三川町東郷地区の「改正丈量大成図屏風及び奉納扁額(絵馬)」(2〜1)

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
三川町東郷地区の「改正丈量大成図屏風及び奉納扁額(絵馬)」(2〜1)
≪はじめに≫
 2014年(平成26)2月の初旬、同期の庄司英樹さんから『大泉史苑(たいせんしえん)第2号』(昭和56年10月24日、庄内古文書研究会編集発行)の表紙カバーの絵が、彼が以前ホームページに投稿した(注1)「地租改正の測量絵図」の掛軸(鶴岡市面野山の齊藤八郎兵衛家所蔵)とそっくりであり、また、この絵の筆者が私の母方の曽祖父である星川清晃であるとの知らせがありました。
 この知らせを受けて私は、早速山形県立図書館に行って『大泉史苑第2号』を閲覧してきたのですが、本文59ページには「表紙カバーについて」と題して次のような解説がありました。
 この絵は三川町青山佐藤粂太郎氏所有の屏風に描かれた土地丈量の実況で、出羽三山宮司星川清晃の筆である。
 清晃は国学者鈴木重胤の門人で明治9年に出羽三山の宮司になった。絵に秀で、狩野了斎に学んで了雪斎と号した。佐藤家は産土神青山神社の役職を務め、現在その東に居住。
 明治7年から数年かかって荘内一円に、地租改正に伴う丈量(検地と測量)が施行され完成した。国旗を掲げて総勢19人。奉行者は粂太郎の四代の祖善之助(明治15年没54歳)で中央の床几に腰を掛け、そばに2人の小役係がいる。算用掛は小川喜市・五十嵐幸太の2人、記録係土田長太、そのほか旗持1、杭削り1、杭運び1、縄張2、竿持8である。
 赤川の蛾眉橋(注2)が明治12年に完成したので、この絵はその頃のものと考えられる。地域住民の強い願いによったことは「青山邑地方(じかた)改正丈量大成図応レ需(求めに応じ)了雪斎画レ之」の奥識に伺われる。当時の心境を詠じた阿部快哉氏(三川町三本木阿部彦左衛門)の漢詩をあげる(カッコ内は筆者注記)。
  朝に衣装を整へて水浜(すいひん:水のほとり)を渡り
  (夕べ)に国旆(こくはい:国旗)を収めて氷輪(月の別名)を掛る
  山林田畝(たんぽ:田畑)丈量(測量)定まり
  万戸同じく欣ぶ王政改まるを(「題田圃丈量図」)
 東郷地区(注3)に、丈量の絵はそのほか、青山神社に阿部鶴峯(三川町三本木)の額があり、門前の清青領寺に円潭の額がある。同一地区に3も算えられることは珍しく、当時画家に恵まれていたことでもあるが、地区民の淳風が伺われる。(菅原謙二記)
 解説文にある星川清晃は私の母方の曽祖父に当たる人物であり、また、法華宗清領寺にある奉納扁額(絵馬)は、庄司英樹さんの実家にある地租改正測量絵図の掛軸と同じ市原円潭の筆によるものであることから、二人でこれら3点の絵図が現存するものであるかを現地で是非確認しようということになり、当初は5月の下旬を目途に計画を立てたのですが、田植えや地区の神社の春季祭礼など、所有者の都合等もあって結局6月2日に実施することになりました。そこで、事前に文献調査によりこれ等3点のものが実在することを確認しておき、実施に当たっては、山形市文化財保護委員、村山民俗学会会長、更に、山形県立博物館民俗部門専門嘱託の野口一雄先生にご一緒していただき、同期の黒田藤一さんを加えての4名で現地訪問をすることにしたものです。
(注1)庄司さんの投稿は、2009年(平成21)8月21日になされたものです。
(注2)橋名の由来について、『三川町史 下巻』(平成22年3月31日、三川町編集・発行)は「形は太鼓の胴のような急ではない丸みが二つあって、その丸みの間には踊場がついていた。横から見ると、美人の眉毛に似ているので、蛾媚橋と名つけた」と述べています。初代の橋は明治6年9月に落成していますが、明治12年7月の洪水で大破したため、2代目の橋は、橋南35間新規継足のうえ明治12年9月に供用を開始しています。よって、当該屏風に描かれている橋は2代目の橋ということになります。
 なお、盛唐期の詩人、李白の作品に「蛾媚山月歌」という抒情詩がありますが、ここでも「蛾媚」は、「女性の美しく化粧した眉である」としています。
蛾媚山月歌  李白
   蛾媚山月半輪秋(蛾媚山には半月が出ている秋の宵)
         影入平羌江水流(へいきゅうこう)水流(月影は平羌江に沈んで、江水は流れる)       
   夜発清渓向三峡(夜に清渓の駅を発って、三峡に向かう)
         思君不見下渝州(ゆしゅう)(貴女を思うが、会わないで渝州に下ってゆく)
 (注3)町の中央を流れる赤川を軸として東部地区を「横山・押切地区」と言い、西部地区を「東郷地区」と言います。

≪三川町東郷地区の改正丈量大成図屏風及び奉納扁額(絵馬)の確認≫
 確認してきた作品は、何れも描かれてから110余年の歳月を経ているにもかかわらず、岩絵具によって多色で描かれた当時の状態が良好に保たれておりました。特に特徴的なことは,測量にあたって、これを実施した人々の名が、屏風絵、奉納扁額(絵馬)とも実名で記入されており、これには大変驚きました。このように測量をしている人物の一人一人の名が記入されているということは、この屏風や奉納扁額(絵馬)の作成を依頼した人々の測量に対する強い意気込みを感じさせるものです。また、屏風の絵からは、当時の人々の服装や子供の遊び、民家と屋敷林、道路や河川の位置関係、鳥海山や月山のように背景となる山岳などもはっきりと確認出来ました。
 図書類及び現地で確認してきた結果を表に纏めると次のようになります。
改正丈量大成図屏風 所有者(住所) 佐藤哲也(〒997-1311三川町大字青山131)
筆   者 星川清晃(ほしかわ きよあきら)
縦×横(cm) 181.8×363.6
作年月日等 ◆明治12年に完成した赤川の蛾眉橋と思われる橋が描かれているので、明治12年頃の作と考えられている。
◆屏風の右下に「青山邑地方(じかた)改正丈量大成図応需了雪斎画之」(青山村の方々の求めに応じて改正丈量大成図を了雪斎が描いた)との奥書がある。
◆『大泉史苑第2号』(昭和56年10月24日)の「表紙カバーの絵について『図説 庄内の歴史』(監修:前田光彦>2000年12月20日発行、(株)郷土出版社)、『三川町史 下巻』(平成22年3月31日、三川町編集・発行)で>紹介されている。
◆構図、色彩がすばらしく、当時の屋敷林や風俗、農村環境が伺えるところから、昭和57年11月1日に三川町の文化財(番号28)として指定された。
◆慶事の際に飾られるとのこと。
地租改正測量図奉納扁>(絵馬) 所有者(住所) 青山神社(西塔晋司宮司・〒997-1311三川町大字青山字筬元40)
筆    者 阿部鶴峯(あべ かくほう)
縦×横(cm) 122.0×89.0
作年月日等 ◆額右上に「明治10年辛丑8月吉祥日」、下に「志願成就、定量人佐藤善之助、同五十嵐幸太、村長土田長太、同小川喜市とある他、長人・世話人名など9名の名前が連記されており、当時の青山村の測量関係者が地域の産土神(注)である青山神社に奉納したものであることが分かる。
◆『大泉史苑第2号』の「表紙カバーの絵について」、山形県立博物館特別展図禄『絵馬にみるなりわいと祭り』(昭和61年6月)『三川町史 下巻』で紹介されている。
◆文翔館の「記念碑の回廊」の間に「地租改正絵馬(模型)」としてA3版程度の大きさのものが展示してある。
(注) 産土神(うぶすながみ)とは、土(すな)を生みだす神、大地をはじめ万物を生みだす神のことである。
改正検査之図奉納扁額(絵馬) 所有者(住所) 忠武山清領寺(佐藤匡一住職(注1)・〒997-1313 三川町大字角田二口丁54)
(注1)鶴岡市大山三丁目3番16号の「道林寺」に常駐されている。
筆    者 市原円潭(いちはら えんたん)
縦×横(cm) 63.0×96.0
作年月日等 ◆裏面に明治13歳(年)庚申10月、「応需画之於于大淀川大隆山浮木叟円潭(注2(時)64歳」(浮木叟円潭が64歳の時、大淀川大隆山(淀川寺)で求めに応じて之を画いた。)との裏書きがあるので、地域住民が円潭に画いてもらって清領寺に奉納したものと考えられる。
◆『図説 庄内の歴史』(監修:前田光彦、2000年12月20日発行、(株)郷土出版社)に掲載されているが、説明が青山神社所有の地租改正測量図奉納扁額(絵馬)のものになっており、これは誤りである。
(注2)「浮木叟(ふぼくそう)円潭」とは、「水の上に浮いている木片のような年寄の円潭ですよ」との意味で自分を謙遜した表現である。
◆『大泉史苑第2号』(昭和56年10月24日)の「表紙カバーの絵について」で紹介されている。
◆鶴岡市面野山、齊藤八郎兵衛家所蔵の掛軸の筆者でもある。
写真は以下に掲げるとおりです。画像をクリックすると拡大します
≪地租改正丈量の意図≫
 上記の屏風や奉納扁額(絵馬)に描かれた「地租改正丈量」とはどのような意図でなされたものなのか、最初にその動きについて纏めてみます。
≪地租改正丈量の意図≫
 上記の屏風や奉納扁額(絵馬)に描かれた「地租改正丈量」とはどのような意図でなされたものなのか、最初にその動きについて纏めてみます。
 明治政府は、その財政基盤確立のために、土地制度の変革を行い、近世を通じて事実上成立を見ていた農民的土地所有を法認して地券を交付し、それに金納定額地租を課するようになりましたが、それまでの一連の過程が「地租改正」と呼ばれるものでした。そして地租改正そのものは1873年(明治6)7月の「地租改正条例」の制定に始まりますが、その前史としては次のような動きがあったのです。
 1871年(明治4)廃藩置県が断行され、国家の中央集権化が一気に進みましたが、これを機に政府は税制と土地制度の改革に着手しました。同年「田畑勝手作の許可」により田畑で作る作物の制限を撤廃し、同年8月,貢も「石代納」により年貢(税)も米ではなく貨幣で納めることを奨励しました。翌1872年(明治5)には「田畑勝手作の許可」により土地の売買を許可し、同年には年貢負担者を土地所有者と認定して地価を記した地券を発行しました(壬申地券)。これにより土地所有者が税を負担することになり、土地は資本と化したのです。ただし、所有者が不明確な村落の共有地(入会地)は国有地に編入され、政府に大きな利益を充てました。
 以上のような準備段階を経て1873年(明治6)、政府は「地租改正」を敢行します。地価の3パーセントを地租として、土地所有者に納入を義務付けたのですが、税率は収穫の豊凶に関わらず一定とし、納入方法は金納としました。しかし、税の負担率はかっての年貢と変わらず、かえって重くなった地域さえありました。政府は将来的に地租を1パーセントとすると約束したのですが、これまで黙認されてきた隠し田にも課税されたため、農民は新税制に強い不満を抱き、全国で地租改正一揆が頻発しましたが、特に1876年(明治9)に発生した三重県の一揆(伊勢暴動)や茨城県の一揆(那珂暴動)はその規模が大きく、不平士族の反乱と結びつくことを恐れた政府は、地租を3パーセントから2.5パーセントに引き下げることにしたのです。
≪酒田県・鶴岡県、山形県における地租改正作業とその成果≫
 第2次酒田県の地租改正は、参事松平親懐(まつだいら ちかひろ)、権参事菅実秀(すげ ひでざね)の画策で大幅に遅れました。しかもその過程で石代納を認めず、従前の全額物納制度を維持しようとしたため「ワッパ騒動」が起こり、地租改正作業はさらに遅れを増しました。
 1873年(明治6)3月、酒田県は「地検帳」を土台に「地検調査」に着手したのですが、農民が年貢類米納と地検調査費(高1石に付米2升7合)の徴収に反対し、更に、同年末には「ワッパ騒動」が勃発してしまったために第2次酒田県は、翌1875年(明治7)3月に至って地券の調査も中止してしまいました。
 酒田県が本格的に地租改正作業に着手したのは、1874年(明治7)12月、三島通庸が県令として赴任し(注)、松平・菅らを罷免してからで、1875年(明治8)8月4日、その実施を各区長・戸長宛てに命じます。
 その直後の8月31日、第2次酒田県は鶴岡県と改名しますが、9月18日、三島は1876年(明治9)中に「地租改正」を完了することを宣言して、その為の調査を強行しました。
 1876年(明治9)8月21日、現山形県が成立しますが、遅れていた旧鶴岡県の地租改正は統一山形県に引き継がれ、同年度の税の徴収は一応新地租を持って行われましたが、新地券は1878年(明治11)9月になってやっと交付される始末でした。
 ただ、明治8年(1875)9月に庄内町福島(旧余目町)の皇大神社に奉納された「地租改正測量図絵馬」には「地租改正に就實地丈量圖」とあるので、福島地区は庄内地方でも最も早く地租改正の為の測量を始めた所だと思われます。
 「地租改正」は山林原野でも進められましたが、そこでは、私的使用者の法認が行われた田畑・宅地と異なり、官民有区分を実施されることにより国有林の設定が意図されていました。その結果、現山形県の林野面積のうち、国有林は53パーセントを占め、全国平均の44パーセントを上回ったのです。因みに地域別に見ますと、最上が72パーセントと最も高く、庄内61パーセント、村山48パーセント、置賜が30パーセントと最も低い数字となっています(『山形県の百年』(岩本由輝著、1955年8月30日発行)参照)。
(注)文翔館の「回廊の間」には、次のような辞令書(写し)が展示されています。なお、この時、三島通庸は教部省大丞と兼職のままでしが、三島が酒田県令として赴任した目的は、@ワッパ事件の最終的鎮圧、A鹿児島の私学校の士族たちが蜂起した場合、酒田県の旧藩勢力が呼応するのを未然に防ぐこと、B酒田県士族の封建的特権の解体でした。また、辞令書の本県下以下の文言は、「ワッパ騒動を取り調べ、報告して処分の伺いを立てるよう」太政大臣・三条実美が指示したものです(『庄内ワッパ事件(佐藤昌明)参照)。
                                 酒田県令三島通庸
     本県下、人民沸騰之件ニ付テハ 兼テ県官へ御委任之次第モ有之候条
     赴任之上、処分方、取調べ可伺出事※
          明治7年12月5日
                                           太政大臣三条実美

 『大地動くー蘇る農魂』(2010年9月18日、ワッパ騒動義民顕彰会編著、東北出版企画)には三島県令の事業の進め方とその成果について63ページで次のように記述しています。
 ワッパ騒動で着手の遅れた三島県令は8年(1875)8月地租改正事業の準備、着手を通達し、9月から三島自身県官ら20名を従え管内各村を巡視した。そこでは「ワッパ騒動指導農民』らを呼び出して叱責、威圧を加え、村長ら村民に県官への服従、「地租改正事業」への準備、着手を厳命し、その状況から≪鬼県令≫といわれた。
それでも、改正作業の土地実測などの着手に当たって、ワッパ騒動農民の“抵抗”に懲りた三島県令は、各村で土地調査等の雇人による費用負担、会計処理について後日紛争問題にならないよう村長らのみの印でなく、一村毎の村民連印による「願書・請書」などを提出させた。また、≪官員・雇人に出張中宿所で酒肴などを出さないよう徹底させる≫ことを各戸長・村長に通達した。
 各村では、新村長・惣代・世話人らも一般村民の意を受けて、「土地実測」「収穫米調書」「土地柄」「村柄調査」「地価算定」などの作業のなかで、地租改正掛官・県官・戸長らに要望を出し、抵抗しながら新しい「土地税制改正事業」に協力した。
 改正事業費は、全額農民負担であり、鶴岡県(明治8年8月末以降)では、≪事業費見積として当面高1石に付5銭ずつ課出する≫ことを戸長に指示した。
 12月21日一小区(旧温海・鼠ケ関組)では小波渡村15円、温海村70円、鼠ケ関村95円など、計570円60銭の取り立てを県令に願い出た。また、同日、一小区村長惣代・粕谷増蔵、佐々木蔵右衛門らは、地租改正局御用掛官らが11月14日湯村に泊まった旅籠銭2円68銭余を≪各村ニ割当候テハ難渋二御座候ニ付当分拝借仕候≫とし、各村へ割当支払いの保留、拒否を戸長に申出ている。
 2年前の松平県政下の「地券調入費会計」では、県官・戸長・肝煎村役人らの酒肴料など全額農民負担となり「騒動」の要因になったのと比べ、”雲泥の差”であり、新村長らの下で村民・村に“新風”が起こっていた。
 地租改正事業費の取立・支払いは、各村で石高割・戸数割半々、全額反別割など種々であるが、その会計処理は村中の連印の承認の下、公正であり,“不名義課出”などない会計報告がなされている。(中略)
 全田畑等の測量は大事業であり、大山村1反歩約20銭、長沼村25銭の負担であるが、改正後の大幅減税もあり、庄内での「地租改正事業」はほぼ順調に実施完了した。
 さて、改正事業は政府・三島県政が強力に推進・実施し、農民は協力させられた事業であり、特に期限が明治9年1876)秋完了、9年末新税の「地租納入」となるなかで、三島県令も事業完成を急ぎ、農民らの要求の「減税」や会計の“公正運営”に応じ、妥協した結果、庄内は全国でも珍しい“大幅減税”となった。
 庄内全域(市街地含む)で旧税の10.6パーセント減、うち郷村部は13.7パーセント減、特に旧藩領14.9パーセント減となった一方、大山などの旧天領は逆に6.3パーセント増となった。全国では10パーセント以上の大幅減税は山口・高知県など西日本に多く、大幅増税は岩手・埼玉など東日本に多い。地域別では東北区が3.5パーセント増、関東中部区4.6パーセント増、近畿区7.2減となっており、庄内の大幅減税は“異例”であった。

 なお、明治9年(1876)8月中旬から1ヶ月間、国・県係官の田畑の収穫量調査が行われましたが、その要点を『図説 鶴岡のあゆみ』(鶴岡市市史編纂会編集、鶴岡市2011年3月31日発行)を参照して纏めると次のようになります。
 地租改正に当たっての最も重要なことは地価の算定ですが、これは、まず、土地の収穫量を定め、これに平均米価(明治3年から5年までの平均)を掛けて収益金を算出し、これから肥料代,種籾代、損費を差し引いた純益に、利回り(自作6分、小作4分)を見て出すもので、これには労働賃金等を考慮しない不合理はあったものの、当時は一応理にかなったものであったようです。この収穫量調査に当たって県は、出張先に1日数か村の村長や有力農民を召集し、各村の実地調査を行わず、県の指示により収穫量を決定したのです。すなわち明治初年頃の実質収穫量より10〜20パーセントほど低く見積もられ、県は農民に大幅な妥協を図ったのです。そして県はこの収穫米の基準価格を1石3円10銭と定め地価金と地租金の算出を指示し、その結果、新反別・新収穫量に合わせた地価金と地租が算定され、1876年(明治9)10月、各村では村地価総計帳を作成し、地主惣代・村長・戸長・区長連名で三島県令に対して一番遅れて提出したのです

 ところで、地租改正に当たって公布された『地方官心得』は、地価算定に当たっては、@競争による売買価格、A小作料から地租・村入費を差引した収益を地価(資本)に対する利息収入とみなし、利率から逆に算定した額、B自作農地における収穫から種子代・肥料代・地租・村入費を差引した収益を地価(資本)に対する利息収入とみなし、利率から逆に算定した額の3種類の基準を示しましたが、現実の実施過程においてはBが選択されました。
 Aの小作料にのみ適用の数式は、地価(Y)、収穫量(X)として、
    Y={0.68×(小作料)−(0.03Y (地租)+0.01Y(村入費))}÷0.04
 Bの自作農地に適用の数式は、地価(Y)、収穫量(X)として、
    Y={X(年収穫量)−0.15X(肥料代)−(0.03Y(地租)+0.01Y(村入費))}÷0.06(この場合、労賃は無視された。)
 上記@およびAを整理すると、Y=8.5Xとなるが、これは、農民の年収穫量の8.5年分を地価として定め、これの3パーセント(後に2.5パーセントに下げる。)を地租として国に納めさせようとしたもので、租税額は村入費を入れると、8.5×0.04=0.34となり、この数字は当局が旧租負担を平均で「4公6民」程度とみて、これを継承しようとしたことから考案されたものであろうといわれています(以上『図説尼崎の歴史・地租改正』(地域研究資料館))。
 実際に地価を計算する際の簡便式は次のようなものでした。
   X=(反当り収穫量×3か年の平均米価)―(反当り収穫量×3か年の平均米価)―種籾代・肥料代合計(15パーセント)〕
   Y=X/地租(3パーセント)+村入費(1パーセント)+利子歩合(6パーセント)
 『やまがたの歴史』(昭和55年、山形市)によると、明治7年における山形県(中区域)の平均収穫量は、田1反歩当たり米1石3斗4升8合1勺、3日年平均の米価は、2円72銭(全国平均は3円)、地租率は5.8パーセント(全国的には6パーセント採用)であったので、これを用いて収穫量(X)と地価(Y)を求めてみると次のようになります。
  X=1.3481×2.72−(1.348×2.72)×0.15=3.666832−(3.666832×0.15)
  =3.666832−0.5500248
  =3.1168072(3円11銭70厘)
  Y=3.1170/(0.03+0.01+0.058)=3.1170/0.098
  =31.8061(31円80銭61厘)
 以上となりますが、庄内地域における地価の算定は、これより10〜20パーセント低い反>で見積もられたことになります。
 しかし、全国的には、このような地価額や面積当たりの収穫量が実情とかけ離れており、これを受け入れ難いとする村々は府県に対して地価減額の嘆願書を提出するのですが、ほとんどが叶わず、全国的に激しい抵抗運動が起きました。中でも、死者35人、負傷者48人、死刑1人、終身懲役刑3人を含む5万773人の処分者を出した明治9年12月の「伊勢騒動」や死刑3人を含む1,091人の処分者を出した明治9年11月の茨城県の「真壁騒動」などが有名です。
 山形県においても地域によって、また立地条件によって、地元民の不平不満、あるいは金銭出納に対する不安・恐怖から地租改正を忌避し、その結果、農耕農民の中には土地所有さえ忌避するような傾向が生じ、富裕層や土豪や商人に土地を買ってもらい旧来の年貢米納に満足するものが続出し、土地所有の集中化や地主化と小作農の増加となり、農民層の分解現象が起きました。
 山間地域の低産地では土地評価の基準が不公平だとして、県に対して集団訴訟を起こし、北村山地方では、一種の一揆状態に発展したところもあったようです(『やまがたの歴史』(昭和55年、山形市))
 以上のような農民の一揆や明治10年の西南戦争など、この前後の不平士族の反乱と相まって、政権を揺るがす深刻な事態が生じ、時のリーダー大久保利通は、地租改正がうまく進捗していないことに焦りを覚え、「真壁騒動」が勃発した時点で減租を提案することにしていたそうですが、この騒動がすぐに鎮圧できたことから、これを撤回したそうです。しかし、「伊勢騒動」が勃発したことにより、明治10年1月4日に至って政府は遂に太政官布告をもって地租を3パーセントから2.5パーセントに引き下げました。関連して村入費も減租され、地租に関する問題も徐々に終息に向かいました。
 なお、大久保利通は、明治11年5月14日、宮中の元老院会議に出席するため、裏霞が関三年町の自宅を二頭立ての護衛なしの馬車で出発し、現在の東京都千代田区紀尾井町清水谷公園に差し掛かったところで、石川県士族5人と島根県士族1人の計6人によって暗殺されてしまいました。

(注) 本稿は、『ワッパ騒動義民顕彰会誌・第3号』(ワッパ騒動義民顕彰会、2015年9月)に投稿したものに、地租改正に当たって公布された『地方官心得』などを加筆したものです。
2017年1月26日