぶりに発見された事件がありました。幸い、天候が悪化しないうちに陸上自衛隊の演習場の建築物にたどり着いて雨風を防ぐことができ、また、飲料水も確保できた幸運も手伝って児童はかすり傷程度で無事保護されましたが、この事件は、親の子供に対する躾について改めて深く考える機会を与えるものでした。
 この事件は連日マスコミで取り上げられたのですが、「七飯町」と聞いて私は、ふと今から50年ほど前に読んだ本のことを思い起こしました。その本とは、朝日新聞社が昭和42年7月1日から10月12日まで、86回にわたり北海道の朝日新聞に連載したものを『北方植物園』として纏め、昭和43年1月25日に発行したもので、美しい北海道の森に生えている樹木80種余について、学問的な面、国民経済や、地域社会へ及ぼす価値観、或いは文学や伝統、歴史の面などに関して幅広く紹介したものですが、その「ブナ」の項の一節に次のような件がありました。
 ・・・・・北海道開拓史上有名なゲルトネル事件を起こしたドイツ人ゲルトネルが、故郷をしのび、北七重村(いま七飯町)にブナ林をつくったことは、北海道林業史のエピソードのひとつになっている。ゲルトネル事件とは、幕末時代の函館在留ドイツ副領事シー・ゲルトネルの兄、アル・ゲルトネルが、"蝦夷共和国"を宣言した榎本軍政の時、どさくさにまぎれ、明治2年、七重付近約1千ヘクタールの土地を99年間租借する」という契約を結んだもの。2代目開拓長官東久世道禧(筆者注記:ひがしくぜ としみち)が、ゲルトネルの要求7万5千両に対して6万2千5百両の賠償金で手を打ち、これを取り戻している。アル・ゲルトネルが、明治2,3年ごろ、居住地の七飯付近の山から苗をとってきて植えたブナは、いま林齢約百年、0.38ヘクタールに約 320本が残っている。平均樹高21メートル、同胸高直径70センチ、幹は付近の自然林に見られないほどすらりと伸び、枝下高10メートルと非常に高い。林業専門家に高く評価されている見事なブナ林である。・・・・・
 そこで今回は、このゲルトネル事件とアル・ゲルトネルが植栽したブナ林について、参考文献に当たって調べてみたことを報告してみたいと思います。なお、『北方植物園』では、「シー・ゲルトネル」、「アル・ゲルトネル」と表記していますが、「ゲルトネル」はドイツ語読みで、英語読みだと「ガルトネル」になり、『北方植物園』以外参考にした文献では、全て「ガルトネル」の表記を用いているので、以下拙稿でも「ガルトネル」の表記とします。
《ガルトネル事件》
 文久元年(1861)、プロイセンの貿易商リヒャルト・ガルトネル(以下「R・ガルトネル」)は、安政6年(1859)に開港の箱館で貿易に従事することを思い立ち函館にやってきます。そして、4年後の慶應元年(1865)、クニッフラー商会横浜支社代表から箱館駐在プロシャ副領事となった弟コンラート・ガルトネル(以下「C・ガルトネル」)の助力を得て,箱館近郊における開墾を計画し、箱館戦争(明治元年(1868)〜明治2年(1868))の最中、一時的に樹立した榎本(榎本釜次郎(榎本武揚)政権と明治2年(1869)3月31日、「蝦夷地七重村開墾条約書」を締結したのです。その概要は、七重村及びその近傍地(飯田、大川、中嶋)@約300万坪(990ヘクタール)を榎本政権(蝦夷政府)から99年間借りること、?有志を選びヨーロッパ農法を教授すること、?借地には境界杭を建てること、C99年後には土地及び土地に付属する工作物など施設一切を政府のものとすることなどであり、これに基づき開墾事業を開始していったのです。更に、この榎本政権が敗北し、新政府になってからも、R・ガルトネルは、明治2年(1869)6月、箱館府(※1)知事清水谷公孝(しみずだに きんなる)侍従の南貞助〈箱館府判事心得〉と、榎本政権の時の契約書に書き添えるように契約を締結したのです。しかし、これを知った明治政府の中枢(太政官)は、隣国清の香港が英国によって植民地化(天保13年(1842)6月)されたという見本を見ており、日本が外国の植民地となることを危険視し、「土地貸与の権限は箱館府知事にその権限はなく、外国人に対しては、居留地の貸与以外には法がないとし、我が国には独自の国体があり、ぜひとも土地は取り戻すべきである」との対応をとり、最終的に太政官は、外務省に交渉の一切の権限と賠償金額の決定権の一切を委ねることにしました。これを受けて外務省は、開拓使(※2)の岩村開拓判官に調査と交渉を指示し、岩村開拓判官は幾度となくR・ガルトネル側と交渉を重ね、交渉そのものは難儀したのですが、明治3年(1870)11月9日、ついにR・ガルトネルから開拓判官岩村通俊と開拓権判官杉浦誠あてに提出された「6万2千5百ドルならば解約に応じる」との英語での書簡を入手し、日本政府もこれに応じたため、1年以上も難航した七重村開墾地解約交渉はここに幕を下ろしたのです。
 開拓使から外務省と弁官(太政官の事務方)へなされた報告書には、以下のようなR・ガルトネルの記した和訳文書が添えられていました。
 私は明治3年11月10日(1871年1月31日)7,500両ならびに上海および香港への為替洋銀55,000ドルの請取証書も、同日確かに日本政府より受け取った。そして、明治2年6月16日(1869年7月24日)付けの七重村の地券を日本政府に差し上げた。また、すでにお渡しした書面のとおり、私の農場は全てを引き渡すように用意してある。なお、この62,500ドルの金額を私は決して不満に思っていない。我七重村の約定については、今後一切意義を申し立てない。
      1871年第1月30日 

                                函館・R・ガルトネル

 以上が当該事件のあらましですが、当時の時代背景や登場人物を拾い上げて若干補足してみます。
 R・ガルトネルが、箱館近郊の開墾計画書を最初に提出して許可を得た相手方は、徳川幕府最後の箱館奉行杉浦兵庫頭で、慶應3年(1867)のことですが、開拓計画に基づき具体的に 300万坪の土地を99ケ年間貸与する旨の契約を締結したのは、明治2年(1869)3月31日で、明治新政府から見れば賊軍であった榎本釜次郎(榎本武揚)政権であります。更に、榎本政権の時の契約書に書き添えるように契約を締結し直したのは、明治2年(1869)6月16日で、新政府の箱館府知事清水谷公孝(しみずだに きんなる)の侍従南貞助〈箱館府判事心得〉であり、これが新政府にとって最大の失政となったのです。従って、「蝦夷地七重村開墾契約」の件、すなわち「ガルトネル事件」は、明治新政府としては、なんとしても無効にしたい契約でありました。ただし、この事件が勃発した背景には、幕末からい明治維新当初において次に述べるような事情があったのです。
 徳川幕府は、嘉永7年(1854)に「日米和親条約」を締結したことにより箱館を開港し、これに伴い箱館付近を直轄領として「箱館奉行所」を設置するとともに内地からの移住の奨励と蝦夷地の開拓の指導に重点を置きました。安政3年(1856)には八王子千人同心(郷士身分の幕臣集団)の移住があり、安政5年(1858)には八王子千人同心による七重村の開墾活動が開始されていました。また、幕府も幕府直轄の農園(御薬園)を設け、マツやスギを植林したほか薬草を植え付けており、後に栗本鋤助という人物に管理を行わせるなどの施策を展開していたのです。更に、安政5年(1858)には、軍川付近に外国船が必要とする牛肉や野菜を供給するための牛牧場も設置しました。
 一方、明治維新政府の賊軍となった幕臣の榎本釜次郎(榎本武揚)らは、慶應4年(1868)8月19日の品川沖脱出に先立ち、徳川脱藩海陸軍一同の名の下に、勝安房守を通じて『徳川家臣大挙告文』という陳情書を明治新政府に提出していました。この陳情書の趣旨は、「王政復古によって将軍徳川慶喜は朝敵とされ、城と領地を没収された。そこで、徳川家臣を救済するためには蝦夷地を賜り開墾するとともに皇国のために外患内賊に対処したいのであるが、その願いは許されず、家臣一同は困窮と飢えに苦しんでいる。この窮状を朝廷に訴えても届かない。最悪の場合は、あえて一戦も辞さない覚悟で江戸を退居する」というものでした。榎本のこのような蝦夷地の開拓と守備という考え方は、後の開拓使時代の屯田兵制度と同様の考え方でありました。
 前述のように明治2年(1869)6月16日に明治新政府は、2つの新たな七重村開墾条約をR・ガルトネルと契約したのですが、この条約の事実上の当事者は、箱館府判事心得の南貞助でした。彼は、高杉晋作の従兄弟で、慶應元年(1865)、ロンドン大学、次いで陸軍大学校で学び慶應3年(1867)に帰国した際は、外国通として知られ、明治元年(1868)に外国官権判事として外国公使の天皇への謁見斡旋や処遇にかかわり、明治2年(1867)には箱館府判事となってこの日本政府にとっては不利益な契約を結んでしまいましたが、これは彼に独断専行の習癖があったためといわれているものの、誕生間もない明治政府も徳川政権と同様蝦夷地の開拓には力を入れようとしていたものであり、そのような動きが彼を動かしたのではないかといわれています。なお、南は、明治4年(1871)に再度渡英し、英国人と結婚しますが、これは我が国の国際結婚第1号の記録とされています。
 ガルトネル事件は、明治維新という政局の混乱期に起きた事件であり、日本が国際貿易のルールに疎かったために起きた事件ともいえますが、前述のとおりに国を挙げて折衝し、多額の賠償金を支払う結果となってしまいました。しかし、以上の経験を無駄にせず、明治政府(開拓使)は、明治3年11月、早速このR・ガルトネル開墾地の跡地を引き継いで七重開墾場〈官営七重園〉とし、農作物の試作、家畜の飼育を実施することになって北海道開拓の重要な拠点と位置付けたのです。ために明治天皇も明治14年(1881)の北海道行幸の際には、態々この地を訪問しています。
※1 慶應4年(1868)に明治新政府が「箱館奉行所」を引継ぎ「箱館裁判所」を設置しましたが、この機関は、司法権を行使する今日の裁判所とは異なり、諸藩に属さない直轄地を治めるための行政機関でした。箱館裁判所は明治元年(1868)に「箱館府」と名称が変わり,明治2年(1869)7月まで存続しましたが、箱館府も「開拓使」の設置(明治15年(1882)2月まで存続)によって廃止されました。
※2 「開拓使」は大蔵、外務、民部、兵部、宮内、弾正台(のちの司法省)の6省と同格とされ、強大な権力を持つ役所でした。「使」は役所名に当たり、今日的用語としては「開拓庁」が妥当かと思います。なお、鶴岡出身の松本十郎が就任した「開拓判官」はこの役所の長官、次官に次ぐ重要なポストでした。
  《ガルトネルのブナ林》
 『北方植物園』で紹介されたR・ガルトネルが苗木を植栽したブナ林は、函館から大沼国定公園に向かう国道5号線、七飯町役場の北西方向に見ることができます。 北海道でブナというと、渡島半島の黒松内低地帯(寿都(すっつ)と長万部(おしゃまんべ)とを結ぶライン)を北限として、ここから北にはブナの分布を見ることができません。一方、R・ガルトネルの祖国では、「ブナの生じるところ、その土地は常に美しい」といわれ、また、ブナは「森の母」、「森の聖母」などとも呼ばれており、デンマークでは「国樹」になっています。また、ブナのもみじは渋い銅色であるところから「繁栄」とか「成功」という花言葉になっています。このようなことで、R・ガルトネルは遠く離れた故郷をしのび,開墾計画地の一隅にブナを植栽したのですが、成長したブナ林は、現在北海道森林管理局渡島森林管理署が「ガルトネル・ブナ林(植物群落保護林)」として大切に管理されており、当該森林管理署のホームページでは次のように紹介しています。しかし、『北方植物園』の記事に比べると、50年ほどの間に人為による改変が大幅に進んだせいでしょうか、その面積は減少しているようです。 北海道森林管理局渡島森林管理署の設置した案内板には次のように記述しています。
 【ガルトネル・ブナ林(植物群落保護林)】
 このブナ林は、函館で貿易商を営んでいたプロシア(現在のドイツ)のR・ガルトネル氏が明治2年(1869)から3年にかけて、近郊の山から採取したブナの山引苗(筆者注記:自然に育った稚樹を掘り取ってきたもののこと。)を植栽した人工林です。
 植え付け当初は数ヘクタールの広さがありましたが、その後の開墾などにより、現在はこの林を残すのみとなっています。
 このように林齢百年を超えるブナ人工林は全国にも例がなく、非常に貴重なものであるところから、林野庁で「植物群落保護林」に指定し、歴史的文化的遺産として、また、優良なブナ人工林として保護・育成しています。
 ガルトネル・ブナ林の状況(2002年調査)
 1869年〜1870年(明治2年〜3年)植栽
  面  積:0.26ヘクタール(筆者注記:『北方植物園』:0.38ヘクタール)
  林  齢:132年〜133年
  現存本数:133本(筆者注記:『北方植物園』:約320本)
  胸高直径:12〜72センチメートル(平均22センチメートル)(筆者注記:『北方植物園』:70センチメートル)
  樹  高:6〜35メートル(平均22メートル)(筆者注記:『北方植物園』:平均21メートル)
  林分材積:176立方メートル
【地元小学校によるブナ植樹】 平成4年(1992年)、地元七重小学校の生徒さんたちが、隣接地(筆者注記:0.12ヘクタールの隣接地内)にブナの苗木を植栽し、「2代目ガルトネル・ブナ林」の育成に取り組んでいます。

《明治期における山形県のサクランボ事情》
 山形県は、現在、日本国内のサクランボの生産量の約4分の3に当たる13,500トンの生産をしており、日本一のサクランボ生産県となっていますが、このサクランボを日本で最初に栽培したのは、R・ガルトネルで、七重の開拓地にリンゴ、洋ナシブドウなどの果樹とともに6本のサクランボを試植したといわれています。
 その後明治5年(1872)には、開拓使庁において、アメリカ人ホラシケプロンの助言により各種果樹とともにサクランボを導入しており、同時に清国に派遣された産業視察員がサクランボの苗木を持ち帰り、内務省勧業寮に試植しています。
 山形県には、明治8年(1875)に内務省勧業寮により3本の苗木が山形県庁に配布されて構内に試植され、また、置賜県にも2本配布されました。更に、明治9年(1876)に、初代県令三島通庸が北海道開拓使長官黒田清隆の手を通じて、サクランボ、リンゴ、ブドウの苗木 300本を取り寄せ、山形市香澄町の試験地に植え付けました。明治11年(1878)になると県が「千歳園」(現在の県立山形東高校敷地)内に産業試験場を設置し、内務省勧業寮から導入した果樹の試験栽培を開始しています。明治18年(1885)になると県は地方産業の発展を目的として、半官半民の「山形興業会社」を設立し、三田育種場より24種の苗木を購入し、栽培希望者に提供するようになり、明治21年(1888)になると山形興業会社種苗部の吉井賢太郎が、自園のサクランボを人力輸送により仙台に出荷しています。本多成允(ほんだ せいいん)や渡辺藤右エ門が柴橋村(現在の寒河江氏柴橋)に西村山郡立農産物試験場を作りサクランボ栽培を広げていきます。そして、明治23年(1890)になると山形県産のサクランボが、仙台から東北本線で東京に出荷されています。
 上記の本多成允は、鶴岡出身の庄内藩士でしたが、明治維新後は、明治8年(1875)酒田県に勤務し、次いで山形県書記となり、後一家を上げて西村山郡寒河江村に移住して西村山郡役所書記となりました。明治20年(1887)頃より自宅周辺でサクランボの栽培を試み、その啓蒙普及に努め、今日の寒河江市のサクランボ隆盛の先駆者とし広くて知られています。そして、明治30年(1897)より1期、寒河江町長を務め、その後は、農産物試験場長に就任しました。
 明治28年(1895)には、寒河江市の井上勘兵衛が自宅でサクランボの缶詰作りを開始し、明治34年(1901)になると奥羽線が山形まで開通したので、サクランボの県外出荷が増え、栽培面積も急激に増加します。明治41年(1907)、県農事試験場では、農商務省指定のサクランボ栽培品種試験園として圃場を設け、フランス産種14、アメリカ産種6、在来種その他11の計51品種の品種比較試験を開始します。そして、明治43年(1910)、農事試験場において、日本園芸会主催の桜桃名称一定協議会が開催され、国外から導入した主要品種に和名を付して、協定名称として発表するに至りました。
 現在の主要品種卯「佐藤錦」の育成者、東根市の佐藤英助は大正期に入ってから活躍した人物です。
 なお、蛇足ながら「おいしい山形」のホームページによりますと、「オウトウ」とは学術用語として「バラ科サクラ属の果樹」を指し、「サクランボ」とは、「もぎ取った果実」を指すのだそうです。
《おわりに》
『ブナ林が語り伝えること』の著者田辺安一氏は、その著書の中で、「R・ガルトネルを再評価」と題して、次のように述べています。
 従前の北海道農業研究史では、R・ガルトネルの農場には少し触れるが、大急ぎで開拓次官黒田清隆とケプロンらの米国農業の導入へと進むのが常である。これは、R・ガルトネル農場関係の史料が、あまりよく研究されていないためであろう。(中略)こうして不十分ながらも、ある程度、R・ガルトネルにかかわる史料が明らかにされたのであるから、北海道農業への西欧農法導入の歴史も慶應3年(1867)あたりから記述されても良いと思う。そうなれば、例えば、牛馬の飼料で、今も重要なアルファルファ,アカクローバー、チモシーなどが北海道に導入された歴史は、少なくとも明治7年(1874)に七重開墾場導入という記述が、5年遡って、明治2年にR・ガルトネル農場へ導入と、技術史が書き替えられるであろう。こうして、これまでの北海道農業を様々な視点で再検討すると、黒田清隆、ケプロン、クラークらに代表される米国農業導入とその発展をお大きく評価することは妥当であったのであろうか。あるいは、R・ガルトネルの退居とともに、それこそ発芽直後にごく一部を残して、ほとんど根絶やしにされたプロシャ農法、つまり農芸化学者の始祖で土から得たものは必ず土に戻す循環農法の提唱者リービヒに象徴されるプロシャ農法が、そのまま北海道内に広がっていたならば、どこへ行ってもあまりに直線的な農村風景は、かなり様変わりしているのではなかろうか。歴史にもしもは禁句であるが、わたくしたち北海道民の先達には、もっと多様な選択が可能であったはずである。

(主たる参考文献)
『北方植物園』(朝日新聞社)、『ブナ林が語り伝えること』(田辺安一(たなべ やすいち)著)、『七飯町ホームページ』、『さらば・・えぞ地−松本寿郎伝』(北国諒星(ほっこく りょうせい)著)、『北海道の自然保護』(俵浩三(たわら ひろみ)著)、『森林で遊ぼうシリーズ1おもしろい木の話』(北海道林業改良普及協会、『データーベース世界と日本』(東京大学東洋文化研究所)、『Wikipedia』、『山形県のホームページ』、『寒河江市ホームページ』など
2016年09月06日