荘内中学校一年生が祖父に出した手紙

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
荘内中学校一年生が祖父に出した手紙
 切手や郵便関係資料の蒐集仲間で組織する「山形郵趣会」会員で、酒田市松山出身の富樫敏郎さん(現在千葉県市川市在住)と私との関わりについては、2014(平成26)年8月9日付けで投稿した「曽祖父が祖父に送った留郵便」において述べたところですが、その後も富樫さんとは時折メールで連絡を取り合い、また、富樫さんからは庄内や山形に関する古い封書や絵葉書などの郵便に関する資料を頂戴したりしていますが、今年も母校の大先輩が残した郵便物の贈呈を受けたところです。
 この郵便物は、ごく普通の封書であり、宛先は「飽海郡南遊佐村千代田」(現在の酒田市北西部で遊佐町との境界付近、羽越本線南鳥海駅周辺に当たります。)在住の「齋藤直治郎様」とあり、差出人は「荘内中学校寄宿舎齋藤良蔵」、差出日は「2月10日」となっています。
 封書が出された年代ですが、貼られている切手が1899(明治32)年から1907(明治40)年にかけて発行された普通切手の赤紫の3銭の「菊切手」といわれるもので、消印が「鶴岡郵便局3.2.11」となっていますので、1914(大正3)年2月11日のスタンプであることがわかりました。
 ちなみに大正3年という年は、1月に鹿児島の「桜島」が大噴火を起こし、2月に至って大隅半島と繋がっています。また、同じ1月には「シーメンス事件」(注1)が、6月には、ヨーロッパにおいて「第1次世界大戦」が勃発した年でもあり、一方、県内はというと、3月に農民運動のさきがけと称される「義挙団」(注2)が飽海郡の各村で小作料軽減要求の演説会を開いており、12月には、「陸羽横断鉄道(1917(大正7)年に「陸羽西線」と命名)」の新庄、酒田間が完成し、「酒田駅」が落成した年でした。
 封書に貼付されていた「菊切手」は、切手の中央に菊のご紋章が大きく入ったデザインで、「さくら日本切手カタログ」を見ると、金種は、5厘、1銭,1.5銭、2銭、3銭、4銭、5銭、6銭、8銭、10銭、15銭、20銭、50銭と多岐にわたり、その色彩も灰、赤茶、灰味青、にぶい紫、にぶい黄緑、暗い赤紫、赤など17色にも及んでいますが、なんといってもこの切手については偽造事件があったことでマニアの間では有名な切手のようです。
 この偽造事件というのは1913(大正2)年9月、横浜元町郵便局員が封筒に貼られた10銭切手に局員が違和感を覚え、直ちに局から逓信省へ、逓信省から警察へと連絡が行き、警察が捜査した結果、切手販売店がすぐ突き止められ、主犯格の人物のほか、切手売捌総代人、共犯の写真師、印刷業者などの犯罪関係者全員が逮捕されたものです。そして、約1万円分の10銭及び20銭切手が押収され処分されたのですが、この事件にショックを受けた逓信省は、以後の偽造防止対策として、第1に切手用紙に透かしを入れ、第2の措置として用紙に着色繊維を入れることにしたのです。
(注1) 当時日本海軍は、ドイツの「シーメンス社」から軍需品を購入していたのですが、このシーメンス社による日本海軍高官への贈賄事件のことです。イギリスの重工業メーカー「ブィッカース社」への巡洋艦・金剛発注にまつわる贈賄も絡んで当時の政界を巻き込む重大事件に発展し、大正3年3月には、海軍の長老、山本権兵衛を首班とする第1次山本権兵衛内閣を総辞職に追い込みました。
(注2) 当時凶作と耕地整理により小作民は増歩地(実際の面積を「縄伸び」と称して小さく測るので、これと実際の面積との間に面積差が生じ、これを「増歩地」と称して、小作人が得をしていたものです。)が無くなったのに、小作農民達は以前より小作料を多くとられ、1町歩を小作するのに年間3石3升の損米を生じる結果となりました。このような状況下、飽海郡10万の小作民は借金が多くなり、自殺や娘の身売りなど、塗炭の苦しみを負う羽目に落ちいりました。この惨状を見るに見かねた漆曾根村(現酒田市)の渡部平治郎が「義挙団」を組織し自ら団長となり、小作料引き下げを地主に要求しました。その回数は120数回に及び大正6年春までにはほとんど解決しましたが、この「義挙団」は山形県かにおける小作争議のさきがけとなったのです。
 さて、頂いた古い手紙類については、古物商などから求める場合が多く、普通一般的には、封書の中身が存在しないのが多いのだそうですが、この封書には、横長の和紙に筆で書いた文面が残っておりましたので、その内容を要約してみると次のようになります。
@鶴岡は相当雪が降っていますが、お祖父さんは元気ですか、自分も元気で勉強しています。
A学校も学期末を迎えなにかと忙しくなりました。
B校舎周辺は一面雪なので、なにもすることもなく、体育の授業での雪合戦、スキーなどは大変面白いです。
C南遊佐では旧正月の行事を終えましたか。
Dこの頃写真を2枚撮りました。1枚は友人と一緒に、他の1枚は自分のみです。
E写真2組で1円になるので、20日ごろまで送金してください。
 以上のように時候の挨拶、学校での様子などが述べられておりますが、おじいさんへの写真代金1円の無心がこの手紙の最大の目的であったことがわかります。
 この写真代金は、現在の価格に比較してどうなるのか、一概には言えないかと思いますが、次のように単純に考察してみました。
 インターネットで検索してみると、大正3年当時の米10キログラムの価格は1.08円、大正6年当時のコンサイス英和辞典の価格が1.3円、齋藤さんの封書用切手が3銭とありますので、これを現在の価格と比較して見ると,米が「はえぬき」で約3,000円(2,800倍)、切手が82円(2,733倍)、)、英和辞典が約3,200円(2,460倍)ですから、これらの平均的値である2,600倍前後が現在の価格とみていいかもしれません。従って、写真代1円は、現在の物価にすると四つ切サイズ1枚で1,300円から1,500円ぐらいの間になるのではないかと思います。
 次に、私が鶴岡の写真館で思い出すのは、鶴岡駅前を背に直進し、右折して「山王通り商店街」に入ってすぐのところに、レトロな風貌を残している「寛明堂写真館」があったことです(先日確認したところ現在も健在でした。)。日枝神社、いわゆる「お山王はん」の前といったほうがわかりやすいかもしれません。この「寛明堂写真館」は、1873(明治6)年、旧庄内藩士であった加藤正寛が、東京で写真技術を学び、帰鶴後、「長山小路」(現鳥居町)に写真館を開業したのが始まりといいます。その後、低地であった長山小路が度々水害に見舞われたため、大正時代に現在地に移転したそうですが、建物に向かって右手の2階建ての建物は、大正9年の建築、左側の鉄筋コンクリート3階建ての増築建物は、昭和9年の建築で、荒武祐幸という人の設計です。山王通りでは、「大泉橋(メガネ橋)」の袂にあった「紅繁洋品店」(現在は、「カジュアルショップ・ギンヨー827」となっていました。)も同人が昭和6年ごろに設計した建築で、この建物もこの界隈では非常に目立つ建築物です。
 齋藤良蔵さんが写真を撮影してもらった写真館は手紙の文面からは把握できませんが、この「寛明堂写真館」だったのでしょうか、それとも鶴岡公園北角に「阿部写真館」がありますので、大正の初期にこの写真館が存在していたとすれば、ここで撮ったのかもしれません。
 平成23年6月の『同窓会名簿』によると齋藤良蔵さんは、大正7年3月の卒業生の欄に名前が記載されてありますから、従って、中学入学は大正2年4月1日入学となり、手紙を出したときは1学年の3学期ということになります。ただ、当該同窓会名簿では、残念ながら齋藤さんは既に鬼籍に入っておられ、中学卒業後の進路、就職先等、卒業後どのような足跡を残されたものかを知ることは叶いませんでした。
 当時の鉄道事情を調べてみると、大正3年12月に、現在の陸羽西線「酒田駅」が落成、陸羽西線余目駅と羽越線の「鶴岡駅(仮駅)」との間の開通が1981(大正7)年9月21日、鶴岡駅の仮駅が現在の場所に移転して落成したのが1919(大正9)年7月6日ですから、齋藤さんの在学中、実家がある現在の羽越本線「南鳥海駅」から「鶴岡駅」まで通学することは不可能でした。
 母校は、1877(明治10)年12月10日、「鶴岡変速中学校」として開校し、1880(明治13)年1月、「西田川郡中学校」と改称したものの、1886(明治19)年には、中学校が一県一校に限られることとなったため廃校のやむなきに至りました。しかし、その後、1888(明治21)年7月1日に至って、東・西田川郡吏及び有志の努力によって「荘内私立中学校」として再生し、1893(明治26)年5月25日には県立中学校と同等の資格を得て「荘内中学校」となったことは周知の事実であります。
 当時「荘内中学校」は、東西田川郡に飽海郡を加えた庄内地域唯一の中学校でしたから飽海郡からの入学者もおり、『山形県立鶴岡南高等学校百年史』(平成6年4月20日、山形県立鶴岡南高等学校鶴翔同窓会発行)によれば、明治26年ごろから飽海郡からの入学者が俄に多くなり(全入学者の20パーセント前後を占めていました。)、1899(明治32)年8月には、木造2階建ての「寄宿舎」が1棟建設されたとあります。勿論、東西田川郡内でも通学に不都合な遠方からの入学者が少なからずあったため、次いで33年8月には増築が行われ、35年には舎監事務室も出来ています。齋藤さんの封書には、前述のとおり差出人住所がなく「庄内中学校寄宿舎」とありますので、齋藤さんは当時の交通事情により寄宿舎生活を送らざるを得なかったわけです。
 ところで、先日「鶴翔同窓会会員名簿」(平成26年6月)を開いたところ「歴代の校歌・寮歌」というページがあり、ここに「荘内中学校寄宿舎鳴鶴寮歌」の歌詞が紹介してありましたので、ここに書き写してみます。
 荘内中学校寄宿舎鳴鶴寮歌(作詞、作曲者の記載はない。)
  1 朝に仰ぐ鳥海の     山は銀蛇(※1)の雲を呼び
           夕にのぞむ赤川の   波は金流(※2)たゞよわす
                    高き姿と清きかげ      我等が理想示すなり
  2 湧きて涸れざる勇気もて 鉄脚きそうフットボール
                至誠自らあざむかぬ  徳こそ磨け自由店(※3)
                     この徳この気つなぎゆく   鳴鶴寮に命あり
 ※1 ぎんだ;白い光、波などの長くうねうねとうねり輝く状態のこと。
 ※2 こんりゅう;清流。特に釈迦が悟りを開いたブッタ・ガルに近いナイランジャナール川のこと。
 ※3 じゆうてん(だな);「自由」は、自主独立の心意気を示し、「店」は、宿屋あるいは借家の意味を持つところから、「自主独立の意気に燃える鳴鶴寮」を指していると思われる。
 更に、『山形県立鶴岡南高等学校百年史』の第二節「(荘内中学校)校歌の制定と当時の思い出」のところに、明治42年卒業の三浦斧吉さんが「母校の創立80周年を記念し」と題して「荘中入学、寄宿舎生活に関する」一文を寄せていますが、その中に次のような件があり、上記の寮歌のほかにも寮歌があったようです。
 2 荘中入学
 「明治38年ごろ遊佐町出身の伊藤弁之助(元海軍中佐)及佐々木麟之助(醸造家)の二人とともに十里の道を草履がけで鶴岡に参り、右荘中の入学試験を受けたが幸いに及第、入学、寄宿舎に入り又三人共一緒に荘中を卒業した。
 3 寄宿舎生活
 寄宿舎では食事の時納豆でも出ると伊原等が大将になって賄征伐(※4)をやったことが面白かった。夕食が済んでから伊原の掛け声でフットボールをやり7時からミッチリ10時迄勉強したものである。今でも左の寮歌を散歩中口ずさんでいる。
    ナポレオン潜むか南寮に    ニュートン籠るか北寮に
           姿気高き鳥海山 流れて清き最上川
(以下省略)
 ※4 まかないせいばつ;寮生が食事を調理する人に対して起こす騒動のことで、例えば、用意されたご飯を全部食べてもっと寄こせと言ってみたり、夕食時に納豆では飯は食えないなどとテーブルを叩いたりして騒いだりすること。
 齋藤さんが荘内中学校を卒業した2年後の1920(大正9)年4月1日、現在の県立酒田東高校が庄内における2番目の中学校として開校したため、以後、飽海郡の多くの方々は酒田中学校に入校するようになりました。従って寄宿舎を利用する生徒も激減したので、大正11年には2棟あった寄宿舎のうち1棟を鶴岡高等女学校に移築しています。また、昭和6年に至っては、寄宿舎の2階を教室に改造(教室3室)することに決定し、翌7年3月31日で寄宿舎は廃止となり、2階を教室に1階を部室に改造したほか、炊事場その他の場所は作業教育に利用されることになりました。なお、この辺の事情とか当時の寮生の生活等に関しては、『山形県立鶴岡南高等学校百年史』に「寄宿舎の変遷と寮生活」として詳しく述べてあります。
2016年12月09日