会員必読の書・『茨木のり子への恋文』について

    
64回(昭和32年卒) 渡部  功
 
会員必読の書・『茨木のり子への恋文』について
 2013(平成25)年4月4日、私は『ラジオ深夜便・明日へのことば〜詩人・茨木のり子の遺した愛のかたみ〜』と題する一文を当該ホームページに投稿しましたが、私と高校同期の戸村昌也さんの奥さんである雅子さんが、既にご案内のこととは存じますが、昨年12月23日に写真で示した46版、280頁の『茨木のり子への恋文』という美しい本を出版されました。
 著者の雅子さんは山形県北村山郡大石田町横山の浄土真宗の古刹の生まれですが、大石田町は古くは最上川最大の港として栄え、江戸時代には、町の旦那衆が芭蕉を招き、太平洋戦争終戦前後には歌人斎藤茂吉や洋画家金山平三の逗留を客人として歓待したように文人墨客の来町を誇りにしている町であります。この町で育った雅子さんは山形県立山形西高等学校に進み、同志社大学文学部で国文学を専攻し、卒業後は山形県立高等学校の国語科教諭となって、最初に県立鶴岡北高等学校に赴任しました(同窓会名簿を開いてみたところ、雅子さんは1987(昭和62)年4月から6年間、母校の教壇にも立っていました。)。そこで著者は、教科書に載っていた茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」に出会うのです。これが茨木さんの詩に触れた最初であり、以来教育現場で働くときめきを感じつつ、一方では些細なことで打ちのめされるという、そんな繰り返しの中で、茨木さんの詩が自分の希望となり少しずつ惹かれていったといいます。
 25歳の時、同業の戸村昌也さんと結婚することになって鶴岡の人となるのですが、昭和47年には「家庭文庫」を開設し、平成2年頃から茨木さんの詩の研究を始め、当の本人を訪ねた平成10年以降交流を深めることとなり、平成14年に教職を退いた後は、黒羽根洋司さん(72回、昭和40年)が代表を務める「茨木のり子六月の会」事務局長、「子どもの読書を支える会代表兼事務局長などを務め、鶴岡の文化の振興・発展のために大いに尽力されているところであります。
 茨木のり子(三浦(宮崎))さんについての私たちが持つ印象は、強いて言えば「大阪府生まれの愛知県育ち」との固定的なものですが、実は私たちの故郷、庄内とは切っても切れない縁のある人であるということがわかりました。つまり、母親の宮崎(大瀧)勝さんが三川町東沼の出で、夫の安信さんが鶴岡の三浦家の出身であるところから、茨木さんは幼いころから幾度となく庄内を訪れていたのです。著書の中で雅子さんは『母のくにの言葉が私は好きで、自分の育った三河弁よりもはるかに好きで、いつまでも味方のつもりでいるのだが(エッセー「東北弁」)。庄内弁は茨木にとって母語である。』と述べていますが、私はこのことを知って本当に驚きました。
 茨木さんの詩と出会うまで特に詩が好きだったわけではなかったと言う著者も、茨木さんが庄内と所縁の深い人と分かってからというもの、次第に茨木さんの詩に傾倒してゆき、茨木さん所縁の人々を訪ね歩いて丁寧に取材を重ね、庄内地方から茨木さんの詩と人物を読むとともに、庄内の風土が茨木さんの作風に与えた影響を探ることを念頭に置いたようです。結果、「全国区である茨木のり子さんを庄内という地方区に閉じ込めてしまったのでは」と心配した向きがあったようですが、反面、「思い切り茨木のり子さんを庄内に引き寄せてその詩を読んでみたい」との思いの方が勝ったのでしょう、脱稿後は「自分としてはこれでよかった。ゆっくりしている」との感想をお持ちのようです。
 平成18年に茨木のり子さんは亡くなり、その遺骨は医師であった夫安信さんが眠る鶴岡市加茂の浄土真宗本願寺派西栄山浄禅寺に葬られたのですが、この庄内所縁の詩人への恋慕の情に駆られ、庄内から彼女の詩をその背景となる時代、社会情勢を絡めつつ考察したのが本書です。
 短いセンテンスの積み重ねによってリズミカルに文章が展開されている点はこの本を非常に読みやすくしています。また、茨木さん宅を4回も訪問し、茨木さん所縁の人々への丁寧な取材がなされていること、そして随所に茨木さんの素敵な詩が挿入されていること、著者の娘さん、長谷川(戸村)結さん(98回、平成3)が成した挿画は庄内の民具をモチーフにモノクロで描かれており、温かみを感じさせることなどが本著の大きな特徴だと思います。更に、著作の中には、茨木さんには校歌の作詞が僅か2校しかないのだそうですが、その内の一つに「鶴岡市立温海中学校校歌」があること、しかもその作曲者が佐藤敏直さん(62回、昭和30年)であること、それに、著作の中には、茨木のり子さんと夫の安信さんに関わる鶴翔同窓生として、順不同ですが、安信さん(44回,昭和11年)の長兄光彦さん(36回、昭和3年)、光彦さんの長男、医師の三浦宏平さん(66回、昭和34年)、宏平さんの友人で先に掲げた医師の黒羽根洋司さん、茨木さんの母方の叔父、大瀧光次さん(36回、昭和3年)、安信さんの従兄弟、「あつみ温泉萬国屋」の本間律子さん(77回、昭和45年)、そのご主人の本間(斎藤)義左衛門(幸男)さん(74回,昭和42年)、母親が萬国屋出の佐藤(旧姓本間)朋子さん(58回、昭和26年)、茨木のり子さんの母の姉の夫、歯科医師の石黒慶之助さん(39回、昭和6年)、慶之助さんの長男で、同じく歯科医師の石黒慶一さん(67回、昭和35年)、郷土史家の本間勝喜(69回、昭和37年)さん等々大勢の人々の名が出てくること、幕末の庄内を代表する「賢木舎社中」(さかきしゃしゃちゅう)を率いて鈴木重胤(すずきしげたね)の門人になった大山の大瀧三郎(光憲(みつあきら))の名が出てきますが、なんと茨木さんの母方の祖母、光代さんはこの家の出であること、大正4年、山形県が地域のリーダー育成を目的に創設した「山形県立自治講習所」の初代加藤完治所長の名前が出てくること、加えて今は姿を消してしまいましたが、大寶館向かいに音羽屋、鈴木写真館、大川養鶏場、自転車店などの家屋が連坦していたことなどなど、鶴岡に関する事項が沢山出てきます。
 以上のようなことで当該図書は鶴翔同窓生にとっては必読の書だと思うのです。著書の構成、内容の子細についてはここでは敢えて触れません。是非本を手にして目を通していただきたいと思うのです。
2017年02月02日